第226話 推し
初春の喜びは、春が訪れたことへの感謝と喜びの舞だ。
ミリアムはその舞に自分の心を重ねて踊った。
今こうして舞台に舞い手として立ち、舞を踊れたことへの感謝と喜びを、全身全霊で表現したのだ。
これが最初で最後かもしれないと心を決めた彼女は、驚異的な集中力を発揮した。
始まる前は、失敗したらどうしようとか、これからの将来のこととか、色々な不安を抱えていたミリアムだったが、踊り始めた後は余計なことは何も考えず、ただひたすらに舞った。観客席に座るレンのことも目に入らなかった。
幸せな時間だった。このままずっと舞っていられそうな気がしたが、やがて終わりが訪れる。
楽曲に合わせ、最後はひざまずいて深々とお辞儀。それで初春の喜びは終わった。
終わったのだ――と思うと、急に疲れがのしかかってきた。
舞っている最中は体の重みなど感じなかったのに、今は立ち上がるのも困難なほど体が重い。息は乱れ、額からは汗が流れ落ちる。
疲労困憊だったが、それは心地よい疲れだった。この先どうなるかはわからないが、初舞台で自分の力を出し切ることができた。今はそれがうれしい。
そんな彼女に、パチパチと拍手が送られる。
顔を上げれば、観客席のレンが立ち上がって拍手をしていた。
いやあ、すごかった! とレンは感動していた。
スタンディングオベーションは、映画とかで何度も見たことがあったが、自分でそれをやるのは初めてだ。本当に感動すれば、自然に体が動くのだとレンは実感した。
前世も含めて、レンは生で舞台やライブを見た経験がない。
初めて生で舞台を見たので、余計に感動していることは間違いないだろう。ミリアムの舞だって、実は他の子供と比べても全然たいしたことないのかもしれない。
それでも彼女の舞を見て、心から感動したのは確かだ。
すでに彼の心は決まっていた。ミリアムを全力で応援したい――つまりすっかり彼女のファンになってしまったのである。
レンはアイドルにはまったことはなかったが、アイドル系アニメは何本も見ている。そんなアニメの中で、地下アイドルを熱心に応援するファン、いわゆるドルオタが熱く語っていた言葉を思い出す。
「彼女は人気もないし、歌や踊りだってまだまだです。だからこそ、オレが応援してやらなきゃって思うんですよ!」
今ならそのドルオタの気持ちがわかる。
ミリアムはまだ見習い。そんなあの子の後援者となり、あの子が一人前の舞い手になれるように応援するのだ。
こういうのをなんて言ったっけ……そうだ「推し」だ!
それは自分が応援する特定のアイドルを指す言葉。これまたアイドルアニメで知った言葉だ。
レンはミリアムを推すと決めたのだ。
といった感じで熱く盛り上がっているレンの横では、ドーソン団長が冷静に計算を行っていた。
すでに身請けの話はドーソンの頭の中から消えていた。今の舞を見れば、金貨十枚での身請けは安すぎる。さっきまではそれで十分と思っていたが、今はもう、そんな安値で彼女を売る気はなかった。考えるべきは、どう穏便に身請けの話を断るか、だ。
それともう一つ、とチラリと横のレンを見る。
どれだけこの貴族の息子から金を引き出せるか、だ。
今となっては後援者の話も断りたいぐらいだ。ミリアムがこのまま順調に育てば、近い将来、もっと有望な後援者が何人も出てくるはずだ。ここで安売りする必要はない。
だがさすがに今から後援者の話はなし、とはいかないだろう。それに売れっ子になった舞い手に、別の後援者が名乗りを上げるのもよくあることだ。ずっと独り占めしたいなら、それ相応のものを出さねばならない。
まあ、そのあたりのことは追々考えていけばいい。今はレンにどれだけ金を出させるかだ。
レンの様子を見るに、どうやらミリアムをかなり気に入ったようだ。
だったら、ちょっと高値をふっかけてみるか、と彼は考えを巡らせた。
「いやあすごい! 舞を見るのは初めてでしたけど、本当に感動しました。ミリアムちゃんはすごいですね」
「ありがとうございます……」
舞台を終えてしばらくしてから、レンたちは別室に移って話し合いを始めた。
ソファーに座ったレンが、興奮気味にミリアムをほめると、前に座る彼女は恥ずかしかったのか、小さくお礼を言っただけで下を向いてしまった。表情はよくわからないが、顔が赤くなっているのはわかる。
そんな彼女に、レンはどこがよかったか、とか、どれほど感動したか、とかを一方的に伝える。ミリアムは黙って聞いているだけだ。
それが一段落したところで、ドーソンが口を開いた。
「それでオーバンス様。ミリアムの今後についてなのですが」
もちろんレンは彼女の後援者になるつもりだった。それを伝えるとドーソンも了承し、身請けの話も断ると言ってくれた。
「ドーソンさんは身請けの話に乗り気だと聞いていたんですけど、そんなにあっさり決めていいんですか?」
「いえいえ、それは誤解です。ミリアムの才能を一番に買っていたのは、他でもないこの私ですから。ただ、この子に目を付けた貴族様がどうしてもとおっしゃるので断り切れず……。オーバンス様がこの子の後援者になっていただけるなら、あちらの貴族様にも言い訳が立ちます。ただ、そのためには色々と入り用でして」
後援者になるなら、当然、どれぐらいのお金を出すかという話になる。
「見習いを一人前の舞い手にするには金がかかります。しかもミリアムはまだ幼く、何の準備もしておりません。衣装などもこれから揃える必要があります。そして身請けの話を断るとなると、あちらの貴族様へも、迷惑料というか、それなりの贈り物が必要になるかもしれません。それら諸々合わせて、とりあえず金貨五十枚。援助してはいただけないでしょうか?」
横で聞いてミリアムは、金貨五十枚と聞いて目を丸くする。彼女にとっては金貨などさわったこともない大金だ。それが五十枚となると想像もできない大金である。
後ろに立っていたアマロワも、顔には出さなかったが驚いていた。ミリアムに才能があるといっても、見習いにいきなり金貨五十枚は法外だ。貴族相手にそれだけふっかけるとは、ドーソンの度胸にあきれるというか、感心するというか。
そのドーソンも金貨五十枚が高すぎるのは承知していた。最初に高値を言って、そこから金額の交渉に入っていくという、当たり前の交渉術だ。
金貨五十枚が無理なのはわかっている。どうにかして半分の金貨二十五枚ぐらい、と彼は目論んでいたのだが、
「わかりました。金貨五十枚ですね」
レンがあっさり承諾したので、ドーソンの目論見もあっさり崩れた。
レンには価格交渉という発想がなかった。日本人だったときから、物を買う時に値切った経験がないのだ。
太っ腹だったから、というのではなく、人と交渉するのが苦手だったからだ。苦労して値切るより、最初から言い値を払った方が楽だったのだ。日本で普通の店に行っていれば、ボッタクリの心配がないというのもあった。
その考えを引きずっていたので、今回も金額交渉をせず、ドーソンの提示をそのまま受け入れた。
シーゲルから、高くても金貨十枚ぐらいだろう、と言われたのは覚えていた。だがミリアムを応援する気になっていたレンは、金額が増えても気にしなかった。金貨五十枚なら払える、というのも大きかった。
ここに来る前、ゼルドにお金を出してもらえるか聞いてみたところ、
「すぐに用意できるのは金貨七十枚ほどです。それ以上となると、黒の大森林の集落へ使いを出さねばなりません」
レンはまずはお金を出してもらえるのか聞いたつもりだったが、ゼルドはレンに言われれば出すのが当然と考えていたので、出せる限度額を答えた。
銀行で金を下ろすなんてできないので、手持ちがなければ取りに行くしかないのだ。
「あの、それって本当に僕が使ってもいいんですか?」
「もちろんです。そのうちの五十枚は、領主様が必要になったときに備えて持たされたものです。どうぞご自由にお使い下さい」
王都までの道中でも、ゼルドは食費や宿代が必要なら全部出しますと言っていたので、ある程度の持ち合わせはあると思っていた。だがまさか金貨五十枚もの大金を持ち歩いているとは予想外だった。今のダークエルフたちにはそれだけの余裕があるということだろう。
それプラス残りの二十枚は、王都近郊のダークエルフ集落のお金だった。
そっちの二十枚を使うのはマズいが、レンのためにと持たせてくれた五十枚までなら、遠慮なく使わせてもらおうと決めていたのだ。
つまりドーソンはレンがこの場で出せる限度額を指定したのだった。
「ゼルドさん、いいですか?」
ソファーの後ろに立っていたゼルドに声をかけると、彼が革袋を差し出す。
「はい。どうぞこちらを。ちょうど五十枚です」
受け取るとズシリと重い。中を確認すると金貨が入っている。
ゼルドにお礼を言ってから、レンは革袋をそのままドーソンに渡す。
「どうぞ確認して下さい」
「はあ……」
ドーソンにとっては予想外だったが、いい方向への予想外だ。話が上手すぎて、何か裏があるのかと疑いそうになってしまうが、とにかく金貨五十枚、ポンと出してくれるというのだから、受け取らないと損である。
「では失礼して」
と言ってから革袋の中身を数えると本当に五十枚あった。
厳しい交渉になると気合いを入れていたドーソンだったが、レンが言い値を出してくれたのであっさり終わった。あっさり終わりすぎて実感がわかないほどだったが……
「ありがとうございますオーバンス様。では、この後のことですが――」
大金を支払い、これでレンはミリアムの後援者となった。つまりレンはミリアムを自由にできる権利を得たわけだ。当然、今からミリアムを連れ帰るだろうとドーソンは思ったのだが、彼の予想はまたも外れた。
「そうですね。じゃあ今日のところは、これで失礼しようと思います」
「えっ?」
「まだ話し足りない気もしますけど、ミリアムちゃんも疲れたでしょうし、ゆっくり休んで下さい」
そう言ってレンが席を立ったのを見て、ミリアムが慌てたように口を開く。
「あ、あの!」
「なに?」
笑顔で聞き返すと、ミリアムは何か言いたそうにしているが上手く言葉が出てこないようで、しばらくアウアウと口を動かしていたが、
「あ、ありがとうございました!」
レンが初めて聞く大きな声で、ガバッと頭を下げた。
「あの、本当によろしいので?」
ドーソンも立ち上がって聞いてくる。
「まだ何かありましたか?」
「いえ、こちらにはありませんが……」
「でしたら今日はこれで失礼します」
レンはさっさとこの場から帰ろうと思っていた。
本当はもっとミリアムと色々話したかった。舞のこととか、これからのこととか。しかしそこはぐっと我慢である。
彼女がとても疲れているのは明らかだった。小さな女の子が、あれだけの舞を踊ったのだから疲れて当然、ここは彼女のために帰るべきである。
何しろ彼女はレンの推しなのだ。推しに迷惑をかけるなどファン失格――というのをレンはやはりアイドルアニメのドルオタから学んでいた。未熟だから応援すると言っていた、あのドルオタである。
そのドルオタは作中で熱く語っていたのだ。
「ファンはあくまでファン、ここを勘違いしてはいけない。推しが舞台で歌って踊って、それで十分じゃないですか。全力で応援して、推しの人気が出れば満足じゃないですか。それ以上の見返りを求めるべきじゃないし、推しに迷惑をかけるなど言語道断。もしプライベートで見かけたとしても、気付かぬフリして通り過ぎるぐらいの気遣いが必要なんです」
作中ではこの意見に対し、
「いやいや、もっと見返りを求めていいのでは?」
などと反論する別のドルオタもいたが、レンとしてはやはり前者のドルオタに賛同したいというか、師匠と呼びたいぐらいだ。
見返りを求めるようではファンとはいえない――理想論かもしれないが自分もそうありたいものだ、なんてちょっと自己満にひたりながらレンはこの場を立ち去る。
はずだったのだが、部屋を出ようとしたところで重要なことを思い出した。
ダンスパーティーの件である。
そもそもシーゲルに舞い手を紹介してと頼んだのは、ダンスパーティーのパートナーになってもらうためだった。
ミリアムの舞に感動してすっかり忘れていたが、最初から見返りを求めての援助だったではないか。
見返りを求めないのが本当のファンだ、などと思っておいて、いきなりの手のひら返しだが、これを頼まず帰るわけにはいかない。
理想のファンへの道は遠そうだ、と小さくため息をついてレンは振り返った。
「すみません。あと一つ、頼みたいことがあるんですけど」