第235話 準備
ミリアムの師匠のアマロワは、若い頃は将来を期待された舞い手だった。美しさと舞の才能を兼ね備えていただけでなく、観客を魅了する華のある舞い手だった
周囲からほめられ、アマロワ自身も自分には才能があると認識していたが、今思えばそれがよくなかった。
自信を持つのはいいことだが、それが過信になれば害悪だし、高慢になって周囲を見下すようでは最悪だ。当時の彼女はおだてられて調子に乗り、敵を作りすぎたのだ。
ある日、道を歩いていたアマロワは暴漢に襲われた。見知らぬ男から、いきなり何かの薬品をかけられたのだ。とっさ反応して顔にかかるのはよけたが、左肩から左肘のあたりまで薬を浴び、そこは火で焼かれたようにただれた。
それで生死の境をさまよったが、どうにか回復して助かった。しかし焼きただれたような皮膚は元には戻らなかった。
舞い手は扇情的な服を着ることも多い。左肩から胸、腕をさらせないようでは舞い手としては終わりである。命は助かったが舞い手としての彼女は死んだのだ。
犯人はわからずじまい。
おそらく彼女のことを妬んだ同僚の舞い手の誰かだ。単独なのか、もしかしたら同僚全員が結託していてもおかしくなかった。それほど当時の彼女は嫌われていたのだ。
今ならわかる。あれは自業自得の面もあった。
舞い手は一人で舞を踊るが、決して一人では舞を踊れない。
音楽を奏でる奏者、裏方で支える無団や劇場の人間。同僚の舞い手たちとも支え合わねばならない。そんな当たり前のことを、当時のアマロワはわかっていなかったのだ。
事件のせいで、一時は本気で死ぬことも考えた。舞い手として終わったので、そのまま見捨てられていれば、本人にその気がなくても野垂れ死んでいた可能性は高い。
だが彼女のことを不憫に思ったとある舞団の団長が、彼女を舞の師匠として雇ってくれた。
最初はイラつき、指導にも身が入らなかったが、ひたむきに練習する舞い手見習いたちと接しているうちに、彼女の心境も変わっていった。
自分は失敗した。だったらこの子たちが同じ失敗を繰り返さないように見守ってやろう――そう思えるようになったのだ。
そうやって数十年。多くの舞い手を育ててきたアマロワだったが、胸に抱いてきたもう一つの願いは未だかなっていない。
自分を超えるような舞い手を育てたい――それは師匠を続けるうちに、自然と芽生えた思いだった。
だがそれなりに育った舞い手はいても、自分を超えるどころか、自分に匹敵するような弟子とは巡り会えないままだった。
そんな中、ミリアムは久しぶりに出会った才能を感じさせる少女だった。
アマロワが考える舞の才能というのは、見た目が美しいとか、動きが正確だとか、そういうわかりやすいものではない。一流と呼ばれる舞い手には、人を引きつける魅力がなければならない。舞い手たちの世界ではそれを華と呼ぶが、アマロワも華がなんなのか言葉では上手く説明できない。
同じような舞を踊っても、問答無用に人を引きつける舞い手がいる。それが華のある舞い手だ。
アマロワがミリアムには華があると感じたのもカンであり、言葉では説明できない。
自分もだいぶ年老いた。おそらくミリアムが最後の弟子になるだろうし、その成長を最期まで見届けられるかどうかもわからないと思っていたが、いきなりとんでもないチャンスが巡ってきた。
あのシャンティエ大聖堂で自分の弟子が踊る――そう思ったときには、彼女は自分の全てをかける覚悟を決めていた。見果てぬ夢がかなうかもしれないのだ。命を捨てても惜しくはない。
もし失敗したら責任をとって死ぬというのは本気の言葉だった。
命を捨てた死兵ほど強いものはない。
アマロワの気迫に押され、団長もミリアムが踊ることを承諾した。ただし条件付きで。
「怪我をするのはいつでもできますからね」
というマローネ司教の言葉を受けて、ギリギリまで練習して、それでもミリアムが満足に誘惑のフィリアを踊れないなら、怪我をしたことにして今回の話はなかったことにする、ということになった。
この日から、アマロワとミリアムの猛特訓が始まった。
今回はレンが踊るわけではないし、舞のことも何もわからない。だから後はお任せ――とはならなかった。
国王に舞を披露するにあたって、色々と先立つ物が必要となったからだ。
「先日、オーバンス様には十分な援助をいただいたのですが……」
ドーソン団長が、レンに向かって申し訳なさそうに言った。
レンはミリアムの後援者になる際、向こうの言い値で金貨五十枚を支払った。これは相場から見てかなりの大金である。レンはそれを知らずにポンと出したわけだが。
後援者が出した金で、舞い手は準備を整える。衣装やら何やらで金がかかるものだが、それでも金貨五十枚あれば十分なはずだった。街の小さな劇場で踊るなら。
しかし国王に披露するとなると話は違ってくる。
衣装や装飾品も最上級のものを用意せねばならないし、今回は音楽を奏でる奏者を雇う金も必要だった。
ドーソンの舞団にも奏者はいるが、とてもではないが国王に聞かせられるような腕はない。だから外部の一流の人間を雇わねばならなかった。
劇場の使用料も問題だ。
普通は客を入れて金を取り、その金を劇場と舞団とで分ける。しかし今回の客は国王や貴族たちだ。国王から料金を取るなど、恐れ多くてできるはずがない。だから劇場の使用料もこちらの持ち出しとなる。
ただしこれについてはマローネ司教が、
「寄進については、私の方からも話をしてみます。さすがに無料でお貸しするわけにはいかないと思いますが」
教会なので使用料ではなく寄進という名目になるが、それは少しは安くなりそうだった。だがそれでもただとはいかないようなので、やっぱり金がかかる。
「それら諸々を考えますと、いただいた物だけでは、とてもまかなえず……」
「わかりました。僕の方でも心当たりをあたってみます」
こうなった原因はレンにもあるので、できる限り費用を用立てようと思った。とはいえ持ち合わせはもうない。先日支払った金貨五十枚が、彼が所持していた全額だった。
レンはこちらの世界に来てから、自分のために大金を使ったことがなかった。別に無欲というわけではなく、大金を払ってまで欲しいと思う物がなかったからだが、おかげで現在の所持金はゼロだ。
お金のあてはあった。
商人のマルコ、ダークエルフのリーダのゼルド、どちらも、
「お金が必要ならば言って下さい。すぐに用立てますので」
と言ってくれているので、頼めば用意してもらえるだろう。
実は金貨五十枚を使い切った時点で、黒の大森林の集落へ使いは出しているのだ。全額使っちゃったんでもう少し用意して下さい、といった感じで。
ただそれがいつ帰ってくるかわからない。本番まで一ヶ月、間に合わない可能性も高い。
王都近郊のダークエルフの集落にもある程度の金はあったが、これは彼らの生活費でもあるので、そこに手をつけるのはマズい。
じゃあやっぱりあの人に頼むしかないか……
気乗りはしなかったが、他に頼める相手がいないので仕方ない。
次の日、レンはその相手――犯罪ギルドの幹部のシーゲルに会いに行った。
犯罪ギルドは金貸しもやっていると聞いたことがあった。前の世界でいう闇金だ。利子はバカ高いだろうし、そんなところで借金したくはなかったが、他に頼める相手が思いつかなかったのだ。
「よう兄弟。そういや例の式典やパーティーは一昨日だったよな? 上手くいったのか?」
いつものように調子よく挨拶してきたシーゲルに、レンはパーティーでの出来事を話し、お金を貸してもらえないかと頼んでみた。
「おいおい兄弟。金を貸せとか、そんなふざけたことを言うんじゃねえよ」
いきなり大金を貸してというのは無理な相談だったか。
だがシーゲルの言葉には続きがあった。
「そういうときは金が必要だから用意してくれ、でいいんだよ。オレと兄弟の仲だ。遠慮なんてしないでくれよ」
「貸すんじゃなくて、くれるってことですか? 本当にいいんですか?」
ちょっとお金が入り用とかではない、大金なのだが。
「いいってことよ。兄弟にはずいぶん世話になってるし、その兄弟の女の初舞台となりゃ、ご祝儀みたいなもんだ。それをケチるわけにはいかねえよ」
それにな、とシーゲルは話を続ける。
「その舞台には王様が来るんだろ? つまりオレの金で王様を呼ぶようなもんだ。オレの名前にも箔が付くってもんだ」
調子よく金のことは任せておけとシーゲルは言う。レンはちょっと迷ったが他にあてもないので、ありがたくこの申し出を受けることにした。
さらに彼の助けはそれだけではなかった。
「奏者を集めるんだろ? だったらオレも力になれると思うぞ」
一流の奏者であっても、技量と人格は別物だ。表では紳士で通っている奏者が、裏でギャンブルにはまって借金を抱えていたり、女性問題でトラブルを起こしていたり、そういう事例は珍しくないとシーゲルは言う。そしてそういう人間に犯罪ギルドは食らいつく。
「誰を雇うか決めたら教えてくれ。オレの方から話を持っていける奴がいるかもしれない」
シーゲルから奏者を紹介してもらえるならありがたい話だ。彼は弱みを握っていたら脅迫してやってもいい、ぐらいに言っているようだが、さすがにレンはそこまでしてもらう気はない。
話を聞いてもらうだけで十分だ。どうしても無理だというならあきらめるし、引き受けてもらえるなら報酬もちゃんと支払うつもりだ。
「それでな兄弟。こっちからも頼みがあるんだが。勘違いしないでくれよ。これは交換条件ってわけじゃない」
嫌なら断ってくれて全然かまわないと前置きしてから、シーゲルがその頼み事を口にする。
「今度うちの幹部会があるんだが、そこに兄弟を呼べないかって話になってな」
「僕をですか?」
犯罪ギルドの幹部会に呼ばれるのは穏やかではない。
「いやあ、オレが兄弟との仲の良さを自慢しすぎたせいかな。ボスから、お前がそこまで言う程の相手なら一度直に会ってみたい、なんて言われちまってな」
シーゲルが何を言ったのか気になるところだが、とにかく犯罪ギルドの会合になんて行きたくない。
「もちろん無理にとは言わない。兄弟にも立場があるだろうし、こっちの集まりに出てくれって言うのが無理な相談なんだ。だからこれは断ってくれていい」
貴族が犯罪ギルドの集まりに顔を出すなど、現代日本でいえばヤクザの会合に政治家が出席するようなものだ。こちらの世界の常識でもありえない。シーゲルもそれはよくわかっているだろう。
それでも彼がそんな頼み事をしたのは、常識外れのことをやるレンならもしかしたら……という思いがあったのかもしれない。
実際、レンは即座に断っていいその頼み事を、どうするべきかと考えていた。
もしシーゲルから、
「頼むからどうか出てくれ!」
と強くお願いされていたら、レンも絶対無理ですと強く断っていただろう。
しかし遠慮がちにお願いされたので、逆に断りづらくなってしまった。なんだか相手に悪い気がしてきて。
レンにはそういうお人好しの部分があった。
それに大金を出してもらうという負い目もあった。シーゲルは気にするなと言うし、もしこれを断ってもちゃんと金は出してくれるだろう。だがやはりこれも気持ちの問題だ。ここで彼の頼みを聞いた方が、貸し借り無しで気持ちが楽になる。
「その幹部会に出たとして、僕は何かする必要があるんですか?」
「ないない。ちょっと顔を出してくれるだけでいいんだ。その後はすぐに帰ってもらっていい」
「わかりました。それぐらいならいいですよ」
「本当か!? さすが兄弟! 兄弟なら、もしかしたらそう言ってくれるんじゃねえかと思ってたんだよ。恩に着るぜ」
上機嫌になって笑うシーゲルだった。