第201話 隠居
ゴナスが目を覚ましたのは、自宅のベッドの上だった。
もしかして今のは夢だった……?
そんな希望にすがりつきたくなったゴナスだったが、現実は非情だった。
側に控えていた召し使いから、ゴナスは自分がマルコの店の前で倒れ、ここまで運ばれてきたことを聞いた。
つまり店でレンと会ったのは現実だった。
「うう……っ」
彼とのやり取りを思い返すと、また胸に痛みが走る。いっそ気を失った方が楽かもしれないが、現実逃避している場合ではない。気持ちを奮い立たせて口を開く。
「ボナージュを呼べ」
召し使いに命じると、すぐに一人の男がやってきた。ボナージュはまじめそうな中年男性だった。ゴナスの部下であり、彼の店――ゴナス商店の番頭、ナンバー2だ。ゴナスが店を空けるときは、ボナージュが店を任されている。ゴナスが最も信頼している男だった。
「旦那様。ご無事でなによりです」
「無事なものか! 何があったかは聞いているな?」
「はい。レン・オーバンス様のことですね?」
「そうだ。あの男、いったい何を考えて……」
平民のような服を着て、店の従業員と間違えたことを怒ることもなく、それこそ従業員のような丁寧な物腰で応対していた。どうしてそんなことをするのか、まったく理由がわからない。
これが普通の貴族であったなら、ゴナスももっと冷静に対処できていただろう。
商売で貴族の不興を買ったことは何度かあったが、全て切り抜けてきたのだ。
例えば相手が怒り狂っているなら、まずは下手に出て落ち着かせ、それから償いの話に入っていったりするのだが、レンにはそんな常識が通用しそうにない。店員のフリをするような貴族に、どう対処すればいいのだ。
対処法がわからず、わからないから勝手に悪い方へ悪い方へと考え、ゴナスは自分で自分を精神的に追い込んでいた。
「……言いにくいことですが」
ボナージュがためらいがちに口を開く。
「言ってみろ」
「オーバンス様は、旦那様をじわじわとなぶり殺しにするつもりなのでは?」
ゴナスの顔が引きつった。
「自分に逆らう者がどうなるか、見せしめにするために、わざと旦那様をいたぶっているように思われます」
否定したかったゴナスだが、否定できなかった。彼もボナージュの推測を正しいと思ってしまったからだった。
これまでレンが直接こちらに何かを言ってきたことはない。謝罪しろとか、そういうことは何も言ってこない。それが向こうのやり方だとしたら? こちらをいたぶって喜んでいるレンの顔が浮かんだ。
「では、どうすればいい?」
「これも申し上げにくいのですが、手遅れかもしれません。商売の話だけならともかく、旦那様はオーバンス様を平民扱いしたとか。これは明らかに旦那様の落ち度、言い訳ができません」
「あれは、向こうがあのような格好をしていたからだ」
「それが通用するとお思いですか?」
「……」
平民のような格好をしていて、貴族とわかれ、というのは無理があると思うが、そんな言い訳は通用しないのだ。
貴族と平民の身分差は絶対であり、貴族を平民扱いするのは最大級の侮辱だ。これが領地も持たない貧乏貴族ならまだしも、オーバンス家は立派な伯爵家だ。それを侮辱したゴナスは、貴族社会のルールを破ったことになる。もはや犯罪行為に等しい。
最初のレンとのトラブルは金の問題で、これはまあ、よくあることといってよかった。だからゴナスに同情する商人たちも多かった。
だが平民扱いというのは、それとは次元の違う問題だった。最悪、他の貴族からも嫌われるような失敗で、これでゴナスを助けようという商人もいなくなるだろう。
ゴナスは、いよいよとなればバルカ伯爵に仲裁を頼もうと思っていた。
バルカ伯爵はここジャガルの街を含め、広い領地を有する王国東部最大の貴族だ。このバルカ伯爵の仲裁ならば、レン・オーバンスも無視はできない。
もちろん安くない見返りを求められるだろうが、最悪、それでどうにかなるという思いがあった。
しかし今回の失敗でそれも難しくなった。金ではなく貴族の名誉の問題となれば、バルカ伯爵も助けてくれないのではないか。
「もしかしてオーバンス様も、それを狙っていたのではありませんか?」
「こちらを追い込むために、そこまでするか!?」
平民の格好ぐらいならまだいい。お忍びで街をウロウロするとか、そういう話は他でも聞く。だがレンは店の従業員になりきり、憎いはずの自分に頭を下げるようなマネまでしていた。
名誉を重んじる貴族にとって、明らかな恥辱。
そこまでして自分を陥れるつもりなのか、とゴナスはレンの執念深さにあらためて恐怖した。
「何かよい打開策はないのか?」
「考えついたことはありますが……」
「言ってみろ」
ボナージュの話を聞いたゴナスだったが、
「そんなバカなマネができるか!」
あまりの内容に、ボナージュを怒鳴りつけていた。
「落ち着いて下さい旦那様。そこがこの策の重要な点なのです。そこまでするか? と思わせなければ、オーバンス様の怒りを解くことはできません」
ボナージュに言い返されて、ゴナスは黙り込む。そんな彼の様子を見たボナージュが、さらに語気を強めた。
「旦那様も納得できないとは思いますが、他でもない、旦那様の命がかかっているのです。それにここしばらく様子を見ておりましたが、体調もだいぶ悪いのではありませんか? これをいい機会だと前向きに考え、ご隠居なさってはどうでしょうか?」
ゴナスはじっと考え込んだままだった。
数日後。
レンのところにマルコから知らせが来た。
至急、店の方まで来てほしいということで、レンは屋敷を出てジャガルの街へと向かった。
レンがいたのは、街から少し離れた森の中にある、小さな集落だった。数軒の家が建ち並ぶこの集落、十年以上前に魔獣の襲撃を受けて廃棄されていたのだが、それをマルコが丸ごと買い取ったのだ。
ダークエルフたちのためである。
店で働くダークエルフの数は増え続けているが、そんな大量のダークエルフを街に受け入れるのは、色々と問題があった。
宿泊場所の確保も難しかったし、もし確保できても、マルコの店のように周囲の住民たちから反発が起こるだろう。
だから街の外に、ダークエルフたちが寝泊まりする場所を用意したのだ。いわば、ここはマルコの店の社員寮みたいなものだった。
まだ買い取ってから日が浅く、家の整備なども終わっていないが、元々野宿を考えていたので、それに比べれば十分過ごしやすい。
とはいえレンは複雑な気分だった。やっているのは人種差別の隔離政策そのもので、もちろんいい気はしない。だが無理矢理ダークエルフを受け入れろと言ったところで、問題が起きるのはわかりきっている。今は受け入れるしかなかった。
ただし利点もあった。
暮らしているのはダークエルフばかりだから、人目を気にする必要がない。ガー太もカエデも、イールたちも、ここなら比較的自由に過ごせる。まあ、ガー太はいつものようにダークエルフたちを避けてか、一羽で森の中へ消えていたが。
ここには世界樹の苗木も植える予定になっている。そうなればダークエルフたちにとって、さらに過ごしやすくなるだろう。
レンは、リゲル、ゼルドと一緒に集落を出た。
ゼルドとはここで合流した。たまたまシャドウズの一部隊を率いて、訓練のためにここに来ていたそうだ。
ロレンツ公国まで一緒だったジョルスたち三人とはここで別れ、彼らには一足先に屋敷に帰ってもらった。代わりの護衛はゼルドたちが引き継いだ。
ゼルドはシャドウズの隊長だ。色々忙しいだろうし、護衛は他の隊員でもいいと思うのだが、彼は自分がついて行くと譲らなかった。
忙しいといえばマルコもそうだ。本来ならマルコがここまで報告に来るのが常識なのだが、レンの方がそれを断っていた。忙しい彼に比べて、今のレンは特にやることがない。だったら自分の方から会いに行くのが合理的だ。
というわけで三人で向かうと、店ではマルコが待っていた。
「わざわざすみません。頼まれていたのとは別件なのですが、急な用件でして。それもレン様の判断が必要な重要案件です」
「何があったんです?」
どうやら頼んでいたのとは別の用事らしいが、重要案件とはいったい?
「はい。実はゴナスさんが隠居して、店を後継者に譲ることにしたそうです。どうやら体調がよくないようで」
「そうですか。確かに体調悪そうでしたからね」
目の前で倒れられたので、少し心配していた。彼が倒れたのは、自分が驚かせたからだとレンは思っていたが、そもそも体調悪化の原因が自分だとまでは気付いていなかった。元から病気か何かだと思っていたので、悪いことをしちゃったなあ、と思っていた程度だ。
マルコはそんなレンの言葉を、本気か演技か、どちらだろうと思いながら聞いていた。マルコはゴナスの体調悪化は、全てレンの行動が原因だと見抜いていた。当然レンもそれに気付いているはず、と思うのだが、今の言葉は他人事のようである。
知らないフリをしているだけだと思うのだが、彼には妙にお人好しな部分があることも知っている。だから、もしかしたら本気で気付いてないのかも……
どちらにしろレンが原因なのは変わらないし、元をたどればゴナスの自業自得である。だから彼に同情はしていない。そして重要なのは、これからの話だった。
「その新しい後継者について、レン様にお話があるそうで」
「僕にですか?」
お詫びを兼ねて挨拶に来た、ということだろうか。
「とにかく一度、お会いになって下さい。奥で待ってもらっているので」
「わかりました」
ゴナスとの取引は二度としないと決めていたレンだったが、彼が倒れたと聞いて、少し責任も感じていた。彼のことは嫌っていたが、病気になれとか、死ねばいいとまでは思っていなかったからだ。店の主が代わるというなら、条件次第で取引を再開してもいいかな、なんて考えていた。
マルコと一緒に応接室に入ると、二人の人間が待っていた。二人とも、レンに気付くと素早く立ち上がり、頭を下げて挨拶してきた。
「初めましてオーバンス様。私、ゴナス商店の番頭のボナージュと申します」
ボナージュと名乗った男は、まじめそうな中年男性だった。学校の教頭先生とか、ピッタリ合いそうな感じだ。
「本来なら、主のゴナスが来るところなのですが、あいにく体調を崩して寝込んでおりまして。ご無礼をお許し下さい」
「いえいえ。お気になさらず。ゴナスさんにも、お大事にとお伝え下さい」
ボナージュの表情がピクリと動き、それを見たマルコがかすかに苦笑したのだが、どちらもレンは気付かなかった。
それよりもっと気になっていたことがあったからだ。ボナージュと一緒に待っていた二人目の人物だ。
番頭というのは店のナンバー2のことだろう。ゴナスが病気なら、彼が来るのはわかる。だがわからないのはもう一人の方だった。
ボナージュが、そのもう一人の方を紹介してくれる。
「こちらはミオと申します。ゴナスの娘で、彼女が店の後継者です」
「えっ?」
レンは驚いた。娘が跡を継ぐというのは、現代日本なら驚くようなことでもないだろう。だが女性の地位が低いこの世界では、娘が後継者というのはかなり異例のはずだ。
しかもミオはまだ若いというか、小さい。どう見ても小学校高学年ぐらいだ。そんな小さな女の子に、本気で店を継がせるつもりなのだろうか?
そんなレンの疑問に答えるかのようにボナージュは言った。
「ですがご覧の通り、ミオはまだ幼く未熟でございます。そこでオーバンス様にお願いがあります。どうか彼女の後見人になっていただけないでしょうか?」
「はあ!?」
レンはまたも驚くことになった。