第242話 開演
「調子はどんな感じですか?」
「時間はギリギリでしたが、どうにか仕上がりました。明日はご満足いただけると思いますよ」
レンの問いかけに、ジョルダンが自信に満ちた口調で答えた。
いよいよ舞台前日、レンは久しぶりに稽古場を訪れていた。
マローネ司教が手配してくれたこの稽古場は広くて清潔、宿泊用の部屋もあり、下働きの人間も手配してくれるなど至れり尽くせりだった。ミリアムやジョルダン、他の奏者や関係者たちも全員ここへ泊まり込み、今日まで猛練習を積んできた。
練習の進み具合が気になるレンだったが、自分が行っても役に立たないし、それどころか邪魔になるだけだからと、稽古場に行くのを自重していた。前日の今日は久しぶりにやって来たのだ。
連日の猛特訓によるものか、ジョルダンの顔には疲労がにじんでいたが、目にはやる気が満ちていた。
仕上がったという彼の言葉にウソはなさそうだ。ここに来るまでちょっと不安が残っていたがそれも消え、明日が楽しみになってきた。
レンは途中の練習を見ていないので、どのように仕上がったのか知らない。明日は自分も観客の一人として舞台を楽しむつもりだ。
「レン様」
「やあミリアム」
練習を終えたミリアムが稽古場から出てきた。
今日は午前中に最後の通しの練習を行い、その後は明日に備えての休養となっていて、ちょうど今、その最後の練習が終わったところだった。
それでは、と一礼して歩き去ったジョルダンが、
「オーバンス様、あの子はすごいですね」
去り際に一言、ポツリと言い残していった。
「えっ?」
と聞き返そうとしたレンだったが、ジョルダンはそのまま歩いて行ったので聞きそびれた。
どういう意味だろう?
気になったが、ミリアムが来たのでそっちに向き直る。
「その衣装よく似合ってるね。とってもかわいいよ」
「ありがとう」
本番前の最後の練習ということで、ミリアムは本番用の衣装を着ていた。
ふんわりとした感じの白いドレスだ。練習の時も白いドレスを着ていたりしたが、同じドレスでも全然違う。
サイズがピッタリなのは、ミリアムの体型に合わせて仕立て直したからだ。時間が足りないので一からの新作ではなく、既存の服を直したそうだが、レンには新作にしか見えない。
裾や襟元などに細かい衣装が施されているが、ゴテゴテした派手さはなく、全体の印象はシンプルですっきりしている。
相場より高めの賃金を用意して、腕のいい職人をかき集めたそうだが、その甲斐あって素晴らしい出来映えだ。服にはほとんど興味がないレンでも、一目でよい品だとわかるほどに。
「練習の方はどう? 上手に踊れるようになった?」
「うーん……しんどかったけど楽しかった?」
なんと言ったらいいのか、ミリアム自身もよくわかっていないような感じだったが、レンには彼女もさっきのジョルダンと同じように見えた。
疲れているけど、やる気がみなぎっている。
こちらも、これなら大丈夫そうだ。
「しんどくても楽しいのならよかった。明日はいよいよ本番だから、がんばってね」
「うん」
とうなずいたミリアムが、思い出したように付け足す。
「あ、レン様のためにがんばります」
「僕のため?」
「お師匠様が言ってました。わたしが舞を踊れるのはレン様のおかげで、だから明日はレン様のためにがんばりなさいって」
「うーん……僕のためにって言ってくれるのはうれしいけど、ミリアムはそんなことは気にしなくていいよ」
軽く笑いながら、レンはミリアムに言い聞かせる。
「僕はがんばってるミリアムを応援したいだけなんだ。だからもし、ミリアムがもう舞を踊りたくないと思ったら、その時はやめてもいいんだよ」
「やめません」
静かだが強い口調でミリアムが断言する。
「わかってるよ。だからミリアムは自分のためにがんばればいい。わかってくれた?」
言いたいことがどこまで伝わったかはわからない。ミリアムもちょっとわからないような顔をしていたが、それでもコクリとうなずいてくれた。
と思ったら、不意にミリアムが腰のあたりにギュッと抱きついてきた。
「どうかした?」
「お師匠様がフィリアになるためには、レン様を好きになればいいって言うから」
役になりきるためには、演じるキャラの気持ちを理解しなければならない、というのはレンにもわかる。恋するフィリアを演じるならば、自分も誰かに恋すればいいというわけだ。
その手頃な相手がレンなのだろうが、好きになれと言われてなれるものでもないだろう。
冗談交じりに聞いてみる。
「それでミリアムは僕のこと好きなの?」
「わからない」
上目遣いで答えるミリアムに、レンは苦笑する。まあそんなものだろう。
「ミリアム、こっちに来て服を着替えてから休みな!」
稽古場の中からアマロワの呼び声が聞こえた。
「それじゃあ明日はがんばってね」
「うん」
笑顔で応えて、ミリアムは走って戻っていった。
翌日。
シャンティエ大聖堂には、朝から多くの馬車がやって来ていた。
大聖堂への馬車の乗り入れは原則禁止なので、馬車は正門前で止まり、客は徒歩で正門をくぐる。
そんな中、一台の馬車が止まることなく正門を通り過ぎた。
馬車で入るのが許されているのは聖堂長と国王だけだったが、その馬車には王家の紋章が描かれていた。国王が到着したのだ。
馬車は前庭を通って大聖堂の前で止まり、中から国王がゆっくりと下りてくる。
出迎えたのはハガロン大司教だ。
「ようこそおいで下さいました国王陛下。本来なら聖堂長がお出迎えすべきなのですが、病のため体調が思わしくなく、本日は私が代理を務めさせていただきます」
「よろしく頼む。聖堂長は教会にとっても、この国にとっても大事な方だ。早く快復されることを祈っておる」
挨拶を交わした二人は、並んで大聖堂へと入る。
今日は舞を見るためやって来た国王だったが、開演まではまだ時間があるので、それまでハガロン大司教と会談することになっている。二人にとっては、舞ではなくそちらの会談の方がメインだった。
「国王陛下も来ましたけど、他にもお客さん、けっこう来てますね」
窓から大聖堂の方を眺めながらレンが言う。
彼がいたのは大聖堂に隣接する劇場の三階だった。ここは客室ではなく、出演者やスタッフの控え室だったが、レンは関係者扱いでここに案内されていた。
「今日の舞はかなり話題になっていますから」
答えたのは横にいたマローネ司教だ。
今日は国王も来るし、彼も忙しいようなのだが、わざわざレンの様子を見に来てくれたところだ。
「話題になってるんですか?」
「なっていますよ。舞い手ではなく奏者の方で、ですが」
当初から話題ではあった。
ただ当初は、国王がシャンティエ大聖堂を訪れることが話題になったのであり、舞の中身など誰も気にしていなかった。
それが舞の方も話題になり始めたのは、ジョルダンが出演を決め、他にも人気の奏者が出演を決めたからだ。しかも他の仕事が入っていたのをキャンセルし、急遽メンバーが集められている。
「陛下のご希望だろうか?」
「教会側が気合いを入れて奏者を揃えたんじゃないのか? 舞い手は無名、奏者も無名じゃ格好がつかないから」
「いずれにしろ、多額の金が動いたようだ」
といった話から始まり、舞にも興味を示す者が出てきた。
「聞けば誘惑のフィリアをやるそうですが、中身を変えるらしいですな?」
「シャンティエ大聖堂でやるからですか? 教会は誘惑のフィリアを嫌っていますからな」
「しかし変えるといってもどのように?」
「それがよくわからないのですよ。当日、国王陛下にお目にかけるまでは秘密だそうで」
そういうことを聞けば、見てみたくなるのが人情である。金とヒマのある貴族たちが興味を示し、見てみたいと思う者が現れだした。
今回の舞台はチケットを売ったりせず、招待客だけが入れる形式だが、これも貴族たちを刺激した。
一般客が入れない特別な舞台を、国王陛下とともに見るというのは、貴族にとっては名誉なことであった。何より彼らは特別扱いが大好きなのだ。
招待客については、本来なら一応の主催者であるレンが決めることだった。
普通の貴族なら大いに張り切る場面だ。
交友関係を広げ、他の貴族に恩を売るチャンスでもある。
だがレンは面倒くさいと放り投げてしまった。選べといわれても、誰を選んでいいのか全くわからないので、国王以外の招待客を誰にするかはマローネにお任せした。だからどれだけの客が来るのかもよくわかっていなかった。
「おや、あの馬車は……」
「どうかしましたか?」
また一台、馬車が到着したようだ。
大きくて豪華な馬車だったが、貴族の馬車はそういう馬車ばかりなので、特に目立つような馬車ではなかった。
中から下りてきたのは老人だった。
「あの方はギブリー伯爵です。伯爵のことはご存じありませんか?」
「知らないです」
聞いたことのない名前だった。
「ギブリー伯爵は大の誘惑のフィリア好きでして。誘惑のフィリアが上演されると聞けば、庶民が行くような小さな劇場にまで足を運んだりして、王都で上演される誘惑のフィリアは全部見ているとも言われています。それでついたあだ名がフィリア狂いです」
という話を聞いても、レンはあまり驚かなかった。
どこの世界にも同じような人がいるんだなあと思っただけだ。
現代日本なら、色々な分野で熱心なファンというのはたくさんいた。アイドルなどの熱心な追っかけが日本全国を回る、なんていうのもよく聞いた。そのギブリー伯爵もそれと同じような人種だろう。
レンの考えは間違っていなかったが、この世界ではそういう人種はごく少数だった。
これは社会の豊かさの問題だ。趣味に没頭するためには、社会が安定していて、自分もそれなりに豊かでなければならない。この世界ではほとんどの人間が生きていくだけで必死で、趣味に没頭できるほど豊かな人間は少なかった。
このためギブリー伯爵は変わり者としてとても有名だった。
「舞の世界でもギブリー伯爵は有名人ですよ」
「本当に誘惑のフィリアが好きなんですね」
「実は伯爵が好きなのは誘惑のフィリアという舞ではなく、舞い手のディアンナだという話もあります」
「それなのに誘惑のフィリアを?」
若くして亡くなったディアンナには、いまだにファンが多いという話は聞いた。彼女が亡くなったのは五十年前だが、ギブリー伯爵も高齢だ。彼が昔からのファンでもおかしくない。
しかしそれがどうしてフィリア狂いと呼ばれるほど、誘惑のフィリアを見まくっているのか、そこがわからない。
「ディアンナに匹敵するような舞い手を捜しているらしいです。残念ながら、伯爵を満足させるような舞い手は見つかっていないようですが」
この世界には録画も録音もない。気に入った舞い手がいても、本人が亡くなれば二度と見ることはできない。
ディアンナの熱狂的なファンだったギブリー伯爵は、もう一度彼女の舞を見たいと願い、同じように踊れる舞い手を捜すため舞台に通い続けたというわけだ。
「ですがそのギブリー伯爵も高齢。近頃は体調を崩し、舞台を見に行くこともなくなったと聞いていました。今日の舞台を見に行きたいという話を聞いたときも、本当に来られるのかどうか心配していたのですが」
マローネの言う通り、ギブリー伯爵の体調はあまりよくないようだ。一人では歩くのもつらいようで、部下に支えられながら歩いている。そこまでして舞を見ようというのだから、執念を感じさせた。
「ドーゼル公爵もいらっしゃったようです」
「やっぱり来たんですね……」
レンが嫌そうな顔になる。
あのドーゼル公爵がダンスパーティーで余計なことを言い出さなければ、ミリアムは誘惑のフィリアではなく、もっと踊りやすい別の舞を選んでいたはずだ。レンもここまで苦労することはなかっただろう。
式典の出来事のせいでドーゼル公爵はレンを恨んでいる。今日の舞台の出来がどうであれ、公爵は悪口を言いふらそうとするに違いない。
「呼ばなくてもよかったのに」
「こちらから招待したのではなく、公爵から行きたいと申し入れがあったのです。それを断るのは難しいですし、もし断っていれば、さらに恨みを買うことになりますよ?」
それはレンにも容易に想像できた。
「今回の舞台には多くの方がいらしています。出来がよければ、公爵が悪評を広めようとしても無理でしょう。後はミリアムさんの実力次第です」
結局最後はそこだった。マローネの言う通り、後はもうミリアムに期待するしかなかった。
劇場の客席はほぼ埋まっていた。
シャンティエ大聖堂の劇場の客席はおよそ千二百席。二階席もあって、そちらは全て個室となっている。
国王とハガロン大司教は、その二階席の中でも最上級の貴賓席に並んで座っていた。
国王が貴賓席に入ってきた際にはアナウンスがあり、他の観客は立ち上がって、一礼して出迎えていた。
レンも望めば二階席を用意してもらえたが、そこではなく一階席の最前列中央を用意してもらった。舞を見るならそこが一番の特等席だ。
そしていよいよ舞台の幕が上がった。