第225話 舞い手(下)
舞い手になって舞台で舞を踊る――それはミリアムが最初に抱いた夢だった。
ミリアムは自分の生まれについてほとんど知らなかった。
赤ん坊の頃、孤児院に預けられたのだが、両親がどこの誰か、ミリアム本人はもちろん、孤児院の関係者も知らない。生きているかどうかも定かではない。
この時代、彼女のような孤児は珍しくなかったので、ミリアムもそれを当たり前と思って生きてきた。
孤児院で暮らしてた頃の思い出もほとんどない。いつもお腹を空かせていたの覚えているぐらいだ。
王都にはいくつか孤児院があって、王家が援助資金を出している。だがその金額は少ない。
この時代の孤児院は、建前は親のない子供をちゃんと育てる施設だったが、実態は浮浪児を一カ所に集めておくための施設に過ぎなかったからだ。
目障りな浮浪児は孤児院に押し込めておけ、ぐらいの意識しかなかったのだ。だから孤児院の子供が飢えや病気で死のうがどうでもいい、とすら思われていた。
ミリアムのいた孤児院でも、同年代の子供が何人も死んだ。
あのまま孤児院にいたら、ミリアムも病気で死んでいたかもしれない。死なずに育ったとしても、娼婦になるぐらいしか生きる道はなかっただろう。
だがあの日――ドーソン舞団が孤児院を訪れた日に、彼女の運命は大きく変わった。
舞団が孤児院を訪れたのは慰問とかではなく、見込みのありそうな子供をもらい受けるためだった。
舞い手として有望そうな孤児がいれば、わずかばかりの金で引き取って育てる。
孤児院も口減らしになるので、舞団の訪問を歓迎していた。
舞い手見習いとして選ばれる第一条件は、容姿が整っていること。ミリアムはこの条件をクリアしたわけだが、容姿がいいだけでは選ばれない。
お師匠様のアマロワが言うには、
「単なる美人じゃダメだよ。舞い手には人を引きつける華が必要なのさ」
華というのがなんなのか、ミリアムにはまだよくわからない。
ミリアムはお師匠様や団長の前で、他の子供たちと一緒に簡単に踊ったりしただけだったが、それを見たお師匠様が、
「この子には華がある。育てたらいい舞い手になるよ」
と強く言ってくれたので、ミリアムはドーソン舞団に引き取られることになった。
いきなり知らない場所に連れて来られて、最初は不安だった。しかしそんな不安も、舞を見て吹き飛んだ。
初めて舞い手たちの練習を見たときの衝撃を、ミリアムは一生忘れないだろう。
世の中には、こんなにきれいな物があるのだと心底驚いた。
きらびやかな舞の衣装を着て、優雅に舞う舞い手たちは、とても同じ人間とは思えなかった。
「お前もこれから修行して、あの子たちと同じ舞い手になるんだ」
「私が?」
「そうだよ。修行は厳しいよ。覚悟しときな」
アマロワは脅すように言ったが、ミリアムはまったく怖いなどとは思わなかった。あの人たちと同じように舞うことができる、というだけで夢のような話だったのだ。
孤児院で生きてきたときには夢も希望もなかった。この時初めてミリアムは夢を知ったのだ。生まれて初めての夢をかなえるため、舞い手になるためなら、どんなことでもすると心に決めた。
アマロワが言ったように、それからの修行の日々は苦しいものだった。
舞い手見習いは舞団の雑用もこなさなければならない。
早朝に起きてから日が暮れるまで、ずっと働きっぱなしだった。舞い手の練習は日が暮れてから、星明かりの下で行われた。
「まずは自分の体を思い通りに動かせるようにするところからだ」
最初にアマロワから教えられたのは、舞の基本的な型や動きだ。
同じような動きを何十回、何百回と繰り返し、少しでも体がぶれると厳しい叱責が飛んだ。
だがミリアムは全くへこたれなかった。
舞のためだと思えば、どんな苦しい練習にも耐えられた。
舞団に引き取られてから二年。
練習を積み重ね、やっと基本的な舞を踊れるようになってきた矢先だった。またも彼女の運命は変わる。
どこかの貴族が彼女を身請けしたいと言ってきたのだ。
団長はいい話だと言うし、それは間違ってないのかもしれない。先輩の舞い手たちの中には、
「なんであんたみたいな小娘が」
などとあからさまな嫉妬の言葉をぶつけてくる者もいたのだ。他人から見ればうらやましい話なのかもしれない。
だが今のミリアムには舞が全てだった。舞のためなら何でもやると思っていたが、舞が踊れなくなるのは絶対に嫌だった。
団長には涙ながらに嫌だと伝えたし、お師匠様も身請けに反対してくれたが、団長は意見を変えてくれなかった。
どうしても嫌ならここを出て行くしかないが、団長ともめて飛び出した見習いなど、どこの舞団も受け入れてはくれないだろう。あきらめるしかなかった。
と思っていたら、またも事態が急変した。
別のどこかの貴族が、彼女の後見人になってもいいと言ってくれたらしい。ミリアムには事情がよくわからなかったが、舞を続けられるかもしれない、というのだけが重要だった。舞ができるなら何でもすると覚悟を決めていたのだから、他はどうでもよかった。
これからミリアムは、その貴族の前で舞を踊る。その結果次第で、自分の人生が決まるのだ。
「さっきの貴族様、なかなか上手いこと言うじゃないか」
舞の衣装に着替えるミリアムを手伝いながら、アマロワが言う。
「確かにこれがお前の初舞台だ。観客は少ないが、今からお前は一人の舞い手として舞うんだ。夢がかなったね」
「お師匠様、ありがとうございます」
「礼を言うのは早いよ」
アマロワが真剣な顔になる。
「ミリアム、お前には舞い手の才能がある。これは間違いない。この二年、私はお前に舞の基礎を教え込んだ。お前はもう十分、人前で舞えるだけの力を身につけてるよ」
けどね、とアマロワは続ける。
「これも何回も言っているけど、お前は余計なことを考えすぎる」
彼女の言う通り、それはもう何度も何度も注意されてきたことだった。
「お前は頭がいいし、考えるのは悪いことじゃない。自分の舞のどこがよくて、どこが悪いのか、自分でよく考えるのは大切なことだ。けどそれは練習の時の話だ。本番では余計なことは考えず、思うがままに舞う。そうでなきゃ一人前の舞い手とはいえない」
同じことを何度も注意されていたが、ミリアムにはそれがよくわからなかった。
考えずに舞うというのがどういうことなのか、理解できずにいたのだ。
だって次にどう動くか考えないと舞えないし……
などとミリアムは思っている。
「いいかいミリアム。舞台に出たら余計なことは考えず、思いっ切り楽しんでおいで」
「楽しむ、ですか?」
「そうさ。これがお前の自分の人生で最初の、そして最後の舞台になるかもしれないんだよ。せっかく夢がかなったんだ。楽しまなきゃ損だよ」
さっきの男の人にも同じことを言われた。
そうだ、あれだけ願っていた夢がかなうのだ。少し前まで絶望していたことを思えば、この舞台に立てただけで奇跡なのだ。これ以上、何を望むというのか。
「お師匠様、私、思いっ切り楽しんできます!」
「いい顔になったね。行っておいで!」
「はい!」
笑顔のアマロワに背中を押され、ミリアムは笑顔で舞台へと向かった。
座席に座るレンは、あの子は大丈夫かなあ、と少し心配しながら舞が始まるのを待っていた。
さっき会ったミリアムはおとなしそうな少女に見えた。言うまでもなくレンは人前に出るのが苦手である。あの子もだいぶ緊張していたみたいだし、なんてちょっと親近感を覚えてもいたのだ。
今日の劇場は貸し切り状態だった。
最前列でレンとドーソン団長が並んで座り、その少し後ろの席にレンが連れてきたゼルドとリゲルが座る。この四人だけしか観客はいない。
そして舞台袖からミリアムが現れる。
おやっと思った。さっき会ったときとは様子が違うように思えたからだ。
背筋をピンと伸ばして歩く姿は堂々としており、さっきのおとなしそうな様子とはまるで別人のようである。
舞台の中央まで来たミリアムは、客席のレンに向かって一礼する。たったそれだけのしぐさが、レンには優雅で美しく見えた。小さな女の子のはずが、まるで大人の女性のように見えてくる。
ミリアムは袖の長いゆったりとした衣装を着ていた。この世界に来てから初めて見る衣装である。
日本の巫女服を西洋風にアレンジしたみたいだな、というのがレンの印象だった。白を基調にして、赤や黄色の模様が描かれている。そして露出度がけっこう高い。これが舞の衣装なのだろう。
そして舞が始まる。
舞は一人の舞い手と、楽器を奏でる奏者で行う。舞には色々なバリエーションがあって、奏者も一人から数十人まで様々だ。
この時の奏者は五人。
横笛のような楽器が二人、バイオリンのような楽器が二人、木琴のような楽器が一人だった。
舞うのは「初春の喜び」
春の到来を喜び、神に感謝を捧げるという舞で、教会の祭事でも、民間の上演でも、定番の舞として知られている。明るい曲に合わせ、伸びやかに踊る舞で、楽しくわかりやすいので子供から大人まで人気があった。
明るい音楽に合わせてミリアムが舞い始めると、レンの目は彼女の舞に釘付けになった。
すごい――心からそう思った。
彼女がくるりと回れば、長い袖がそよ風のように流れる。ふわりと跳び上がる姿は、重力を感じさせず、風に舞う花びらのようだ。
舞のことなど何も知らないレンは、この舞が春を題材しているのも知らない。だがそんな彼の目にも、春の情景が浮かび上がってきたのだ。
照明も舞台セットもないのに、温かい春の日差しが、色とりどりの花が咲く花畑が見える。ミリアムは花から花へと飛び回る妖精だ。
前世でオタク趣味を楽しんでいたレンだが、それらは二次元限定で、実在のアイドルグループなどにはまったことはない。だからライブなんかに行ったこともないし、アニメやゲームのリアルイベントに参加したこともなかった。
一度でもライブなどに行ったことがあれば、テレビや動画で見るライブと、現場のライブが全然違うと実感できたはずだが、レンはそれを知らなかった。
初めて現場で舞を見て、それがレンの受けた衝撃をさらに大きくしていた。
これが舞なのか、すごい! とレンは感動した。
だが驚いていたのはレンだけではなかった。彼の隣では、ドーソンも目を丸くしていたのだから。
いつの間にこれほどの……!?
ドーソンも伊達に団長をやっているわけではない。これまで多くの舞い手を見てきたのだ。それなりの目を持っている。ミリアムにも才能があると思っていた。
だが多少の才能があるからといって、必ずしも成功するわけではないことも知っていた。伸び悩んだまま消えていった者も多く見てきたのだ。
だから身請けの話を受けたのだが……
今、目の前で踊るミリアムは、彼女の舞は、多少の才能どころではなかった。
彼女の練習の様子は何度か見ていたし、昨日も見た。
なるほど、この歳にしてはなかなかの舞だったが、同じ歳で同じぐらい踊れる子供は他にもいる。
それが変わった。今のミリアムの舞ならば、劇場に出てお客を呼べるだろう。人を惹きつける魅力があった。
たった一日で何があったのか、ドーソンはその変貌に驚くばかりだ。
驚いていたのは、舞台袖にいたアマロワも同じだったが、彼女は驚きながらも、予想通りという笑みを浮かべていた。
「化けたね……」
と彼女はつぶやく。もちろんミリアムのことだ。
ギリギリまで追い込まれた彼女が大化けしたのだ。
ほとんどの人間は、過度の重圧を受ければ潰れる。緊張で心も体も硬くなり、いつも通りの動きもできなくなる。アマロワはそういう、ここ一番で失敗する舞い手を何人も見てきた。
だがまれにいるのだ。大きすぎる重圧に潰されず、それどころか重圧を力に変えて、大舞台で実力以上の力を発揮する本物が。
ミリアムもかなり緊張していたが、あの貴族の言葉が上手く彼女の気持ちを切り替えてくれた。今の彼女は余計なことを考えず、舞に集中している。
アマロワの思っていた通りの、いや思っていた以上の見事な舞だ。
私の見立ては正しかった。あの子は間違いなく本物だ。