第244話 それぞれの感想(上)
踊り終えたミリアムは、そのまま舞台袖へ消えようとしたのだが、そこへジョルダンが慌てて駆け寄り、彼女に二言三言つぶやく。
するとミリアムは舞台中央へと戻り、観客に向かってぺこりぺこりと頭を下げ始めた。最初は正面に向かって、その次は右に、そして左にといった感じでお礼しているのだが、不慣れな様子が丸わかりだ。
さっきまで堂々と舞を踊っていた少女と同一人物とは思えない。まるで舞が終わると同時に、魔法が解けてしまったかのようだった。
初々しい様子に、客席からは好意的な笑い声と拍手が上がった。
「国王陛下がご退席なさいます」
案内の声が響き、貴賓席にいた国王が席を立つと、ミリアムだけでなく観客も全員がそちらを向いて一礼した。
国王が退席した後で、他の観客たちも席を立つ。ミリアムや奏者たちも舞台袖へと消えた。
レンも席を立って外へ出る。
そのまま舞台裏へ行ってミリアムをねぎらいたかったが、その前にやるべきことがあった。
城へ帰る国王に、一言挨拶しておかねばならない。
国王が通る通路は決まっていて、そこへ通じる道は城から連れてきた近衛兵と、聖堂付きの神聖騎士ががっちりガードしていた。部外者は立ち入り禁止だが、あらかじめ話が通っていたのか、レンが行くとすんなり通してくれた。
「陛下」
後ろから声をかけると、廊下を歩いていた国王が足を止めて振り返った。彼の隣にはハガロン大司教もいる。
「レンか。今日の舞はよかったぞ。久々に心が洗われたような気分だ」
舞の感想を訊ねる前に、向こうから笑顔で応えくれた。どうやら好評のようだとホッとした。
もちろんレンは素晴らしい舞台だったと思っていたし、観客もスタンディングオベーションで応えていたが、楽しめたかどうかは個人差が大きい。一番重要なのは、やはり国王の感想だった。
「今まで色々な舞を見てきたが、あのような子供が、あれほどの舞を踊るのは見たことがない。あの子は何という名前だ?」
「ミリアムと申します」
「ミリアムか。その名前、覚えておこう。レンよ、あの舞い手はお前のものかもしれないが、あれほどの才能を潰したとなれば、それはお前の罪になる。決して無体なことはせず、大事に育て上げるのだ。わかったな?」
「はい。ありがとうございます」
国王に言われるまでもなく、レンもそのつもりだった。
「オーバンス殿。今、陛下がおっしゃった通り、今日の舞は見事だった」
ハガロン大司教が言ってきた。
「才能ある舞い手とは聞いていたが、あれほどとは思っていなかった。シャンティエ大聖堂で踊ることに反対する者もいたのだが、舞台を提供できてよかったと思っている」
「マローネ司教から、ハガロン大司教がご尽力していただいたことは聞いております。今日の舞台が成功したのも、全てハガロン大司教のおかげです。本当にありがとうございました」
「いやいや、それは言い過ぎだ。私は大したことはしてない」
見え見えのお世辞だったが、ハガロン大司教もまんざらではなさそうだ。
レンもこれぐらいのお世辞は言える、というか今のは仕事中の会話みたいなもので、そういう会話のほうがやりやすい。一番困るのは雑談とか、そっち系の会話だった。
上機嫌の二人を見送ったレンは、今度こそミリアムの様子を見に行こうと控え室へと向かったのだが、控え室前の廊下には人があふれていた。
多くの観客が、ミリアムやジョルダンと話をしようと、控え室へ詰めかけたのだ。
これが庶民なら立ち入り禁止と追い返せばいいが、観客の多くは貴族だったので、警備に当たる教会の兵士たちも、彼らを追い返せなかった。
ミリアムやジョルダン、他の奏者たちも貴族に囲まれ話をしている。ジョルダンたちはこういう対応も慣れたものだったが、不慣れなミリアムには師匠のアマロワが付いて、会話の手助けをしていた。
その人々の中に割って入る勇気のなかったレンは、後でいいか、と立ち去ろうとしたのだが、ちょっとした騒ぎが起こって足を止めた。
どうやら貴族同士が言い争っているようだ。
「ギブリー伯爵とベンゲル伯爵ですね。ベンゲル伯爵の方はともかく、ギブリー伯爵があのように怒るとは珍しい」
いつの間にか横に来ていたマローネ司教が、誰と誰が言い争っているのかを教えてくれた。
ベンゲル伯爵の名に聞き覚えはなかったが、ギブリー伯爵のことは覚えていた。
「確かフィリア狂いとか呼ばれている方でしたっけ?」
「はい。ですが伯爵は温和な方と聞いております。それがあのように怒るとは何があったのか」
「もしかして舞の内容がひどすぎて怒ってるとか?」
冗談交じりでレンが言う。こういう冗談が言えるのも、ミリアムの舞が素晴らしかったと思っているからだ。熱狂的なファンというギブリー伯爵にも気に入ってもらえたと思うのだが、ではなぜあんな風に言い争っているのか。
「伯爵は、色々な誘惑のフィリアを見てきた方ですが、どんな舞であっても残念そうな顔をするだけで、不満を言ったりはしなかったそうなのですが」
レンにも伯爵の人物像がつかめてきた。きっと懐の深いファンなのだろう。自分の求めるものとは違っても、これはこれ、と受け止められるような。だから余計に怒っている理由がわからなくなったのだが……
「あの、なんかメチャクチャ文句言ってません?」
「言ってますね……」
レンの言葉に、マローネが思案顔で答える。
ギブリー伯爵とベンゲル伯爵の言い争いを聞いていると、ギブリー伯爵はミリアムの舞をきつい口調で非難していた。
「私には卿をはじめとして、なぜ皆さんが先ほどの舞を評価するのか、全くわかりませんな。あんなものは誘惑のフィリアではないでしょう。フィリアとは男を惑わす女性であり、その魅力あってこそ物語が成り立つのです。それをあのような子供に変えるなど、もはや原形をとどめていない別物です」
などと文句を言うギブリー伯爵に対し、ベンゲル伯爵はミリアムの舞を素晴らしかったと擁護している。また周囲の他の貴族たちもベンゲル伯爵に味方しているようで、ギブリー伯爵は孤立無援のような状況なのだが、なんだかそれがギブリー伯爵の闘志をさらに奮い立たせているようにも見える。
これはあれだな、とレンは思った。
日本にいた頃、何度も見たことがある信者とアンチのケンカだ。レンも参加したことがある――ネットでだが。
どこでも人間同士の争いは変わらないんだなあと思うレンだったが、今まで不満を言ったことがないというギブリー伯爵が、どうしてあんなに怒っているのかは気になった。ちゃんと理由を聞いてみたいと思うが、今はかなり興奮しているようだし、後にした方がいいだろう。
興奮するギブリー伯爵のすぐ後ろには、目に涙を浮かべている男がいた。伯爵に長年仕えてきた執事だ。
すっかり気弱になっていた主の、こんなに元気な姿を見るのはいつぶりだろうか。
執事の目に浮かぶ涙は、うれし泣きだった。
伯爵はこれまで何度も誘惑のフィリアを見に行き、そのほとんどに執事はお供としてついて行った。
結果はいつも同じ。
楽しみにしながら舞を見に行っても、見終われば残念そうな顔で、
「やはりディアンナのような舞い手は中々出てこないな……」
などとつぶやいてばかりだった。それでも舞を見て、このように怒った伯爵を見るのは、長年仕えている執事にとっても初めてのことだ。
それほどひどい舞だったのか? と逆に興味がわいた。いつものことだが、執事は外で待機していて舞を見ていない。
だがどんな舞であれ、伯爵が元気になったならそれでいい。苦労して今日の舞台の席を取ったかいがあった。名前も知らぬ今日の舞い手に、執事は深く感謝した。
怒っているギブリー伯爵はかなり目立っていたが、観客の中には他にも怒っている人間が二人いた。理由はそれぞれ違ったが。
一人は近衛騎士団長のドーゼル公爵だった。彼はこの舞台の発案者の一人と言ってもよかった。式典でレンに恥をかかされた意趣返しに、国王を招待する舞台をやってはどうかと言い出したのだから。
公爵がそんなことを言ったのは、失敗する確信があったからだ。公爵は貴族のたしなみとして舞にもそれなりの造詣を持っており、幼い少女が誘惑のフィリアを踊れるはずがないと思っていた。
レンがジョルダンを呼んだと聞いた時には少し驚いたが、素人にありがちなミスと笑っていた。自分の舞い手に箔をつけようと、人気の奏者を呼ぶのはよくあることなのだが、ほとんど失敗に終わる。舞い手と奏者の実力に差があると、かえって舞い手の実力不足が露呈してしまう。
だから余裕を持って今日の舞台を見に来たというのに、終わってみれば大成功だった。
ドーゼル公爵は最初から今日の舞台をけなす気満々だったが、見終わった今では、それがかなり難しいとわかっている。
今日の舞台は素晴らしかった。なまじ舞を知っているからこそ、今日の舞台を悪く言うことができない。おそらく今日の舞台は大きな話題になるだろう。主催者のレンの名前も高まるに違いない。
それがわかっているのに、何もできないのが余計に腹立たしかった。
そしてもう一人、観客の中にレンを激しく憎んでいる者がいた。
彼の名はラカルド子爵。年は三十一歳、痩せ型でちょっと神経質そうな顔をしていた。
ラカルド子爵とレンに直接の面識はない。レンは彼の名前も知らなかった。だが子爵にはレンを憎む理由があった。なぜなら彼の愛する少女を、レンが強奪したからだ。
このラカルド子爵こそ、最初にミリアムを身請けしようとした貴族だった。
そもそもレンがミリアムの後援者になったのは、強引に身請けしようとする貴族から救うためだった。その貴族が彼である。
ラカルド子爵は自他共に認める、そういう趣味の持ち主だ。同年代の正妻はいるが、夫婦仲は冷め切っている。なぜならラカルド子爵が十代前半の少女ばかりを愛人にしていたからだ。
彼の好みは徹底していて、気に入って愛人にした少女でも、十七、八ぐらいになると興味を失って捨ててしまう。
そんな子爵だったが、意外なことに周囲の評判はそこまで悪くなかった。この時代でもそういう趣味の人間は軽蔑の対象だったが、ラカルド子爵は成長して守備範囲から外れた少女を捨てる際も、いきなり追放するようなことはなく、ちゃんと嫁ぎ先を世話していた。
この時代、権力者が自分の愛人を部下に与えたりすることは普通に行われていた。女性が物扱いされていたわけだが、何もなしに捨てられることに比べれば、ラカルド子爵はきちんと女性の面倒を見ていたことになる。
物扱いとはいえ、部下にしてみれば主君からの贈り物なので粗末に扱うことはできない。幸せな結婚生活を送っている女性もいたので、彼女たちを一概に不幸だと決めつけることもできなかった。
そんなこんなで子爵は、
「女性の趣味は悪いが、面倒見のいい誠実な男だ」
などと評価されてもいた。それがこの世界の貴族の常識だったのだ。
そんなラカルド子爵だったが、今日ここに来るまでは、レンのことも別に憎んではいなかった。
ミリアムを身請けしようとして、それを横からレンに邪魔された形になったが、元々ミリアムにはそれほど執着していたわけではない。ちょっといいな、と思ったぐらいだ。
だからレンが横から割り込んできたときも、おとなしく引き下がった。多少の迷惑料ももらったし、それでよしとしたのである。
それがつい先日、レンの舞台のことを知った。ミリアムのことなど忘れていた子爵だったが、
「あの娘か……」
奪い去られた娘がどんな舞を踊るのか、少し興味がわいて今日の舞台にやって来たのだ。
どうせたいしたことはあるまい、と思っていた。あんな小さな舞団の舞い手見習いが、なぜ国王陛下に舞を披露することになったのか、むしろそちらの方に興味があった。
しかし舞台を見て、ラカルド子爵の心は一変した。
そこには彼の理想があった。
幼く、穢れを知らぬような純真な少女から、一途に愛を向けられる――それこそラカルド子爵がずっと思い描いてきた夢だった。
金を出せば、好みの少女を手に入れることはできる。だがそれで心まで手に入れることはできない。金で少女を買い漁っていながら、子爵にはそういうピュアとも呼べる部分があった。
他人が聞いたら、何を自分勝手なことを、とあきれるだろうが子爵本人は真剣であった。
ミリアムが舞う誘惑のフィリアは、そんな子爵の夢と理想の具現化であり、子爵はフィリアに愛される青年神父と自分を重ね、舞台の上の彼女に恋した。
五十年前、ディアンナ演じるフィリアに多くの男が心奪われたように、子爵はミリアム演じるフィリアに心奪われたのだ。
同時に激しい怒りも湧き起こった。
本来なら、あの少女は自分のものになるはずだった。愛する二人は舞台のように結ばれるはずだった。それを横からレンが割り込んできて彼女を奪い去ったのだ。
もし子爵がミリアムを身請けしていれば、その時点で舞をやめさせていただろうから、ミリアムが誘惑のフィリアを舞うこともなかったはずである。しかし嫉妬に狂う彼にそんな正論が通用するはずもない。
彼の中では、愛し合うはずだった二人を、レンが無理矢理引き裂いたというストーリーができあがっていた。泣き叫ぶミリアムに、下卑た笑いを浮かべるレンが襲いかかるシーンが、頭の中に浮かび上がっていた。自分に助けを求めるミリアムの声が聞こえていた。
あの娘を救い出さねばならない――レンに対する嫉妬を正義の怒りへと置き換え、ラカルド子爵は心の中で固く誓った。
また更新が遅れてごめんなさい。
長くなりすぎて終わらなかったのを二つにわけたので、下はなんとか明日中には……