第29話 到達
「ついに抜けたか……」
万感のこもったつぶやきが男の口から漏れた。
男の前には広々とした平原が広がっている。ふり返れば広大な森――黒の大森林がある。
男の名はゼルド。人間ではなくダークエルフだ。他に仲間は三人、男二人と女一人で全員がダークエルフだ。
「やったなゼルド」
「ああ」
笑顔の仲間の言葉に、ゼルドも笑顔で応える。
「集落を出て二十日ぐらいか。どうにか突破できた」
集落を出たのがおよそ二十日前。まずは川を渡り、そこから北に向かって歩き続けてきた。無限に続くかと思われた道のりだったが、ついに今日、黒の大森林を抜けてターベラス王国へ到着した。
楽な道のりではなかった。
彼らは集落を出たときは五人いたのだ。そのうちの一人は、道中の魔獣との戦闘で命を落とした。
ここまで魔獣と戦ったのは六回。だが魔獣と遭遇しそうになった回数はその数倍。彼ら全員がベテランの狩人であり、長年の経験で身につけたカンが魔獣の接近を察知し、可能な限り戦闘を回避してきたのだ。それでも六回戦わざるを得なかった、ともいえるが。
六回の戦いの中で仲間を一人失ったが、ここまでやって来た四人も傷だらけだった。
「食料も残り少ないし、傷薬も使い切った。危ないところだったな」
集落からは干物や硬いパンなどの保存食を持って出たが、道中ではできる限り水や食べ物を現地調達した。それでも保存食は残りわずかになってしまった。
色々と見積もりが甘かったとゼルドは反省した。
言い訳をするなら、普段、彼らはあまり遠出をしない。危険な黒の大森林では野宿するのも命がけだから、狩りに出てもせいぜい二三日で帰ってくる。今回のような長期間の探索は、ベテランの彼らにとっても初めての経験だった。
見た目は二十前後の若者に見えるゼルドだが、彼の実年齢は四十一才である。
また彼らが使い切ったという傷薬は、世界樹の葉から作った傷薬である。
この傷薬は大量の世界樹の葉を煮込み、水気を飛ばして最後に残った部分を集めて作るのだが、使う葉の量に比べてわずかな量しか作れない貴重品だ。
一方で効能は高く、塗り薬として使えば、止血、消毒、化膿止め、治癒力上昇という万能傷薬だし、飲み薬として使えば万病に効果があるとされる。
ただこれはダークエルフに使った場合のことで、人間にも効くかどうかはわからない。
ダークエルフにとっては非常にありがたいこの薬だが、集落ではほとんど使われていない。効能が高いといっても、世界樹の根本で寝る方が治癒効果が高いためだ。単に寝た方が傷の治りが早いのだから、わざわざ薬を使うまでもない。
では世界樹まで来られないような状態なら? 例えば集落の外で重傷を負った場合などだが、そういう場合は薬を使っても手遅れだろう、と割り切っている。冷酷ともいえる割り切りだが、彼らにとっては大切な世界樹の葉を無駄遣いする方が大罪なのだ。よってこの薬が作られることも滅多にない。
今回の探索には、この貴重な薬が人数分用意された。
長期間の危険な探索であること、そしてその探索が重要な意味を持つことの証だった。
実際、この塗り薬は大いに役に立った。
四人とも傷だらけで、あちこちに包帯を巻いているが、その下にはこの傷薬が塗られている。
傷の治りを早める効能もあるが、それより大きかったのが消毒の効果だ。
この世界にも傷口から感染する破傷風のような感染症が存在しており、人々から恐れられていた。
まだウィルスや細菌などが発見されていないため、感染症への対策も確立していない。傷を負うことは危険だが、むしろその後の方が恐ろしいぐらいなのだ。
ダークエルフたちも感染症の原因を知らないが、経験から世界樹の葉の薬を塗っておけば大丈夫、ということは知っていた。
遠出しなければ多少の傷を負ってもあまり気にする必要はない。集落に戻って世界樹の下で寝れば治るからだ。
だが今回のように長期間の探索では、傷の悪化を防ぐための対策をしなければならない。そのための薬だった。
この世界においては、ちゃんと効果のある薬は大変な貴重品である。
そのため、この薬の存在はダークエルフたちにとって絶対の秘密になっている。
古来より権力者が最後に追い求めるのは、自分の健康と相場が決まっている。それは元の世界でもこちらの世界でも変わらない。
もしどこかの王や貴族がこの薬の存在を知ればどうなるか?
高値で買い求める客が殺到する、というのは楽観的すぎるだろう。もしそうなれば集落のダークエルフたちは大金持ちになれるが、おそらくそんな平和的な展開にはなるまい。
邪魔なダークエルフどもを殺して世界樹を手に入れろ、となる可能性が高い。
人間に効くかどうかはわからないが、効くかもしれないというだけで人間は動く、ということをダークエルフたちもよく知っていた。
ゆえにこの薬の存在は絶対の秘密であり、レンにも話してはいなかった。
「さて、抜けたはいいが、これからどちらに向かうべきか……」
ここからすぐにとんぼ返り、とはいかない。
少なくともどこかで食料を仕入れなければならないし、休養も必要だ。
人間相手ではまともな対応は望めないため、ここはやはりどこかのダークエルフを頼らなければならない。
一応、事前の検討はしている。
差別されているダークエルフが、小さな村や街で暮らすのは難しい。だが大都市なら暮らせる場所はある。貧民街などだ。
後は黒の大森林の集落のような隠れ里もあるが、残念ながらこの近辺には存在していない。
ダークエルフたちは独自のネットワークを持っていて、そこでは生きるために必要な情報がやり取りされている。どこそこに集落があるとか、あそこの街へ行けばかくまってもらえるとか。種族全員が明確な序列を持ち、一つの集団として機能するダークエルフならではのネットワークといえる。
だが他国となれば情報の伝達も遅い。彼らが持っているターベラス王国についての情報も、全て数年以上前のものばかり。状況は変わっている可能性もあるが、とりあえずはその情報に頼るべきだろう。
ダークエルフの集落がないなら、やはりどこか大きな街を目指すべきで、彼らは王国南部のガゼという街を目的地に設定していた。南部の中心ともいえる大きな街で、それなりの数のダークエルフたちも住み着いている。
ただゼルドたちは自分たちの現在位置が大まかにしかわからない。ガゼに行くためには、ここからどちらへ進むべきか?
現在位置を把握するだけなら、西へ向かうのがわかりやすい。ここから西に向かえば、いずれルベル川にぶつかる。
ルベル川は青い湖から流れ出た川で、現在はザウス帝国とターベラス王国の国境になっている。この川は北の方へと流れていき、最後は遙か遠くの白氷海へと流れ込む。
川沿いにはいくつの村が点在しており、百キロほど北に行けば川岸にロッシュという大きな街がある。
このロッシュになら迷わず行けるだろうが、ここは目的地から外れた。ロッシュは確かに大きな街なのだが、ザウス帝国との国境にあるため、他の街と比べて色々と警備が厳しいのだ。そのため暮らしているダークエルフもほとんどいないのだ。
一方、そのロッシュからは街道が延びており、それを東に進めば、いずれガゼの街にたどり着く。
「まずは北に向かう。それでどこかの時点で街道にぶつかるはずだから、そこからは街道に沿って東だ」
進むべき方向は決まり、ゼルドたち四人は再び歩き始めた。
「朗報です領主様。探索隊がターベラス王国から戻ってきました」
「本当ですか!? 黒の大森林を抜けられたんですね?」
この日、ダールゼンがいきなりレンの屋敷にやってきた。
いい知らせか、悪い知らせか、来訪を告げられたレンはどちらかわからず緊張したが、現れたダールゼンが笑顔を浮かべているのを見て、いい知らせだとわかった。
そして彼の報告はまさにいい知らせ、レンが待ち望んでいたものだった。
探索隊を送り出したと聞いたのはもう二ヶ月ぐらい前のことだ。最低でも一ヶ月以上はかかるという話だったが、これだけの時間がかかってしまった。だがとにかく北へ抜けられたのだから大成功だろう。
「ターベラス王国のガゼという街まで行き、そこから戻ってきました。残念ながら行きの途中で犠牲者が一人出てしまいましたが――」
「えっ!?」
犠牲者が出たということに驚き、それをなんでもないことのように言うダールゼンにも驚いた。
「犠牲者ってことは、亡くなったんですよね?」
「はい。一名が魔獣との戦いで命を落としました。ですが全滅することもなく、一人の犠牲だけで森を抜けられたのですから成功でしょう。彼の死も無駄にならなくてよかった」
あらためて死生観の違いを思い知らされる。そして自分の甘さも。
彼らは最初から犠牲が出ることを当然と考えて行動していた。そして全体の目的のためには死をも厭わない。
やはり宗教団体を連想してしまう。
世界樹を神とあがめ、そのためには自らの死も恐れない狂信的な信者。それがダークエルフなのではないかと。
「とにかくこれで北への道が開けました。領主様のおっしゃっていた交易にも現実味が出てきたのではないかと」
「でも犠牲者が出たんですよね? 危険なんじゃ……」
「それは元より覚悟の上では?」
「そうなんですけど……」
最初とは主張が逆になりつつあった。
交易――という名の密輸――の話はレンから持ち出したものだが、最初に聞いたダールゼンは難色を示した。危険な川を渡り、北のターベラス王国まで行くのは無理ではないかと思ったからだった。
だが実際にやってみると行けてしまった。一人の犠牲者が出ただけで。元より危険と隣り合わせの彼らにとって、この犠牲は許容範囲だ。これなら行けるとダールゼンは判断した。
しかも危険度はさらに下げることができると考えられた。
一番最初は手探り状態だったため、無駄な回り道も多く、必要以上に気力体力を消耗することになった。だが一度道がつながれば、行程はかなり楽になるし、色々と対策も立てられる。実際、帰り道は四人に減っていたのに犠牲者は出なかった。魔獣が絡む以上、運の要素も大きいが、やはり一度通った道だから、というのが大きい。
一方のレンは犠牲者が出たことで尻込みしてしまった。彼はダークエルフなら犠牲者を出さずに行けるだろうと楽観的に考えすぎていた。危険は承知していたつもりだったが、甘かったというしかなかった。
だけど、とレンは思った。決定権はあくまでダークエルフの側にある。彼らがやれると言うなら、それに協力すべきだろう。
「わかりました。次にマルコさんが来たとき、それとなく話を持ち出してみます」
これまでのマルコの言動を見るに、話に乗ってきてくれる可能性は高いと思う。彼は金稼ぎに熱心な商人だから、多少の危ない橋も渡りそうな気がする。
だが断られる危険性も考慮しておかなければ。最悪なのは伯爵にチクられることだ。
最初はさりげなく話を切り出し、とか考えてレンは気が重くなった。人付き合いが苦手な自分に、そんな上手い会話ができるのだろうか?
自分から言い出したことなのに、少し後悔し始めていた。
「次にマルコさんがやってくるのはいつ頃でしょうか?」
「えーと……」
マルコに最後に会ったのは一週間ぐらい前だった。それから彼はジャガルへ商品を仕入れに向かった。戻ってくるのに一週間から十日。つまり遅くとも数日中にはまた顔を出すだろう。
「ではお話はそのとき、ということですか?」
「そうですね。次に会ったときに話をしてみます」
「お願いします。それと、バゼについては申し訳ありません」
前回マルコがジャガルへ行ったときは、見本として持って行ったバゼは全部売れた。それが一ヶ月ぐらい前のことだ。
その話を聞いたダークエルフたちは本格的なバゼの生産に乗り出し、今回はいよいよ本番の商売開始――とはいかなかった。
バゼ作りが上手く進んでいなかったからだ。
バゼは、バゼのつるを編んだハンモックのようなものだから、作りは単純、材料のつるも森にたくさん、よって簡単に増産可能、という話だったのを、レンが品質重視の方針を打ち出したため流れが変わってしまった。
もっとしっかりした作りで見栄えもよくしよう、ということになったのだが言うはやすし、である。
これまで自分たち用に作ってきたわけで、それをいきなり品質重視と言われても、どこをどれだけ作り込んでいいのかわからない。
結局、試作品を作ってそれをレンがテストするということになった。
レンは職人ではないし、バゼを作ったこともない。だがレンは作りの善し悪しを判断できる見識を持っていた。なぜなら、こちらの世界に来るまで、こちらの世界と比べてはるかに高品質、高精度な家具や道具に囲まれて暮らしていたからだ。
おそらく、この世界で一番贅沢な暮らしを経験している人間といっていい。
もちろん日本の製品とこの世界の製品を比べ、どちらが上だ下だと言っても意味はない。だがそういう製品に囲まれていたからこそ、必然的に品質の判断基準が高くなる。
そんなレンが、これはいいと合格点を与えられれば、それなりの品質になっているはずだ。
そして実際に試作品を作ってのテストが繰り返されたが、やはり苦戦中で、まだ満足いく物が作れていない。このところは数日おきに、試作品を持ったダークエルフが往復している。
マルコからも、品質はそこそこでも売れると思うので、早く数を揃えてほしい、みたいなことを言われたのだが、レンはこの点に関して妥協するつもりはなかった。
いい物を作って売った方が、長い目で見て得になる、ということを信じていた。
「色々と文句ばっかり言ってすみませんが、着実にバゼの品質は上がっています。あと少しだと思うんで、よろしくお願いします」