第38話 保険
十月十五日。そろそろ夏の暑さは消え、季節は秋に変わろうとしていた。
集落で魔獣の群れと戦ったのが八月五日だったから、あれからすでに二ヶ月が経過している。
最初は夏の暑さを乗り切れるか心配していたレンだったが、幸いここの夏は日本の夏ほど蒸し暑くなかったので、クーラーや扇風機がなくても案外平気だった。
この国にも四季があり、しかも季節と月がだいたい日本と一致しているので、レンとしては非常にわかりやすい。
そんな季節の変わり目のこの日、レンはダールゼンの訪問を受けていた。
「領主様。無事に商隊が戻って来ました。大成功です」
「よかった。取引も上手くいったんですね」
笑顔で報告するダールゼン。それを聞いたレンも笑顔になる。
ターベラス王国へ送った三回目の部隊が帰ってきたのだ。この三回目の部隊には大きな意味があった。
最初の一回目は、本当に黒の大森林を抜けられるかどうかを確かめる派遣だった。部隊は行って帰ってきただけだ。
二回目は手紙を持って往復した。行きはマルコから手紙を預かり、ガゼの街のラフマンという商人に届けた。そしてラフマンから渡された返信を持って帰ってきた。
この返信には商品名と個数だけが書かれていたが、それを読んだマルコは、これを仕入れの依頼書と解釈した。書かれていた商品をマルコが仕入れ、その商品を持ってガゼへと向かったのが三回目の部隊だった。
この三回目の部隊は「商隊」と名付けられた。商品を運ぶから商隊。そのままである。
商隊が運んだのは、ここグラウデン王国、さらに南の隣国バドス王国の衣類だった。もちろんターベラス王国では作られていない物ばかりだ。それなりに値が張る生地や衣服で、仕入れ値は金貨五枚ほどになった。
商隊はそれをターベラス王国まで運び、ラフマンに届けた。受け取った代金は金貨九枚である。ほぼ倍の値段で売れたのだ。
元の日本とは物の価値が違うし、さらにグラウデン王国とターベラス王国でも微妙に貨幣の価値が違うため、金貨一枚が日本円でいくらになるのかは非常に難しい。レンは計算しやすくするため金貨一枚を十万円ぐらいと考えているが、それで考えれば四十万円の儲けだ。
倍近い値段で売れたのはいいが、今回だけで考えると微妙な利益だった。五人のダークエルフが往復に二ヶ月かかってこの利益なのだ。しかも命がけの危険な道中だ。幸い、今回も犠牲者は出なかったが。
単純計算でダークエルフ一人一ヶ月の利益が銀貨四枚(四万円)。まだまだ満足できる利益ではない。だが今回は最初のテストのようなものだ。これからもっと高値の商品を運ぶようになれば利益も上がっていくはずだ。
また今回はマルコからラフマンに仕入れを依頼した。これで次回からは帰りも商品を持って帰ってくることになるはずだ。それだけで利益は倍増だろう。
それらのことを考えれば、将来有望である。
「ダークエルフの取り分は仕入れの七割でしたから、金貨三枚と銀貨五枚ですね」
「はい。我々にとっては大金です。しかし本当に領主様の取り分が無しでよかったのですか?」
「僕は何もしていませんから」
金貨五枚で商品を仕入れ、それを金貨九枚で売ったのは、あくまでマルコの取引である。マルコとダークエルフの間には、それとは別の契約が存在している。
契約したのは二ヶ月ほど前、集落での戦いの数日後のことだった。レンが集落から屋敷に戻ってきた日、タイミングよくマルコが南の村にいたのだ。この時レンはラフマンからの返信も預かっていたから、彼を屋敷に呼んで返信を渡し、互いの取り分についても話し合ったのだ。
レンはその時のやりとりを思い返す。
「基本的にマルコさんとラフマンさんが取引して、ダークエルフはそれを運ぶだけ、ということです」
レンはマルコに役割分担について説明した。
「つまり売り上げに関係なく、私はダークエルフたちに一定の運送料を支払う、ということですね?」
どんな物を買って、いくらで売るかはマルコに全て任せる。レンもダークエルフも商売は素人だから、売り買いには手を出さない――少なくともしばらくの間は。
代わりに商品を運ぶ運送料をもらう。これなら例えマルコの取引が赤字になっても、ダークエルフたちは一定の収入を得ることができる。ローリスク・ローリターンだ。マルコがハイリスク・ハイリターンを狙うかどうかは彼次第である。
「その運送料ですが、レン様はどれぐらいをお考えですか?」
「仕入れ値の七割でどうでしょうか?」
「それは……失礼ですが、少し暴利ではありませんか?」
仕入れ値の七割ということは、1.7倍の値段で売って、やっととんとんだ。
「確かに高値で売れる物だけを運ぶつもりですが、物には相場があります。七割では、ちょっと値崩れでもしたら赤字になってしまいます」
七割という割合もそうだが、マルコとしては仕入れ値ではなく、物の大きさや重さで運送料を決めたかった。そうすれば、高価な物を扱うほどマルコの利益が大きくなるからだ。
だがレンの方も何も考えず七割を要求したのではない。それなりの仕組みを考えていた。
「運送料ですが、取引が終わった後の後払いではどうでしょうか?」
「それはありがたいですが……」
先払いだと、最初にある程度の金額を用意する必要があるが、後払いならその分の金も仕入れに回すことができる。だがそれだけではマルコの心は動かない――のはレンも予想済みだ。そこでもう一つの条件を提示する。
「もし商品を運ぶのに失敗した場合、例えば途中で魔獣に襲われて全滅した場合などは、運送料はもらわず、さらに仕入れ値の全額を補償する、というのはどうですか?」
「全額補償ですか?」
それはマルコが考えてもいなかった提案だった。驚いた彼は、それについて考え始める。
レンが言い出した全額補償は、日本人にとっては別に驚くようなことでもないだろう。一種の保険である。
だがこの世界のこの時代では、まだまだ保険は一般的ではなかった。似たような契約を個別で交わすことはあっただろうが、その数も少なく、保険を意味する言葉もまだ存在していない。マルコも聞いたことがなかった。
マルコとどのような契約を結ぶか、レンは事前にダールゼンと話し合っていた。保険はその時にレンが言い出したのだが、ダールゼンも、
「そんなやり方もあるのですね」
と感心していた。
仕入れ値の七割という数字は、実は適当である。
五割ぐらいでどうですか? 七割ぐらいいけるんじゃないですか? といったような決め方だった。
本当はちゃんと成功確率などから計算すべきなのだろうが、まだ二回しか行っていないので計算なんてできない。似たような事例を参考にしようとしても、レンもダークエルフたちもそんな事例を知らなかった。というわけで適当に決めるしかなかったのだ。
そうやって出した七割という数字だから、マルコが高すぎると強く反対すれば引き下げることも考えていたのだが、
「もし途中でダークエルフたちが魔獣に襲われたりして全滅した場合、私が彼らに支払うお金はなし。その上で仕入れの代金を補償してもらえる、ということでいいのですね?」
「はい」
「ですがその場合、ダークエルフたちの損害が大きすぎるのでは?」
「そのための高い料金です」
「なるほど……わかりました。ですが万が一の時、本当にダークエルフたちはお金を払ってくれますか?」
やはりそこを気にするか、とレンは思った。マルコの懸念はもっともだろう。ダークエルフたちが踏み倒した場合、彼には取り立てる手段がない。
「そこは彼らを信用してもらうしか」
「申し訳ありませんが、それは中々難しい相談です」
レンはダークエルフたちを信用しているがマルコは違う。しかも大金のかかった取引だ。簡単には信用できない。
「ではこう考えたらどうでしょう? これからの取引は秘密の取引になります。ダークエルフがマルコさんとの約束を破れば、怒ったマルコさんが秘密を暴露するかもしれない。そうなったら彼らも終わりですから――」
「共犯関係というわけですか。だから秘密は守られると」
互いに信頼関係がなくても、利害が一致していれば取引は成り立つはずだ。
「なるほど、一理ありますね。ですがそれであれば、レン様にも少しご協力願えないでしょうか?」
「僕にですか?」
「我々が一蓮托生だというなら、レン様に一筆いただけないでしょうか? 取引を一回行うごとに、レン様がその全額補償を保証する、ということで」
「いいですよ」
レンがあっさり承諾したので、聞いたマルコの方が驚いた。
名前を書くということは、証拠を残すということだ。
マルコは、きっとレンは証拠を残すのを嫌がるだろうと思っていた。いざという時に知らぬ存ぜぬを貫くために。
そうしておけば、もし密輸がばれても、
「あれはマルコとダークエルフが勝手にやったことで、自分は知らなかった」
と言い逃れできる。
しかし名前を残しておくとそれは難しくなる。本当に全員が一蓮托生だ。
そんなことはしないだろうとマルコは思っていたから、あっさり承諾したことに驚いたのだが、レンの方はとっくに心を決めていたのだ。
今さらダークエルフたちを見捨て、一人で逃げるようなことはしない。
そしてレンが承諾したことでマルコの答えも決められてしまった。
「わかりました。レン様にそうおっしゃっていただけるのなら、この条件で取引いたしましょう」
と答えるしかなかった。
なぜならレンがマルコの出した難しい条件を飲み、譲歩したからだ。
レンには難しい条件ではなかったし、特に譲歩したつもりもなかったが、形の上では譲歩である。
平民のマルコに貴族のレンが譲歩したのだ。ここでマルコがさらに条件を提示したりすれば、それは貴族を見くびった無礼な行動になってしまう。それがこの世界の常識だった。
これは一本とられたかな、とマルコは思った。
もしかすると私がこの条件を持ち出すことを予測していたのかな? だったらやはりこの少年は侮れない、などと一人で深読みする。
だけど、まあそこまで損な取引でもないですしね、とも思った。
仕入れ値の七割は高いが、それでもターベラス王国との直接交易なら利益は出せる。元より値段が二倍、三倍になるような品物だけを扱うつもりだった。取り分は減っても赤字にはならないだろう。
最悪、一度や二度の赤字なら取り返すことができる。
遠距離の取引を行う商人にとって、なにより恐ろしいのは途中で商品が消えることだ。
名前の知られた大商人が、隊商の全滅で大損害を被って破産した、なんていうのはよく聞く話というか、マルコにも経験がある。
昔、参加していた隊商が魔獣に襲われ全滅したことがあるのだ。
あの時は命からがら逃げ出し、どうにか生き延びることができたが、有り金のほとんどを失ってしまった。
隊商を組織した大本の商人はそれで店を傾け、最後は破産してしまった。
マルコにしても、伯父のナバルの助けがなければどうなっていたことか。
魔獣だけではない。盗賊のたぐいはどこにでもいるし、護衛の傭兵が裏切ることもある。
元の世界でも昔の交易は命がけだったが、魔獣という脅威が存在するこの世界では、さらに危険度が高いのだ。
いざという時の全額補償は、その危険からマルコを守ってくれる。後は本当に補償されるのかどうかが心配だが、ダークエルフだけならともかく、間にレンが入っての契約なら、踏み倒される危険はかなり低くなる。
別にマルコはレンを信用しているのではなかった。ただ彼が言った共犯関係という言葉を信用した。共犯者なら簡単には裏切れない。
こうして契約が結ばれ、一回目の商隊が送り出された。
それから約二ヶ月。
商隊は無事に商品を送り届け、代金を受け取って帰還した。
「早く次の取引を行いたいですな」
成功に気をよくしたのか、ダールゼンはかなり乗り気だった。
密輸についてだけではない。
集落の戦いの後でレンと話し合ってから、他のことに関しても彼はかなり積極的に動いていた。
外からダークエルフを呼び、集落の人数も徐々に増えている。
そうやって増えた人員を、ダールゼンは密輸に従事させようと考えていた。そうすればもっと回数を増やし、収入を増やすことができる。
「まだ一回成功しただけです。あせらずいきましょう」
焚き付けたのはレンなのだが、今はむしろブレーキ役に回っていた。
「マルコさんの都合もありますから、次に会ったときに、この先のことについても話してみます」
マルコの本業は巡回商人だ。果たして密輸にどれだけ力を入れる気があるのか、それによって話も変わってくる。
「お願いします」
「でも新しい人を入れるとして、簡単にターベラス王国まで行けるものなんですか?」
商隊はベテランの狩人で編成されたと聞いている。そこへ新人を入れて大丈夫なのか心配になった。
「大丈夫です。多少の被害が出ても、商品だけは守ります」
「いえ、そこは人命優先、安全第一でお願いしますね」
ダークエルフたちは得られる利益の方が大きいなら、犠牲も覚悟で行動する。
この世界では命の危険も当たり前だし、個人より全体を優先するのが彼らの考え方だ。だが、やはりレンには受け入れがたい。だから無茶をしないように何度も言っていた。
「もしもの時は商品も捨てて逃げて下さいよ」
「わかっています。後で取りに戻ればいい、ですね」
そう、商品はその場に捨てて逃げればいいのだ。魔獣はダークエルフを襲っても商品には手を出さない。
これが普通の街道とかなら、そうはいかない。
取りに戻るまでに、他の誰かに奪われてしまう可能性がある。
だが彼らが行くのは黒の大森林だ。そこを通り抜けられる者はダークエルフしかいない。
最悪、商隊が全滅しても、通る道は決まっているのだから運んでいた商品は探し出せるだろう。この場合、下手に荷物を持って逃げるより、その場に捨てて逃げた方が後で回収しやすくなる。だからさっさと捨てて逃げた方がいいのだ。
これ、多分マルコさんは気が付いてないよな、とレンは思った。
商隊が全滅すれば、運んでいた商品も失われると思ったからこそ、仕入れ値の七割という条件を受け入れたに違いない。
仕入れ値が変わらない場合、七割の報酬だと五回に三回成功すれば利益が出る――人的被害を無視した場合だが。
だがレンは例え商隊に被害が出ても、補償金を支払うことはないだろうと考えていた。
マルコを騙しているようで少し後ろめたいが、実際に命をかけるのはダークエルフたちなのだ。そこは受け入れてもらおう。
もちろん、だからといって無茶をする気はない。
繰り返すが安全第一、これは譲れなかった。