第31話 お世話係
この世界に来てから、レンの生活リズムはずいぶん健康的になった。
日の出とともに起きて、日没とともに眠る生活だ。
今朝も窓から差し込む朝日で目覚め、寝ていたバゼの上で体を起こす。
「おはようございます領主様」
声をかけてきたのは枕元に立っていたロゼだ。
「おはよう」
返事をしながら、やっぱり人間は慣れるものだと思った。
最初は、朝起きて誰かが横に立っていることに驚いていたが、数日でそれにも慣れてしまった。
どうして彼女がここにいるかというと、
「では本日は私が領主様のお世話係を務めさせていただきます」
ということだった。
お世話係というのは、レンの身の回りの世話をする係のことだ。
レンが命令してやらせているのではない。どうしてこんなことになったかというと、話は一週間ほど前にさかのぼる。
「レン様、あの……」
いつものように勉強を教えているときに、ディアナが話しかけてきたのだ。
ちなみにこの時教えていたのは算数で、足し算、引き算の筆算の練習問題をやっていた。
「何かわからないところがあった?」
「いえ、そうじゃなくて……レン様に、お願いがあるんです」
おずおずと切り出してきたディアナを見て、珍しいなと思った。
だいぶ打ち解けてきてくれたとは思うが、彼女の引っ込み思案な性格は変わっていない。そんな彼女からお願いをされるというのは珍しい。
「なにかな?」
「あの……私に一日、レン様のお世話をさせていただけないでしょうか?」
「いや、もう十分お世話になってるよ」
今のレンは食事も洗濯も全部やってもらっている。主にやっているのはメイドのバーバラだが、ディアナたち三人も彼女の仕事を手伝っている。
日本では一人暮らしだったから、身の回りのことは一応一通りできる。とはいえ家電もないこの世界では大変な仕事だから、いつも感謝していた。
「いえ、もっとお側でお仕えしたい、です」
これはつまりあれだろうか?
アニメとかのお金持ちキャラのすぐ後ろに控えている召使いみたいに、着替えとかまでお手伝いします、みたいな。
「いや、そこまでしてもらわなくても大丈夫だよ」
「ダメ、ですか……?」
「うっ……」
弱々しい顔でお願いされると弱い。というか、こんな儚げな美少女にお願いされたら、男は誰だって弱いだろう。
だからもうこれは仕方ない。あきらめるしかない。
「わかったよ。それじゃあ一日お願いしてみようかな」
「本当ですか? ありがとうございます」
ぱあっとディアナの顔が明るくなる。
「お礼を言うのは僕の方だと思うんだけどね」
まあ一日ぐらい、いいだろうと思った。
それに正直うれしくもある。こんなことを言ってくれるのだから、少なくとも嫌われてはいないわけだ。
だがこの時レンは気付いていなかった。
一緒に勉強していた残りの二人、ロゼとリゲルが顔を見合わせ、ニヤリと笑い合っていたことに。
この翌日、レンは約束通りお世話されることになった。
朝目覚めるとすでにディアナが部屋に来ていて、
「お、おはようございます。今日一日、お世話係をつとめさせていただきます」
と挨拶されたのだ。
とはいえ特別なにかをやってもらうことはなかった。
朝起きてまずは朝食だが、三人が来てからは四人一緒に食べるようにしていた。これは昼も夜も同じだ。
ちなみにこの国でも食事は基本、朝昼夜の三食である。
この日はディアナが「食事のお世話を」と言い出したが、特にしてもらうことはなかったので、いつも通り四人で一緒に朝食を食べた。
朝食の後は勉強である。
基本、レンは午前中はずっとハンソンの授業を受けている。そしてその間、三人はマーカスやバーバラの手伝いをしている。この頃は仕事も覚え、二人ともよく助かっているようだったが、この日はそこからディアナが抜けて、ずっとレンの側に付いていた。
だが家庭教師のハンソンは大のダークエルフ嫌いである。
最初は同じ部屋にディアナがいることさえ嫌がったが、一切しゃべらず黙っている、という条件で受け入れた。
この差別についてレンとしては言いたいこともあるのだが、この世界の常識ではむしろハンソンの方が正しいのだ。何を言ったところで受け入れてもらえるとは思えず、もう彼については説得をあきらめていた。
勉強中、ディアナはずっと黙ったまま、レンの後ろに立っていた。
途中の休憩時間に、退屈じゃないかと聞いたのだが、
「ハンソン様のお話を聞いているだけで勉強になります」
とのことだった。
そう言ってもらえるなら、まあいいかと思っておいた。
午前中の勉強が終われば昼食だったが、これも朝食と同じくいつも通り。
午後からは日によって色々だ。
三人に勉強を教えたり、剣や弓の練習をしたり、見回りがてらガー太に乗って外へ出たりもする。
外へ出るときも三人は一緒についてくる。ガーガーの群れがいるとよくレンのところへ集まってくるのだが、三人はそれが一番の楽しみのようだ。
相変わらず臆病なはずのガーガーは、なぜかレンだけは全然怖がらずに寄ってくる。ただ三人のことはやはり怖いようで、常におっかなびっくりといった感じだ。
この日の午後は最初は勉強だった。勉強中はレンの世話より勉強優先ということで、いつも通りだった。
その後は庭に出て弓や剣の練習をしたのだが、この時が一番お世話らしいお世話をされた。
水を持ってきてもらったり、タオルで汗を拭いてもらったり。
まるで運動部のマネージャーのようだが、はっきり言ってこれはうれしかった。
アニメなんかで、運動部のイケメンがかわいい後輩マネージャーに慕われて――なんていうのがよくあるが、ずっと帰宅部だったレンにとっては遙か遠くの出来事、二次元にしか存在しない事象だった。
それを実際にやってもらえたのだから感慨もひとしおである。気弱なディアナががんばってやってくれているのを見るとより一層だ。
季節はすでに初夏で、外の練習ではのども渇くし、結構汗もかいた。
春から夏に季節が移ろうとしていたが、この国にもちゃんと四季があるのだ。この地域は夏が涼しい地域だそうで、真夏でもそれほど暑くはならないらしいが、なにしろクーラーどころか扇風機もない。ちゃんと夏を乗り切れるかどうか、少し不安もある。
季節の移り変わりもそうだが、それと同じように時間の数え方も日本とよく似ている。というか太陽暦に似ているのか。確か日本は明治維新で西洋から太陽暦――確か外人の名前が付いていたような――を輸入したと思うが、それによく似ている。
屋敷には時計がないので普段はあまり意識しないが、一日は二十四時間で区切られている。一週間、一ヶ月という単位もあり、そして一年は十二ヶ月の三百五十五日だ。地球より十日少ないが、これは自転とか公転とか、そのあたりに差があるのではないだろうか。この世界の天文学を知らないので、詳しいことはわからないが。
また一時間が本当に地球と同じ一時間なのかもわからない。むしろ時間に微妙な差があって当然だと思うが、これも調べようがないので、もう同じ一時間だと思うようにしている。
一月は基本三十日なのだが、一月だけが二十五日と少ない。五年に一度の閏年もあって、この時は一日少なくなって一月が二十四日、一年三百五十四日となる。
地球と違って一日減るのは、これまた自転や公転の――よくわからないのも同じだ。
十二月に冬至があって、新年は寒い季節、春は三月から四月に始まり、夏の本番は八月というのも同じだ。
レンがこの世界にやってきたのが三月中旬頃のことだった。冬から春に変わろうとしている頃で、まだまだ肌寒かったのを覚えている。
それから三ヶ月ちょっと。ディアナが身の回りの世話をしたいと言い出した日が、六月二十五日だった。日本と違って梅雨はなく、じめじめした天気が続くということもない。
この異世界に来てまだ三ヶ月か、もう三ヶ月か、自分でもよくわからないが、とにかく色々なことがあった三ヶ月だった。元いた世界の数年分ぐらいの濃密な時間を過ごした気がする。それはつまり、元の世界がいかに平穏で、しかし同時にいかに刺激も少なかったか、ということを物語っていた。
夕方まで弓と剣の練習をした後は夕食、暗くなると明かりもないので寝るしかなく、この日もさっさと寝ることにした。
ディアナは寝る前までずっと一緒で、最後に、
「今日は一日ありがとう」
とお礼を言うと、
「はい」
と笑って答えてくれた。
そしておやすみなさいと挨拶を交わし、ディアナは三人部屋へと戻っていった。
バゼの上で横になりながら、たまにはこういうのもいいな、なんて思いながらレンは眠りについた。これで終わったと思っていたのだ。
だが終わってはいなかった。
翌日。
「おはようございます」
目が覚めるとバゼの横にロゼが立っていた。
「おはよう。なにかあったの?」
少し驚きつつ、急用かと思って聞いたのだが、
「いえ特には」
そう言っただけで、ロゼはじっと立ったままだ。
「……あの、なにか用があるんじゃ?」
「いえ。ただ本日は、私が領主様のお世話係を努めさせていただこうと思いまして」
「は?」
昨日のディアナのことを思い出したが、彼女は一日だけと言っていたはずだ。
「はい。ですから今日は私です。一日ごとの日替わりでやらせていただきます」
「いや、そんなことは聞いていないけど」
「そうですか、わかりました。やはり領主様は……」
なんだか悲しそうな顔でロゼがつぶやく。
そういう言い方をされると、気になって聞くしかない。
「僕がどうしたの?」
「領主様はやはりディアナが大変お気に入りなのだな、と思って」
「そんなことはないよ。その――」
ちょっと恥ずかしかったが、ちゃんと言っておかねばと思って言う。
「三人とも同じぐらい好きだよ」
「では私にもお世話係をやらせて下さい」
はめられた、という思いはあったものの、こういう言い方をされると弱い。
結局、この日はロゼがレンのお世話係――そういう呼び方になった――になってしまった。
そして次の日の朝。予想通りというべきか、今度はリゲルがやって来た。
彼がお世話係となり、そしてまた次の日。
一人一日ずつで終わるかも、と思ってもいたのだが、目覚めるとやはりディアナがいた。
ここで「一日だけだったよね?」と確認したのだが、ディアナに悲しそうな顔でお願いされてしまい、あっさり陥落してしまった。
我ながら押しに弱いと思ったが、無理なものは無理である。
こうして一日ごとに交代のお世話係がずっと続くことになった――なってしまったのだ。
「上手くいきましたね」
ロゼは笑いを浮かべて言った。
最初にロゼがお世話係を努めた日の夜のことである。
寝る前、自分たちの部屋でロゼ、ディアナ、リゲルの三人は顔を寄せ合い、計画が上手く運んだことを喜び合っていた。
そう、全てはロゼの計画だった。
前回、いきなり夜這いをかけるという作戦は失敗に終わった。
だが彼女はあきらめていなかった。もっと領主様と親密にならねばならない、と彼女はずっと考え続けてきた。
そこで方針を変えた。
いきなり中心を押し倒すのではなく、まずは足下から切り崩していくことにしたのだ。
そのためのお世話係である。一緒にいる時間を増やし、お役に立ち、少しずつ親密度を上げることから始める。
最初にディアナが頼んだのもロゼの発案だった。
領主様は彼女に頼まれると弱い、とロゼは見抜いていたのだ。
それは上手くいった。上手くいったのだが、なんだか少し気に入らなかった。
自分の作戦通りに上手くいったのだから喜ぶべきなのに、自分でもなにに引っかかっているのかよくわからない。
ただ、例えば、もし最初にディアナではなく自分が頼んでいたらどうだっただろうか?
領主様はあんなにあっさり聞いてくれただろうか? 今日も自分で言ったが、やはり領主様はディアナが一番のお気に入りではないのか――なんてことを考えると少し腹が立ってくるのだ。
まあ、いいです。
今のところ作戦は上手くいっている。それでいいではないかとロゼは思った。