第22話 新しい日常
昨夜、レンはレオナと会っていた。彼女が伯爵の部屋に行く前にレンの部屋を訊ねてきたのだ。
ノックされたのでドアを開けると、風呂上がりのレオナが立っていた。どこに用意してあったのか、服も小綺麗なものに着替えた彼女は色気が増していた。
いつもなら赤面して目をそらすところだが、この時は違った。これから彼女が伯爵のところへ行くのかと思い、複雑な気持ちになった。
それに気付いたのだろう、彼女はこんなことを聞いてきた。
「やはりご不満ですか?」
「いえ、別にそういうわけでは……」
彼女たちには彼女たちの事情がある、とレンは自分に言い聞かせるように思った。
「もし本当にご不満なら、行くのを止めますが?」
「いや、ここまで来てそれは無理でしょ?」
期待させておいてどういうつもりだ、と伯爵が激怒するのは明らかだ。
「ダールゼンからは、領主様の命令に従うように命じられています」
「僕より父上に取り入った方が得だと思いますけど?」
「領主様の命令が最優先です」
そこは融通を利かすところだろうと思ったレンだが、そうか、それがダークエルフなのかと思い直す。
序列が上の者に服従するのがダークエルフだとダールゼンは言っていたではないか。おそらく彼はレオナに対し、レンの命令には最優先で従うように言ったのだろう。まさか伯爵が来るとは思っていなかったはずだ。そしてレオナはその命令に従ったまま、臨機応変に対応できないでいる。
これはダークエルフの弱点だとレンは思った。
命令を守るあまり、融通が利かないのだ。人間でも、とにかく言われたことしかやらない者がいるが、ダークエルフは全員がそれである。
「でも行かなかったとしたら父上は怒りますよ?」
「方法はあります」
「どんな?」
「例えば、私は病気を持っていると言えば、伯爵様もそういう気はなくすでしょう」
「それは……」
確かに効果的だと思った。今聞いたレンでさえ、少し引いてしまったのだから、伯爵もどん引きするだろう。
だけど……
しばらく考えてからレンは言った。
「確認しておきますけど、レオナさんは嫌ではないんですよね?」
「はい。伯爵様に目を掛けていただいたこの好機、逃したくはありません」
レオナの言葉に悲壮感はなく、むしろ前向きなやる気を感じた。
個人としての利益よりも、世界樹に尽くすことに喜びを感じるのがダークエルフだともダールゼンは言っていた。だから全員が最大多数の最大幸福を追求するのだと。
それが本当なら、レオナに悲壮感がないのも理解出来る。伯爵に自らを差し出すことが集落の利益になるのなら、彼女がためらうことはないだろう。
「レオナさんたちが望んでいるなら僕は止めません。止める権利もありませんから」
「ありがとうございます」
そう言ってレオナが伯爵の部屋へ行ったのが昨夜のことだ。
それから何があったのか、朝起きてきた伯爵はレオナを自分の屋敷に連れ帰ると言い出した。
仰天したのはリカルドや部下たちだった。
この世界のこの時代、貴族が愛人を持つのは珍しいことではなく、むしろ当然とされていた。
本人の欲望という面もあるが、跡継ぎ確保の面からもそれは望ましいとされたのだ。医療が十分に発展していないから子供が死んでしまうことも多く、子供の数が少ないとすぐにお家断絶という危険があった。
貴族が出かけた先で女性を見初め、そのまま家に連れ帰るというのも、そこまで珍しいことではない。
女好きで知られたオーバンス伯爵も、今まであっちこっちで女性に手を出してきたから、女性を一人連れ帰ると言い出しても驚くことではなかった。
ただし、それは人間の女性だったらの話だ。相手がダークエルフとなると話が全然違ってくる。
リカルドたちが、汚れたダークエルフを家に入れるなどとんでもない、と反対するのも当然だった。昨日までなら、伯爵も同じことを言っていたはずだ。
だが一晩で何があったのか、伯爵は断固として言った。
「もう決めたことだ」
反論は許さないという態度に、リカルドたちは黙るしかなかった。伯爵がこうと決めてしまえば、この場に逆らえる者はいない。
たった一晩でたらし込んでしまったとレンは感心した。具体的に何をどうやったのか、知りたいような、知りたくないような……
すでに魔獣の群れは倒されていたので、伯爵たちはすぐに帰る準備を始め、朝のうちに屋敷を出て行った。
ここは飛び地で、伯爵の本領までは歩きで十日ぐらいだ。今回は急いでいたため、全員が馬を乗り継ぎ五日でここまで来ている。帰りも全員が騎乗だったが、伯爵は自分の後ろにレオナを乗せた。
ダークエルフを一緒の馬に乗せるなど、これも本来ならあり得ないことなのだが、もうあきらめたのかリカルドたちは何も言わなかった。
最後、馬上のレオナはレンに深々と一礼して去っていった。
これからレオナがどうなるのかまるで予測がつかないが、とにかくがんばってほしいと思いながら、レンは彼女を見送った。
「どうにか無事やり過ごせましたね」
伯爵たちの姿が見えなくなり、レンはやっと一息つけた。
「はい。こう言っては失礼ですが、あのダークエルフのせいで、伯爵様もレン様のことを気にかける余裕もなかったようです」
マーカスも安堵しているようだった。
当初は嘘がばれないかとひやひやしていたレンだが、レオナのおかげで誰もレンのことなど気にせず帰って行った。彼女はそこまで考えていなかっただろうが、結果的にレンを救ってくれたことになる。
もう一度心の中でありがとうと言ってから、さて、とレンは気持ちを入れ直す。彼女のためにも、やるべきことをやらないと。
オーバンス伯爵が来たせいで後回しになったが、まずはロゼたちの生活環境を整えなければいけない。
「領主様」
同じようにレオナを見送っていたリゼットが声をかけてきた。
「我々も集落へ戻ろうと思います」
レオナがいなくなり、大人のダークエルフは四人になったが、その中で序列が一番高いのがリゼットだった。レオナの他に年長者がまだ二人いたが、ダークエルフは年齢も経験も関係なく序列優先なので、若いリゼットが彼女たちのリーダーとなる。
ちなみに子供のダークエルフにも序列があるが、成長期が終わるまでは全員が安定期のダークエルフより下になる。そして成長期が終わった途端、大人たちの序列の中に入る。彼らは成長期と安定期の区切りをきっちり認識できるのだ。
いきなり序列が最上位になることもあり、そのときは昨日まで子供だった者がリーダーになってしまう。新入社員がいきなり社長になるようなもので、人間ならまず大揉めになるだろうが、序列最優先のダークエルフたちはそれを当たり前のことと受け入れる。
揉め事が起こらないのはいいが、経験の浅いリーダーに無批判に従って大失敗する可能性もある。一概にどちらがいいとはいえなかった。
「それで、戻る前にこれを植えたいのですが」
リゼットが差し出したのは世界樹の挿し木だった。集落の世界樹の枝を折り、それを鉢に挿して持ってきたのだ。ぞんざいな扱いだとレンは思ったものだが、世界樹は生命力が強く、このまま地面に植えてやれば育つそうだ。世話も水やりだけでいいとのことだ。
屋敷の庭に世界樹を植えることにしたのはダークエルフのためだ。世界樹がここにあれば、わざわざ集落まで行く必要はなくなる。彼らの傷を癒したりできるので、もしものときにも役立つ。
また他にも利点があった。世界樹の側には魔獣が寄りつかないのだ。黒の大森林で集落が存在できるのも、あの巨大な世界樹のおかげだ。ただし効果は絶対ではなく、例えば群れを率いる超個体のような強力な魔獣には効かないそうなので過信はできない。
そんなに役に立つ世界樹なら、いっそのことそこら中に植樹してしまえばどうかとレンは思ったが、それはダメらしい。大事な世界樹を枯らすことはできないので、最低でも世話をするダークエルフがいる場所でなければ、というのがダールセンの言葉だ。
屋敷に植えた世界樹の世話は、ロゼたちが行うことになっている。
レンたちは庭の端の方に穴を掘り、そこに世界樹の挿し木を植えた。ここなら日当たりもいいし、世界樹が大きく育っても邪魔にならない。
そしてリゼットたち四人は集落へと帰っていった。
残ったのは三人の子供だ。
三人の中で一番年長なのが十四歳のロゼだ。そして序列も一番高いから、名実共に彼女が三人組のリーダーだ。まじめでしっかりしているから――レンからすると少し生真面目すぎる気もするが――彼女なら三人をしっかりまとめてくれるだろう。
残り二人は十三歳の少年少女だ。序列が高いのは少女の方で、名前はディアナ。こちらはロゼと対照的におとなしい少女で、レンと話すときもなんだかオドオドしている。人付き合いが苦手なレンは、そんな彼女に密かに親近感を抱いた。
髪は肩に届かないぐらいのショートヘアで、身長はロゼより低く百五十センチもないと思う。見ているだけで庇護欲を刺激される――一部の人間は嗜虐心をそそられるかも知れない――可憐な少女なのだが、実は三人の中で一番身体能力が高いらしい。
「本気を出したら私も勝てません。滅多にその本気を発揮できないのが問題ですが」
というのがロゼの言葉だ。命令に従うダークエルフといえども、やはりどうにもならない性格や気の弱さがあるようだ。
そして最後の一人がリゲル。少年だが、一見すると少女のような中性的な顔立ちをしている。レンも最初彼のことを少女だと思ってしまった。素直で優しそうな少年である。
今までレンは二次元でも男の娘とか、女装少年とか、そっちの方の趣味はなかったのに、なんだか彼には女装させてみたくなってしまった。何を考えているんだ、と慌てて打ち消したが。
レンは彼ら三人に勉強を教えるつもりだったが、屋敷の雑用もやってもらうことになった。
「一方的にお世話になるわけにはいきません。どうか働かせて下さい」
とロゼが言い出したからだ。
レンは子供に働いてもらうつもりはなかったのだが、それは豊かな日本での常識だ。この世界では働ける子供は働くのが常識だ。
だったらレン自身はどうなんだ、という話になると思うが、例えばレンが雑用を手伝うと言ってもマーカスはそれを断るだろう。貴族と平民の身分の差もこの世界の常識だ。
ロゼが熱心に言うので、レンはそれを受け入れた。断ると逆に彼女たちの負担になるかも知れないと思ったからだ。一方的に世話になるより、多少は働いて役に立ちたいという気持ちはレンも理解できた。
三人の受け入れに関してはスムーズだった。
屋敷には空き部屋がたくさんあったので、適当な部屋をあてがった。これもロゼがその方がいいというので三人部屋にした。
マーカスは元々ダークエルフへの差別意識が薄かった上、オーバンス伯爵がダークエルフとの協力関係に賛成したので、三人を屋敷に置くことに反対しなかった。
年配のメイドであるバーバラはダークエルフを嫌っていたようだが、それよりも三人が子供だという方が大きかった。ダークエルフでも子供は子供、親元を離れてここで暮らす三人に同情していた。また三人はバーバラの手伝いもするようになったが、まじめで力も強い三人は、すぐにバーバラに気に入られることとなった。
ここまではよかった。二人とも問題なくダークエルフを受け入れてくれたのは、レンにとってうれしい誤算だった。しかしうれしくない誤算もあった。それも最大の誤算だ。
家庭教師のハンソンが徹底的なダークエルフ差別主義者だったのだ。
「ダークエルフに勉強を教える!? あんな者たちに教えるなど冗談ではありません。そもそも連中は学問を理解できるような知能を持っていません」
というのがハンソンの答えだ。
普段は穏やかで理知的な人物だから、ダークエルフも差別しないとレンは思い込んでいたのだが、実態は違った。ハンソンのような人物でもこうなのかと、あらためてダークエルフ差別の根深さを思い知らされた気分だった。
レンが頼んでもハンソンは断固として拒否した。それでも無理矢理命令すれば、最後には了承したかもしれないが、レンはそうしなかった。嫌々教えられても、身につくような授業にはならないと思ったのだ。
仕方がないのでダークエルフの三人にはレンが教えることにした。
文字の読み書きはレンも初心者だが、見方を変えれば同じ目線で勉強できるということだ。ハンソンに教えられたことを、そのまま三人に教えればいい。
後は計算も教えようと思ったが、実のところ算数、数学についてはハンソンの力は必要なかった。レンの方が詳しかったのだ。ハンソンが教えられるのは四則演算と小数、分数ぐらいまでだった。日本で数学を勉強しているレンは、それ以上の知識を持っている。
この世界の数学が未発達ということはないだろう。おそらく数学はハンソンの専門外なのだ。
とにかく、これで新しい一日のスケジュールができた。
午前中はレンがハンソンから勉強を教えてもらい、三人はマーカスやバーバラの手伝いをする。午後からはレンが先生になって三人に勉強を教える。また、勉強だけでなく剣や弓の練習も行った。
弓に関しては、レンの技量は普通ではなかった。普通に弓を射れば素人なのだが、ガー太に乗って射れば百発百中なのだ。乗った状態だと身体能力や感覚が強化されるので、そのおかげだ。
自分自身でも驚いたが、ガー太に乗って弓を射ると、的を外す気がしなかった。
ダールゼンからもらった弓も試してみる。ダークエルフ製の合成弓だ。これがかなりの強弓で、レン一人だと引くのも苦労するような代物だった。つまりガー太騎乗時専用である。
威力も射程も、屋敷にあった他の弓を大きく上回り、マーカスもその性能に驚いていた。
レンは弓はガー太に乗って射るものと割り切ることにした。今更一人で練習して多少腕を上げたところで意味がないだろう。それより長所を伸ばすべきだと考え、練習もガー太に乗って行うことにする。
練習は弓を優先するが、身を守る最後の手段として、剣も少し練習しておくことにした。もちろんガー太には乗らずにだ。これはロゼが教師役になってくれた。
さすがダークエルフというべきか、ロゼはレンより身体能力が高く、剣の腕も上だった。
「ちゃんと相手の動きを見て下さい。右、次は左」
最初にビシバシやってくれと言ったら、ロゼは本当にビシバシ打ち込んでくれた。練習用の木剣だったが、当たるとかなり痛い。一度反応が遅れ、もろに腕を強打されたときは痛みに悶絶した。
「だ、大丈夫ですか!?」
ロゼとリゲルは慌てて駆け寄り、ディアナは泣きそうな顔で立ちすくんでいた。
さらにその後、
「申し訳ありません。どうか好きなだけ私を打ちのめして下さい」
とロゼが真剣な顔で言い出し、後の二人も、
「私たちもお願いします」
と泣きそうな顔で続いたのを、なだめるのには苦労した。
そうやって数日が過ぎたある夜のことだった。
すでにレンは自室のベッドでぐっすりと眠っていた。
部屋のドアが音もなく開くと、室内に忍び込む者がいた。ロゼたち三人だ。
「窓を閉めて」
ロゼの命令に従って、リゲルとディアナが窓を閉める。レンの部屋の窓はガラスではなく、木製のよろい戸だ。二人がそれを静に閉めると、外からの星明かりも消えて室内はさらに暗くなった。
ロゼは持ってきたものをレンの枕元に置く。
壺のようなそれは香炉だった。
中からはゆらゆらと甘い香りの煙が立ち上っている。
三人は煙が室内に充満するのをじっと待った。