プロローグ
そこは真っ暗闇の空間だった。
何も見えず、何も聞こえず、それどころか何も感じない。
目を覚ましたばかりの連太郎は、とりあえず自分の体が無事かどうか確かめようとしたのだが、それすらよくわからない。
体が動く動かない以前に、自分の体の感覚を自覚出来ないのだ。
ここはどこだと混乱する連太郎だったが、まずは落ち着いて自分の最後の記憶を思い出そうとした。
そう、仕事が終わって家に帰り、ベッドの上で本を読んでいたら、いつの間にか寝てしまって……そしていきなりの轟音と衝撃で飛び起きたことを思い出した。
ついに大震災がやってきたのかと思ったら、なんと自分のマンションの一階に大型のタンクローリーが突っ込んでいたのだ。
連太郎が住んでいる部屋はマンションの三階で、ベランダからその様子を見て唖然として……そこから先の記憶がなかった。
いや、よくよく思い返してみれば、タンクローリーが火を噴いたような気もする。
もしかして、あの大型のタンクローリーが爆発炎上し、それに巻き込まれて自分は死んだのだろうか?
そうだとしたら、とんでもない大災害が起こったことになるが、それよりも今の自分の状況だ。本当にここは死後の世界なのか? だとしたらこれからどうなるんだ?
周囲は完全な闇で何も見えないし、自分の体も動かない。ずっとこの暗闇の中で未来永劫過ごしていく自分の姿を想像して連太郎は恐怖する。
死後の世界ってもっと明るい場所じゃなかったのか? 死んだら天国に行けるなどと楽天的に思っていたわけではないが、地獄に堕ちるほどの悪事は働いていない――はずだ。少なくとも、こんな状況はあまりにひどいだろう。
それでも一つ幸いなことは、僕が死んでも悲しむ人がいないことかなと連太郎は思った。
彼、菅原連太郎は中小IT企業でプログラマーとして働く会社員だった。今年で三十才になる。
勤務態度はまじめだが積極性が足りない――というのが上司の評価だ。特筆すべき点のない平社員である。
一人暮らしで、妻や子供どころか恋人がいたことすらない。休日一緒に遊ぶような友だちもいない。小さい頃から独りでいる方が気楽だったので、ずっと独りでいたらここまで来てしまった。
小さい頃に両親が離婚し、父親は家を出て行ったので顔も覚えていない。それから小学生になったばかりの頃に、今度は母親が男を作って出て行った。以来、ずっと祖父母に育てられてきたが、祖父は小学生五年の時に、そして就職してすぐに祖母が亡くなった。
母親は葬儀にも顔を出さなかった、というかどこにいるかもわからないので、連絡しようがなかったのだが。多分まだ生きているとは思うが、そんな母親だから息子がどうなろうが気にしないだろう。実質的に天涯孤独なので、その点は気楽だった。
あの母親のことだ。葬式どころか息子が死んだことも知らないのでは――などと自分の死後の扱いについて考えていると、不意に暗闇の中に白い光が生じた。最初小さかったその光は、どんどん大きくなっていく。
ぼんやりとした白い光に包まれ全体像がはっきりしないが、何かとてつもなく巨大な気配を連太郎は感じた。
「初めまして。異界の住人よ」
声が響いた。耳に聞こえたのではなく、まさに頭の中に響いたのだ。
「我らの言葉が理解できるか?」
「できるけど……」
連太郎の答えも声にならず、単に頭の中で思っただけだったが、相手には通じたようだ。
「それはよかった。さて異界の住人よ。お前は今の自分がどんな状態であるか認識しているか?」
「死んだ、とかですか?」
躊躇いがちに連太郎が訊ねると、
「その通りだ」
という無慈悲な答えが返ってきた。
連太郎は幸せだと胸を張って言える人生を送っていたわけではなかったが、死にたいとは思っていなかったし、やり残したこともあった。仕事関係は……まあいいとして、楽しみにしていた本、ゲーム、アニメなどいわゆるオタク趣味の心残りがいっぱいある。独りで過ごす連太郎は、当然のごとくそういう趣味に手を出して楽しんでいた。
特にベルセルクハンターというマンガの最後が気になった。完結する前に作者が死にそうだと危惧していたが、まさか自分が先に死んでしまうとは。
「お前は死に、魂は体を離れた。本来ならばそのまま魂はどこかへ消えていくが、それを我らが今こうして止めている」
「じゃあ、あなたは神様ですか?」
「違う。我らのことを神と崇める者もいるが、我らは我らを神だと認識していない。我らのことは竜の魂の集合体と言えば理解してもらえるだろうか。死した竜の魂は個別に消え去るのではなく、集合体に加わり世界の行く末を見守っているのだ」
「竜?」
わかるような、わからないような説明だったが、それより連太郎は竜という単語に反応した。
竜といえばやっぱりあれか、ドラゴンってことかと連太郎は思った。オタク趣味のおかげで竜と聞いてもそれほど戸惑わず存在を受け入れることができた。
「その通り。お前が住んでいた異界には人間はいても竜がいないが、我らの世界には竜が存在している」
「じゃああなたは異世界の存在ってことですか?」
「その通り。理解が早くて助かる」
彼の理解が早いのはこれまた趣味のおかげだった。異世界もまた竜と同じくゲームや小説でおなじみの題材である。
「それで異世界の竜の魂の集合体? でしたっけ。そんなあなたが僕になんの用なのでしょうか?」
「我らのことは、単に集合体とでも呼んでもらえればいい」
確かに一々、異世界の竜の魂の集合体は長すぎるから、連太郎は言われた通り集合体と呼ぶことにした。
「お前の力を貸してほしい。我らの世界では竜と人間がともに存在しているが、暮らす場所が違うので両者が普段交わることはない。だが、ごく希に人間の中に竜と波長の合う者が現れ、竜が力を貸すことで彼らは竜騎士となる」
竜騎士、ドラゴンナイト、ドラゴンライダー、ドラグーン――呼び名は作品によって異なるが、これまたファンタジー作品ではおなじみの存在だ。連太郎が思い浮かべたのは、空を舞う巨大な竜にまたがる騎士の姿だった。
「だが今、竜騎士の数は激減しており、このままでは竜騎士が一人もいなくなるかもしれない。そうなれば我らの世界のバランスが大きく崩れることになる」
「お話を聞いても、僕に出来ることなんてないと思うんですけど?」
話の流れからなんとなく想像がついてきたが、連太郎は相手にそう訊ねた。
「お前には竜騎士になってもらいたい」
「いや無理でしょ」
連太郎は思わず即答していた。
自慢ではないが小さい頃から運動は苦手で、体育祭と聞けば憂鬱になる人生を過ごしてきたのだ。どう考えても竜騎士になんてなれるとは思えない。
「竜騎士になれるかどうかは魂の波長とでもいうべきもので決まる。そしてお前の魂はその波長を持っている」
「運動神経とか関係なく?」
「肉体の強さは関係ない」
それなら確かになれるかもしれない。しかし連太郎が想像したのは、竜の背に乗り雄々しく空を飛ぶ自分の姿ではなく、竜の背から滑り落ちて悲鳴を上げながら落下していく自分の姿だった。いくら素質があると言われてもやはり自分には無理だろうと思った。
そんな否定的な考えにとらわれた連太郎に目の前の存在が語りかける。
「無理にとは言わない。お前が拒否するというなら、残念ながらあきらめるしかない」
「あきらめてもらえるんですか?」
「拒否する魂を無理矢理我らの世界に運ぶことはできない」
色々制約があるんだなと思いつつ、連太郎は気になったことを訊ねた。
「あなたの提案を拒否した場合、僕はこれからどうなるんです?」
「魂の行き先がどこかは我らにもわからない。天国や地獄があるのか、再び転生するのか、あるいはそのまま消え去るのか」
「どうせ消えるならってことですか……」
連太郎はつぶやいた。そして決心する。
自分に竜騎士など無理だとは思うが、どうせ死ぬのなら――もう死んでいるようだが――別の人生にチャレンジしてもいいかもしれない。
それにオタク趣味をたしなむ者として、異世界や竜にも興味があった。一度自分の目でそれを見てみたいと思った。
「わかりました。あなたの頼みを引き受けます」
「感謝する」
「それでですね――」
具体的にこれから自分がどうなるのか、集合体に色々聞きたかったのだが、向こうにその気はなかったようだ。
いきなりまぶしい光が生じ、連太郎はその光に呑み込まれた。
そして彼の異世界での第二の人生が幕を開ける。