第217話 教会の事情
王都の中心には、巨大な城がそびえ立っている。
ロキス城。グラウデン王国を統べる国王の居城だ。
その城から東へ五百メートルほど離れた場所にも、大きな建物が建っていた。
高い鐘楼が特徴的な白い建物は、曲線を多用した優美なたたずまいを見せている。白塗りの壁は見る者に清廉な印象を与え、ここが聖なる場所であることを印象づける。
シャンティエ大聖堂。
グラウデン王国におけるドルカ教の総本山である。
正門から大聖堂までの道は、信徒たちによって掃き清められている。そこを国中からやって来た多くの巡礼者が歩いていた。
その正門前に一台の馬車が止まる。白い馬車は教会所属のものだ。中から降りてきたのは若い男だったが、白い司教服――その名の通り司教以上の者が身につける礼服――を着ていた。
周囲の信徒たちが、胸に手を当てて一礼すると、男も胸に手を当てて礼を返す。
正門より先は基本的に馬車は禁止である。馬車での入門を許されるのは、国王や聖堂長など、ごく一部の人間のみ。司教でも馬車を降りて歩かねばならなかった。
若い男は優雅な足取りで大聖堂へと向かった。
すれ違う信徒や、大聖堂の警備兵に挨拶しながら、男は目的の部屋へと向かう。
「失礼します」
ノックをしてから入室した男は、奥の執務机に座っていた初老の男に向かい、深々と一礼した。
「マローネ・コルエッティ、ただいま戻りました」
若い男の名はマローネ・コルエッティ。
一週間ほど前、王都近郊でレンと話をした男だった。
「ずいぶんと早かったな」
マローネを迎え入れたこの部屋の主、初老の男性はハガロン大司教。マローネの直属の上司である。
「はい。オーバンス様とは、王都の近くで会うことができましたので」
マローネはハガロン大司教の命令を受け、レンと会うために王都を出発した。そして幸運なことに王都を出てすぐにレンと会うことができた。おかげで予定よりだいぶ早く帰って来ることができたのである。
「それでどうだった?」
「うわさは本当でした。オーバンス様はガーガーを連れておりました」
報告を聞いたハガロン大司教の顔が厳しいものに変わる。
「確かなのか?」
「確かです。私も驚きましたが、あれは本当のガーガーでした。同行した騎士たちも、思わず祈りを捧げておりましたよ」
「うわさが本当だったと? だとすれば厄介なことになるな……」
ハガロン大司教が大きなため息をつく。
ガーガーを連れた者がいる、という話は貴族たちのうわさ話として、教会関係者の耳に入った。
当初は――そして今も――ほとんどの者はそのうわさ話を信じていない。
人に慣れたガーガーがいる、というぐらいならともかく、人を乗せて魔獣と戦ったなんて話まで聞こえてくるのだ。とうてい信じられる話ではない。
だが国王がその貴族、レン・オーバンスを呼び出したという話が伝わると、教会上層部での雰囲気も変わった。
話半分だったとしても、本当に人に慣れたガーガーがいて、それを貴族が手に入れたとなれば教会も無視できない。
ガーガーは神の使いとされているし、庶民にもわかりやすく人気がある。
臆病なガーガーは人が近付いてもすぐ逃げるので、教会としては、
「ガーガーに害を与えるなかれ」
と教えていればよかった。
だが本当に人に慣れたガーガーがいて、それを手に入れた貴族が、
「私は神の使いガーガーに選ばれた特別な存在だ」
などと言い出したらどうすればいいのか。
ドルカ教では国王や貴族も神に仕える信徒であり、教会の権威の下にある。だが世俗社会においては国王が最高権力者だ。
国王、貴族、教会の権力争いの歴史は長く深い。時代時代で対立と融和を繰り返し、ギリギリのバランスを保ってきたのだ。そこへガーガーを所有する貴族が現れたらどうなるか? 力関係に影響を与えることは必至である。
ハガロン大司教は、そのうわさ話をまったく信じていなかった。
どこかの貴族が、適当なホラ話をでっち上げたのだろうと。せいぜい、ちょっと大きいアヒルやニワトリあたりをガーガーと言い張っている、ぐらいに思って無視していた。
そこへ異議を唱えたのが部下のマローネ司教だった。
「万が一、ということがあります。もしよろしければ私がオーバンス様に直接お会いして、うわさが真実がどうか確かめてまいります」
と申し出てきたのだ。
ハガロン大司教はマローネ司教のことを、若いがなかなか見所のある奴だ、と買っていた。他の者が言い出したのなら、即座に却下していただろうが、彼が熱心に言うので調査を許可したのだ。
それがこの結果である。
本当に厄介なことになった。それでなくても今のシャンティエ大聖堂は大きな問題を抱えているのだ。そこへガーガーもからんでくるとなったらどうなるのか?
教会内の権力争いを勝ち上がってきた、海千山千のハガロン大司教でも読み切ることは難しい。
「確かに厄介な問題ではありますが、災いこそ恩寵ともいいます」
災いこそ恩寵というのは、災難だと思っていた出来事が、後で振り返ればよい出来事、つまり神が与えてくれた恩寵だった、という意味の言葉だ。災いを転じて福となすと同じような意味だが、しょせん人間には神の意図はわからない、という意味も含んでいるのでちょっと違う。
「何か考えがあるのか?」
「はい。幸い、オーバンス様には教会と対立する意志はないようです。条件次第では我々と協力関係を結ぶことができると思います」
「信用できるのか?」
ハガロン大司教はとある大貴族の生まれだった。三男だったので家を継ぐのはあきらめ、教会に入って、そこで権力の階段を上がってきた。
だからこそ彼は貴族というものをよく知っていた。権力欲に取り付かれた者は、何をしでかすかわからない。
「そこは条件次第と思われます。ですが例え大幅に譲歩することになっても、手を結ぶ価値はあります。我々は一歩先んじることができましたが、うわさが本当だとわかればガーダーン大司教も動くでしょう」
ガーダーン大司教という名に、ハガロン大司教はピクリと反応した。
現在ここシャンティエ大聖堂で起こっている大問題――大聖堂を統べる聖堂長が体調を崩し寝込んでいるのだ。聖堂長は高齢で、残念ながら回復の見込みは薄い。そうなると出てくるのが後継者問題だった。
何人か後継者候補はいるが、その中で最有力候補とされている二人が、ハガロン大司教とガーダーン大司教であった。
「ガーダーン大司教にだけは渡すわけにはいかんな。レン・オーバンスをこちらに取り込めるのだな?」
「お任せ下さい。必ずや説得してみせます」
「いいだろう。ではレン・オーバンスの説得はお前に任す。で、取り込んだ後はどんな風に話を持って行くつもりだ?」
「それなのですが――」
マローネが考えていた策を披露すると、ハガロン大司教は驚いたようだ。
「本当にそんなやり方で上手くいくのか? 一歩間違えれば、取り返しのつかないことになるぞ」
「そこは賭けになりますが、私の印象ではオーバンス様はきっと協力して下さるかと」
「わかった。任すと言ったからにはお前に任せよう。今回の厄介ごとが、神の恩寵であることを祈り、最善を尽くせ」
「ははっ」
マローネは頭を下げる。ハガロン大司教から見えなくなった彼の顔には、してやったりといった感じの笑みが浮かんでいた。
王都到着から十日ほど。
ここ数日、特に用事もなくヒマだったレンは、早く来すぎたなあと後悔していた。交通機関が発達していないので、遠くに行くときは予定が立てづらい。だから早めに出発したのだが、王都に早く着きすぎてしまった。
やることがないレンは、ガー太に乗って遠出したり、カエデの相手をしたり。後は本を読んで過ごしていた。
この世界の本は希少品で高級品だ。本一冊が、平気で金貨数枚とか数十枚とかする。日本円だと数十万から数百万円だ。紙が高級品なので、本も高級品だろうと予想はしていたが、まさかここまで高いとは思っていなかった。
そんな高価な本を買ったのは、半分は趣味だ。
前世のレンは読書も好きだった。読書家を名乗るほどではなかったが、マンガを別にして、月十冊ぐらいは読んでいたはずだ。
この世界で文字を勉強し、どうにか読み書きできるようになったので、趣味と実益を兼ねて本を何冊か手に入れてみたのだ。マルコに頼んで購入してもらったのは、この国の歴史書だった。
立派な装丁の分厚い本で、残念ながらあまりおもしろくなかったが、勉強だと思って読み進めている。
レンはこの本を自分だけの物にしておくつもりはなかった。購入する本は全てダークエルフが自由に読めるようにするつもりだ。
そうやって本を集めていって、いずれはダークエルフたちの図書館を作る、というのがレンの目標だ。
どれだけの金と時間がかかるかわからないので、実現はまだまだ先になりそうだが。
この世界で何かを勉強しようと思ったら、人に教えてもらうか、本を読むしかない。
今はダークエルフたちは基礎的な勉強、読み書きそろばんを習っているが、いずれはもっと高度な知識を学べる場所を作りたい。ダークエルフの大学だ。そして大学を作るのなら、図書館も作らねばならないだろう。深い知識を身につけるためには、多くの本が必要不可欠だった。
もしかしたら、この本が記念すべき図書館の蔵書一冊目になるかも、なんて思いながら本を読んでいると、
「レン様。お客様が来ました」
とリゲルが呼びに来た。
待っていた――別に好きで待っていたわけではないが――教会からの連絡がついに来たのだ。
「お久しぶりですオーバンス様」
教会からの連絡役としてやって来たのは、前に会った若いイケメンの神父、マローネだった。
と、そこでふと疑問に思ったことを聞いてみる。
「すみません。最初にお聞きするのを忘れてたんですが、マローネさんは神父なんですよね?」
「いえ。若輩者ですが、司教の役を与えられております」
答えを聞いてレンは驚く。
てっきりマローネ神父だと思っていたのだが、マローネ司教だったのだ。
神父も司教もドルカ教の役職だ。ドルカ教の役職は、大きく分けて四つ。
上から教皇、大司教、司教、神父である。
役職では一番下になるが、多くの信者にとって最も身近な存在なのが神父だ。
勉強して修行を積み、教会の試験に合格して神父になって、初めて一人前の聖職者となる。神父になればドルカ教の祭事を執り行う資格を得るので、教会を運営することができる。
教会は大陸中にあるが、そのほとんど、9割以上が一人の神父によって運営されていた。
教会には他にも従僕や使用人がいるだろうが、彼らでは祭事を行うことができない。もし神父が亡くなったりすれば、誰か新しい神父に来てもらわねばならない。
ある程度の大きな街なら、複数の教会があったりするが、大多数の小さな街や村だと教会は一つだし、神父も一人だけ。そういう街や村では、神父が大きな尊敬を集めていることが多い。
だがマローネは神父ではなく司教だという。
レンの持っている情報では、司教とは複数の教会をまとめて管理する教区長や、単独だが大きい教会の責任者などに就任するそうだ。
神父と司教、役職は一つ上がるだけだが、この一つの差が大きい――らしい。
平民でも努力すれば神父にはなれるが、司教以上になれるのは貴族か、余程裕福な平民ばかりで、それ以下の平民出の司教はほぼいない。さらに若くして司教になるには、余程有力な後ろ盾があるか、あるいは余程優秀な成績を収めたか、そのどちらかでなければ無理とされている。
普通なら四十代で司教になっても早いと言われるらしいのに、マローネはどう見ても二十代前半ぐらいである。レンが彼のことを神父だと思い込んだのも当然だった。
教会内の権力について、詳しいことはレンにはわからないが、とにかく司教の権限はかなり大きく、つまりかなりのお偉いさんということだ。
これをどう考えればいいのか?
わざわざその偉い司教が使いとしてやって来たのは、教会がガー太のことをかなり重要視している現れだろう。それがいいのか悪いのか、レンにはまだ判断できなかった。