第199話 生き残った者
何が起こっているのか、バッテナムが理解するには多少の時間が必要だった。
レン・オーバンスを殺せると思った瞬間、目の前にあった彼の体が急に遠ざかったのだ。
違う、離れているのは俺の方か!?
何か激しい衝撃を受けて、バッテナムがはじき飛ばされたのだ。
宙を舞うバッテナムの体。滞空時間は数秒だったはずだが、彼には周りの動きがスローモーションのように見えた。
その長く引き延ばされた時間の中で、彼は見た。片足を上げているガーガーの姿を。
あれだ。あのガーガーが邪魔したのだ。レン・オーバンスまで後一歩まで迫ったところで、あのガーガーに蹴り飛ばされたのだ。
数メートルも飛ばされたバッテナムは、木に激突して地面に倒れた。
彼の狙いは悪くなかった。バルドと戦わせることで、カエデをレンの側から引き離した。
タイミングもほぼ完璧だった。レンも、周囲のダークエルフたちも、二人の戦いに注目していて、バッテナムへの反応が遅れた。
だが彼は最初から大きな間違いを犯していた。
レンを殺そうとするなら、もっとも注意すべきはカエデでも、他のダークエルフでも、レン本人でもない。ガー太こそもっとも警戒しなければならなかったのだ。
もしバッテナムがガー太のことを詳しく知っていたなら、何を置いてもガー太のいない時を狙ったはずだ。
「ぐお……」
うめき声を上げるバッテナム。気絶しなかったのはよかったが、ダメージが大きく体を動かすこともできない。
持っていた剣はどこかへ飛んでいったが、彼はまだ短剣を隠し持っていた。なんとかしてそれを取り出さねばならない。
レンを殺すためではなかった。こうなったからには、もう殺すのは無理だろう。
短剣が必要なのは、自害するためだ。
失敗して死ぬならまだいい。最悪なのは、自分の正体を知られることだ。
このままレン・オーバンスに捕まれば、目的や正体を探られ、厳しい拷問を受けることになるだろう。
もちろん簡単に口を割るつもりはないが、絶対に耐えられるという自信もない。
だから死なねばと思ったのだが、その前にレンがすぐ側まで来てしまった。
「大丈夫ですか?」
倒れている男に声をかけたレンだったが、言ってからおかしい気もした。
何しろあいてはこちらを殺そうとしてきた――ように見えたのだ。気付いたときにはガー太が蹴っ飛ばしていたが、この男は剣でこちらを刺そうとしてた。
どうして自分が狙われたのか、レンには全然わからなかった。
「今の、僕を狙いましたよね? どうしてですか? どこかで会いましたっけ?」
ガー太に乗ったまま、倒れた相手に問いかける。
レンはバッテナムと島で会っているのだが、会話したのも少しだけだったので、彼の顔を覚えていなかった。
見覚えのない相手だが、どこかで恨みを買っていたのだろうか?
周囲のシャドウズたちは剣を抜いて警戒しているが、彼らもバッテナムの顔を知らなかった。
島での戦いが終わると、彼らはさっさと引き上げていて、他の傭兵たちは話しもしていない。だから誰も彼のことを知らなかったのだ。
問われたバッテナムの方は、必死に考えていた。
回復するために時間がほしい。そのためには相手と話して時間を稼がねばならない。
どうせなら突拍子もないことを言って、相手を混乱させるべきか? と考えたバッテナムは、とにかく思いついたことを口に出した。
「レン・オーバンス! 無垢な少女に手を出す変態野郎が……っ!」
レンの顔が変わったのを、バッテナムは見逃さなかった。
いいぞ、混乱しているな。
「サーリア様を汚したお前を、俺は絶対に許さない。ここで殺してやる!」
「いやいや待って、あれは誤解だから!」
レンは必死になって弁解した。
もしここでバッテナムがもっとそれらしいことを言っていれば――例えば自分はレンを殺せと金で雇われただけで、依頼主のことは何も知らないとか――レンは相手の言葉が本当かどうか、疑いながら聞いただろう。
しかし変態野郎と呼ばれては、冷静でいるのは無理だった。バッテナムの言葉は、レンが一番気にしていた部分を突いたのだ。
「誤解だと!? キスしていたのも誤解だというのか!?」
「いや、だからあれはですね――」
レンとバッテナムの不毛な会話はしばらく続いた。
両者とも必死だったが、バッテナムの方は戸惑ってもいた。
自分で言い出しておいてなんだが、こんなバカ話を信じるとは思っていなかった。芝居をしているのか? と疑ったりもしたが、この状況で芝居する理由がない。
「――というわけで、例え僕とサーリアさんが結婚することになったとしても、それは貴族同士の結婚というもので、僕の趣味とかは全然関係ないですから」
「ではサーリア様は清らかなままなのだな?」
「もちろんです」
「そうか……」
心底安堵したように、大きく息を吐くバッテナム。
「ならばもう、思い残すことはない。ひと思いに殺してくれ」
「え?」
「誤解とはいえ、俺はあなたに剣を向けた。殺されて当然だろう」
すでに体は動くようになった。素早く短剣を取り出して自害するのも可能だが、このままの話の流れで殺してくれるなら、そちらの方が確実だ。
信じられないが、レン・オーバンスはこちらのバカ話を信じたようだ。だったらこのまま殺されるのが一番いい。
一方、殺せと言われたレンの方は困っていた。
相手の男の言う通り、自分は命を狙われた。だったら殺すのがこの世界の常識なのだろう。
それに話を聞く限り、こっちのことを変態野郎というこの男の方こそ、サーリアにゆがんだ思いを抱くロリコン変態野郎のような気がする。あらゆる意味で、ここで殺しておくのが世のため人のためのような気がする。
だがこの状況で人を殺すというのは難しい。精神的な意味で。
この世界に来てから、何度も戦いを経験してきたので、レンも戦いの中でなら人を殺せるだろう。だが前にも似たような状況があったが、目の前の無抵抗な人間を殺すというのは、戦いで殺すより圧倒的にハードルが高い。
自分の手で殺す必要はない。シャドウズに命じれば、レンの見ていないところで始末してくれるだろうが、それでも心の負担は大きかった。
元は平和な日本で生きてきたレンにとって、やはり人を殺すのは簡単ではなかった。
「もう二度と、僕の前に現れないと誓いますか?」
「誓えと言うなら誓うが、まさか俺のことを許してくれるのか?」
信じられない、といった顔でバッテナムが聞く。
「元は誤解だし、今回だけは許します」
それを聞いたバッテナムは、倒れていた体をゆっくり起こすと、姿勢を正して座り込み、深々と頭を下げた。
「感謝いたします」
神妙な態度で頭を下げているバッテナムだが、内心では疑問が渦巻いていた。
なぜ今のやり取りで命が助かったのか、全く理解できない。
レン・オーバンスというただ者ではない男を、凡人の俺が理解しようとするのが間違いなのか?
それでもとにかく生き延びたのだ。死を覚悟していたバッテナムだったが、死にたいと思っていたわけではないので、安堵の息を吐いた。
「本当にいいんですか?」
レンにリゲルが聞いてきた。シャドウズたちも、口には出さないが、同じようなことを思っているようだ。
「いいよ。僕も無事だったし、こんなことで人を殺したくない」
甘いと言われるかもしれないが、それがレンの正直な心境だった。
リゲルや他のダークエルフたちは、それ以上は何も言ってこなかった。
これが人間だったなら、疑問を口に出しただろう。レン以外は、バッテナムの言葉を信じていなかったからだ。あんなのはウソで本当の理由を隠している、と疑っていた。
だがここでダークエルフの悪い面が出た。
彼らは命令には従順だ。疑問に思っていても、序列が上の者には無条件で従う。
レンはダークエルフではないので序列は関係ないが、彼らは集落のリーダーのダールゼンから、レンの命令に従うように命じられている。
そのレンがいいと言ったのだから、それでいいのだと彼らは納得してしまったのだった。
結局、レンは言葉通りバッテナムを殺すことなく、その場を立ち去った。
離れていくレンたちを見て、バッテナムの中に生き残ったという実感がわいてきた。
そのまま地面に寝転びたかったが、彼は体に力を入れて立ち上がると、地面に倒れているバルドのところへ歩いていった。
「バルド、死んだのか?」
「……どうにか生きている」
うつぶせに倒れているバルドから返事があったので、バッテナムは驚いた。てっきり死んでいると思っていたのだ。
バルドとダークエルフとの戦いが、最後、どのように決着したのかバッテナムは見ていない。
決着直前にレンに攻撃をしかけ、ガー太に蹴り飛ばされたからだ。
だがその後で、あの銀髪のダークエルフが、うれしそうにレン・オーバンスのところに駆け寄ってくるのは見た。そしてバルドは血を流して地面に倒れていた。
誰がどう見ても、バルドは敗北して死んだと思うだろう。
「てっきり死んだと思っていたが、もしかして死んだふりで生き延びたのか?」
「違う。俺が助かったのはバッテナムのおかげだ」
「俺の?」
「最後の一撃で、俺は死ぬはずだった」
カエデの蹴りを受けて動きが止まったところへ、とどめの一撃が振り下ろされた。それで終わりのはずだった。
ところがその必殺の一撃が途中で止まった。
バッテナムがレンに攻撃したことに、カエデが反応したのだ。それで必殺の一撃が、中途半端な一撃になったのだ。
とはいえ、途中で止まってもカエデの一撃は強烈で、バルドの肩は深く斬り裂かれた。
死にはしなかったものの、それで勝負は決着した。
地面に倒れたバルドは、もう起き上がることができなかった。例え起き上がれたとしても、剣を握るのも無理だろう。バルドの敗北だった。
彼がもう戦えそうにないのを見たカエデは、それで興味をなくしたように剣を鞘に収めた。
「……殺さないのか?」
倒れたままのバルドが、苦しげな声で問いかける。
「死にたいの?」
「いや」
死を覚悟しての戦いだった。だが、今は猛烈に生きたいと思っていた。
「生きて……もう一度、お前と戦いたい」
「うん。また戦おうね」
カエデは楽しそうに言って、レンのところへ戻っていった。
それでバルドは生き残ったのだ。
左手の傷も、肩の傷も、即死するほどではなかったが重傷だった。普通の人間なら、出血多量で死んでいただろう。
だがバルドは魔人だった。魔人の力によって、すでに血は止まりかけている。このまま安静にしていれば回復するだろう。
「それよりバッテナムの方こそよく生き延びたな。あのガーガーに蹴られるのを見て、これは死んだなと思ったが」
「俺もそう思ったよ。どうして生き残れたのか、今でも不思議だ。だが、とにかく二人とも生き残った」
バッテナムは歩み去っていくレン・オーバンスたちの方を見た。すでに人影はだいぶ小さくなっている。
バルドは再戦を望むだろうが、バッテナムはもう二度と、あの男とあのガーガーには会いたくはなかった。
今度会うとしたら敵としての可能性が高い。そしてあの男には勝てる気がしない。
レン・オーバンスはグラウデン王国の貴族だという。だったらこの国ではなく、自分の国で思う存分暴れてくれればいい。
神よ。どうかあの男が我がバチニア公国の敵にならないことを――ガーガーに乗って去っていくレンの姿が見えなくなるまで、バッテナムは深い祈りを捧げ続けた。
謎多きハーベンの戦い
ハーベンの戦い(西方歴八百八十二年)は、ロレンツ公国の首都ハーベンで行われた魔獣戦だ。南海に面したハーベンは、それまでも何度か海魔の襲撃を受けていたが、このときはサーペントと呼ばれる巨大海魔に襲撃された。
このハーベンの戦い、その規模の割に知名度はかなり高い。
海に面した街がサーペントに襲われ壊滅したという事例は、世界のあちこちに残っている。
ハーベンの戦いが有名なのは、他の多くの街と違ってハーベンが壊滅しなかったからだ。それどころか襲ってきたサーペントを討伐している。
撃退したのではなく、殺したのだ。
これは当時としてはかなりすごいことだ。剣、槍、弓といった武器しかなかった時代に、サーペントを殺すというのは非常に難しい。事実、これ以前にサーペントを倒したという記録は存在しないし――神話や伝説とかは別――これ以降もずっと先、重火器が発明されるまで、サーペントを倒すことはできなかった。
何しろ竜騎士ですらサーペントを倒せなかったのだ。空を飛べる竜騎士と、海に潜れるサーペントが戦っても、不利になった方が逃げ出して戦いが終わってしまうからだ。
サーペントを追い返すのではなく、その場で倒すのがいかに難しいかわかるだろう。それを成し遂げたのが、このハーベンの戦いなのだ。
これだけで歴史に名が残るのに十分だが、ハーベンの戦いが有名なのにはまだ理由がある。有名な歴史上の人物が参加しているのだ。
あのレン・オーバンスと、あのサーリア・ロレンツの二人だ。しかも二人が最初に出会ったのがこの戦いで、さらにレンはサーリアに一目惚れして、彼女のためにサーペントと戦ったと伝えられている。
これまた多くの人々の興味を惹きそうな話だ。
そんなハーベンの戦いだが、実はこの戦い、謎だらけの戦いとしても知られている。
最大の謎はハーベンの竜騎士だ。
サーペントが街に襲いかかったその時、南海から竜騎士が飛来し、サーペントに強烈な一撃をお見舞いして、そのままどこかへ飛び去ったと伝えられている。
それがハーベンの竜騎士。その正体は当時、隣のグラウデン王国にいた竜騎士バイゼル――とされてきたのだが、ダークエルフ戦記の著者であり歴史家でもあるバンバ・バーンの調査によって、その説に疑問が突きつけられることとなった。
別の資料によって、その時期に竜騎士バイゼルが別の場所にいたことが明らかになったのだ。
これでハーベンの竜騎士の正体が謎になってしまった。
バンバ・バーンの説に反論して、やはり竜騎士バイゼルがハーベンの竜騎士だと主張する歴史家もいるし、別の竜騎士がたまたま通りがかったという説を主張する歴史家もいる。
また、そもそもハーベンの竜騎士は存在しない、という説もある。
竜騎士が助けに来たのだとしたら、なぜ一撃だけで飛び去ってしまったのかという疑問が出てくる。助けに来たのなら、最後まで助けろというわけだ。
その疑問の答えとして、竜騎士ではなく、竜が飛んできたのだという説を提唱する者いる。たまたま通りがかった竜が、気まぐれでサーペントを攻撃したのを、助けられた人々が竜騎士と誤認したというわけだ。今ではこちらの説の方が有力のようだ。
他にも竜騎士も竜も存在せず、住人たちは集団幻覚を見たのだ、という説や、レンがガー太に乗って飛んだのを見間違えたのだ、という珍説まで、様々な説が提唱されているが、本当のところはわからず謎のままだ。
謎はまだある。
レン・オーバンスがこの時期に、どうしてハーベンの街にやってきたのか、というのも謎の一つなのである。
勘違いしている人もいるのだが、レンはサーリアに会うためにハーベンにやってきたのではない。ハーベンでサーリアに会って一目惚れするのだ。
サーリアが美少女だといううわさを聞いて会いに来た、という説もあるが、これはおそらく間違いだ。
サーリアが有名になるのはこの戦いの後からで、この時はまだ無名だった。レンがどこからか彼女の情報を仕入れて会いに来た、というのも考えられるが、やはり可能性は低いだろう。
ちなみにレンもこの頃はまだ無名で、歴史書などに名前が登場するのは、この戦いが初めてといっていい。
だからなぜレンがハーベンにやってきたのか、そしてサーペントを倒した後で、なぜさっさと帰国してしまったのか――レンはサーペントを倒した数日後にハーベンを去ってしまった――そのあたりの理由が記録にないのだ。
レンがハーベンにやって来たのは、この時にハーベンで行われていた大会に参加するためではないか、という説もある。
ところがこの大会も謎だ。何か大きな大会が開かれていたようなのだが、どんな大会だったのか、はっきりした記録が残っていない。
だが大会に参加するためだったとしても、どうして遠く離れたグラウデン王国で大会のことを知ったのか、またなぜ大会に参加しようと思ったのか、そのあたりは謎のままだろう。
ハーベンでは、レンのことは南海の風の勇者と呼んだりするが、これは突然やって来て、すぐに帰ってしまったレンのことを、気まぐれな南海の風に重ねてのことだろう。
ただハーベンではもっと有名な呼び名が残っている。
少女のキスのために街を救った男、だ。
レンはサーペントを倒した褒美として、サーリアのキスを受け取り、それで満足して国へ帰ってしまったという話が残っている。
後世の作り話のように思えるが、複数の資料が残っているので、どうやら事実らしい。少なくともサーリアのキス以外に、目立った褒美は受け取っていない。
この呼び名のせいか、現代のネットでは、彼のことをロリコンの神とか鑑とかいってたたえる人たちがいる。
さすがのレン・オーバンスも、まさか遠い未来で、自分の名がそんな風に語られるなど思ってもみなかっただろう。
(とある歴史コラムからの抜粋)
寝落ちして日をまたいじゃいましたけど、どうにか、この章も終わりです。
どうもありがとうございました。
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