第187話 ハーベン防衛戦5
「南海の風は我らに味方せず、か」
防衛軍を指揮するベルダースが無念そうにつぶやく。
今日は朝からずっと無風だったというのに、先ほどから突然強い南風が吹き始めたのだ。
南海の風が気まぐれなことは、この地に生きる者なら誰でも知っている。
それでも、よりにもよってここでか、と思わずにはいられない。
油壺を乗せた荷馬車がやっと到着し、火攻めの準備をしているところだった。
ハーベンの街は南が海に面している。つまり南風は、海から陸に向かって吹く風だ。
ここで不用意に火攻めを行えば、燃えさかる火は南風に煽られ北へ――街の方へと飛び火してしまう。
ただでさえやりにくい火攻めが、さらに難しくなってしまった。
早く、なんとかしなければならんというのに!
防衛軍はサーペント相手に一進一退の攻防を繰り広げている、というのはかなりの贔屓目で、実情は防戦一方でどうにか食い止めている、といったところだ。
サーペントはほぼ無傷なのに、こちらは死傷者が続出している。援軍――遅れて駆けつけた兵士たちや、一度はパニックになって逃げた住民たちが、街を守ろうと戻ってきたおかげで、どうにか持ちこたえている。
だがそれにも限度がある。というかサーペントがその気なら、とっくに防衛軍を蹴散らし、街の中心部へ侵攻していたはずだ。
それをしないのはサーペントの目的が街の破壊ではなく、人間を殺すことだからだろう。
住人は大慌てで逃げ出したので、街は今、無人地帯だ。人が多く集まっているのは、港近辺なので、サーペントはここから動かず戦っている。
もしこの場にいる兵士たちも全員逃げ出せば、サーペントは無人の建物には興味を示さず、さっさと海へ帰るのでは?
そんな考えもベルダースの頭をよぎったが、危険が大きすぎると却下する。
サーペントが海へ戻らず、逃げた人間を追ってさらに内陸へと進む可能性だってあるのだ。避難している住人たちが襲われたら大惨事になる。そんな危険は冒せなかった。
「ベルダース様、火攻めの準備が完了いたしました」
「わかっている」
「でしたら――」
「やみくもに攻撃はできん!」
すぐに攻撃を、と言いたげな部下の進言を強く否定する。
ベルダースも攻撃したいのは山々だ。しかし火攻めが失敗したら、もう打つ手はない。確実に倒さねばならないのだ。
しかし本当にそんな好機が訪れるのか?
来るはずのない好機を待っている間に部隊が壊滅し、火攻めそのものが不可能になったりしないか?
だったら部下の言うとおり、今すぐ攻撃に移った方が……
葛藤するベルダースだったが、そこへ急に見張り台の鐘の音が聞こえてきた。
何事かと思った。
すでにサーペントは上陸し、住人達も逃げ出している。なぜ今さら非常事態を告げる鐘を鳴らす?
理由はすぐに分かった。兵士たちが騒ぎ始めたからだ。
「竜騎士だ!」
「竜騎士が助けに来てくれたぞ!」
兵士たちが空を指さし、口々に叫んでいる。
「竜騎士だと。そんなバカなことがあるか!」
ベルダースは即座に否定した。彼は竜騎士がどういう存在なのか、知る立場にあったからだ。
竜騎士は間違いなく人類最強の存在だ。
もし万全の態勢の竜騎士と正面から戦えば、万余の軍勢をもってしても勝てないだろう。
なにしろ空飛ぶ竜騎士に対し、地上の兵士たちは満足な攻撃手段を持たない。せいぜい弓矢で攻撃するぐらいだが、そんなもの、竜の羽ばたき一つで吹き飛ばされてしまう。
対して竜の方は――種類によるが――炎を吐いたり、雷を落としたりして、地上を好き勝手に蹂躙できる。これでは勝負になるはずがない。
だから大陸のほぼ全ての国々や、有力な宗教――大陸西方ならドルカ教の総本山アルジス――等は竜騎士の盟約を交わしている。
これはその名の通り、竜騎士の扱いについて定められた盟約だ。その中でも特に大事な点は三つ。
加盟者は竜騎士に危害を加えてはならない。
竜騎士は自らに危害を加えられない限り、加盟者を攻撃してはならないし、加盟者同士の争いに介入してはならない。
加盟者は竜騎士の来訪を拒否できる。
最初の二つは、人間と争ってはならない、ということだ。
竜騎士が人間と敵対するようになれば、とんでもない脅威となるし、特定の勢力や集団に肩入れすれば、勢力図が激変し、大混乱を招くことになる。
そんな強い影響力を持つ竜騎士の入国を、加盟国は拒否することができる。それが三つ目の内容だ。単に竜騎士が来るというだけで、国内が混乱する恐れがあるので、受け入れ側はそれを拒否できる。
ちなみに竜騎士の盟約では、入ってきた竜騎士が出ていこうとするのを引き留めることも禁止されているが、その気になった竜騎士を止めるのは事実上不可能なので、この項目は有名無実化している。
もし加盟国が盟約に背いたり、竜騎士が盟約を破った場合、他の加盟国や竜騎士は一致団結し、違反者を処罰することになっている。
竜騎士は竜騎士になった時点で、盟約に加盟したものと見なされる。拒否権はない。
全ては竜騎士という巨大な存在を恐れるが故だ。個人が持つには竜の力はあまりに大きすぎるのだ。
現在、大陸に存在する国や宗教勢力で、竜騎士の盟約に加盟していないところはほとんどない。非加盟なのは、全て無視できるほどの小国や団体ばかりだ。
主義主張の違う国や集団が、竜騎士の盟約だけは結んでいるのは、それだけ竜騎士を恐れていたからに他ならない。
ちなみにもう一つ、この世界の人間が主義主張を乗り越え、一致団結する相手がいる。魔獣である。
ある意味、竜騎士は魔獣と同じように思われていたのだ。
とはいえ魔獣がほぼ全ての人間から恐れられているのに比べ、竜騎士を恐れている者は少ない。自らの地位を脅かされると思っている権力者だけ、といっていいかもしれない。
それ以外の多くの者たちにとって、竜騎士はあこがれの存在であり、魔獣を討ち滅ぼしてくれる救世主なのだ。
一般の兵士たちは、竜騎士の盟約のことも知らないだろう。だから竜騎士が来たと聞けば、無邪気にそれを信じて喜ぶ。
だがベルダースは盟約を知る立場にあった。そして盟約を知っていれば、ここへいきなり竜騎士がやって来るはずがないことも知っている。
確かに今、隣国のグラウデン王国には竜騎士が一人いたはずだ。その竜騎士ならば、来ようと思えばすぐにハーベンまで来られるだろう。両国の間にあるダーンクラック山脈も、竜騎士ならひとっ飛びだ。
だが入国を拒否できると盟約にある以上、国を跨いだ移動については、事前の連絡が不可欠だった。
ちょっと国境を越えてしまったとか、その程度なら暗黙の了解として許されているが、いきなりハーベンの街まで飛んできたりすれば大問題になる。
竜騎士から訪問の打診があったとか、こちらから竜騎士を呼んだとか、そんな話はなかったはずだ。少なくともベルダースは聞いていない。
公爵様が一人で勝手に呼んだならともかく、いくら公爵様でもそんな勝手は……
……やるかもしれない。
内緒で交渉を進め、この土壇場で竜騎士を呼んでみんなを驚かせる――あの方ならやりかねない。
竜騎士が来るはずないと確信していたベルダースだったが、にわかにその確信が揺らいだ。
「竜騎士とやらはどこだ!?」
ベルダースは建物の影にいたのだが、慌ててそこから飛び出すと、竜騎士だと騒ぐ兵士たちに詰め寄った。
「あ、あそこです!」
兵士の一人が、ベルダースの形相に驚きながらも、空を指差して答える。
そちらを見たベルダースも、
「おおっ!?」
と驚きの声を上げた。
確かに人を乗せた何かかが、こちらに向かって飛んでくる。
まさか本当に竜騎士が!?
と驚いたベルダースだったが、それが近付いてくるにつれて、竜騎士でないことがわかった。
彼は昔、一度だけその目で竜騎士を見たことがあった。だからすぐにわかった。
あれは竜ではない。鳥だ、大きな鳥だ。その鳥に人が乗っているのだ。
周囲の兵士たちはそれがわからないのが、まだ竜騎士だと騒いでいる。
どう見ても鳥なのだが、竜騎士だと信じ込んだ兵士たちには、あれが竜に見えているようだ。
よく見ると、数は少ないがおかしな顔をしている兵士たちもいた。彼らにはちゃんとあれが鳥に見えているようだ。
とにかく竜騎士でないことはわかったが、ではあれが何かというと、正体はさらにわからなくなった。
鳥に乗って空を飛ぶ者など、見たことも聞いたこともない。
あれが一体何者なのか、見当もつかなかった。
「もうすぐ陸地だよ、ガー太」
「ガー」
レンとガー太の飛行は順調だった。ただガー太は翼を大きく広げているだけで、羽ばたきとかはしていない。グライダーなどと同じように、風に乗って滑空しているのだ。
そしてついに海を越え、港へ、陸地の上へと到達する。
サーペントはもう目の前だった。
全長数十メートルの巨体は、最初に見たときより小さく感じられた。地面から見上げるのと、上から見下ろすのとの違いだろう。
そのサーペントの顔が、レンたちの方を向く。
レンはサーペントの視線に、敵意ではなく戸惑いのようなものを感じた。
空を飛ぶガー太を見て、サーペントもなんだこいつは? と思っているのだろうか。
「左に曲がろう」
このまま直進すれば、サーペントを左に見ながら、離れた位置を通り過ぎてしまう。
だからレンは体を左に傾けた。自転車に乗っているような感覚で。
ガー太もそれに応じて左へ体を傾けると、緩やかな左旋回に入った。
正面がサーペントへ向いたところで、体をまっすぐに戻す。これでサーペントへの直進コースに入ったが、旋回で風の受け方が変わったせいか、高度が急に下がり始めた。
ここまで飛べれば十分だ、と思いながらレンは弓を構える。島での戦いからここまで、弓矢はずっと持ったままだった。
背中の矢筒から一本抜いて弓につがえる。狙いはもちろんサーペントだ。
サーペントは蛇が鎌首をもたげるような体勢で、ガー太の方をじっと見たままだった。
威嚇も攻撃もしてこないのは、やっぱり戸惑ってるのか? と思いつつ、レンは狙いを定める。サーペントが何を思っているのかはわからないが、このチャンスを逃してはならない。
体の大きさが大きさなので、サーペントの顔は地面から三メートルぐらいの高さにあった。
レンとガー太は、そのサーペントの顔のすぐ前、一メートルぐらいのところを横切る。
レンが矢を放ったのは、その最も近付いた瞬間だった。
まさに至近距離、外すわけがなかった。
矢は狙い通りサーペントの右目に命中した。矢は巨大な赤い眼球を貫き、根本まで突き刺さった。
レンは知らなかったが、サーペントの目は粘着力のある液体で守られ、さらに眼球も鉄のように硬かった。
レンが使っているのはダークエルフ製の強弓だが、その弓でも下から普通に射ていたら矢の勢いが殺され、貫通できなかった可能性が高い。
同じ高さの至近距離だったからこそ、易々とサーペントの右目を貫くことができたのだ。
「ギョアアアアアアッ!」
矢を受けたサーペントは空気を震わせる鳴き声、というか悲鳴を上げ、顔をのけぞらせるように地面に倒れた。
最初に島でレンたちの前に現れてからここまで、人間の攻撃でほとんどダメージのなかったサーペントが、初めて受けた深手だった。
巨大な顔が地面に激突し、そこにいた不運な兵士たちが何人か、逃げ遅れて下敷きになった。さらに近くにあった倉庫が衝撃で倒壊する。倒れたサーペントは動きを止めず、体を激しくくねらせた。
人間なら痛みにもだえて七転八倒、といったところか。
「やった!」
倒れたサーペントを見て、ガー太の上でガッツポーズしたレンだったが、
「ガーッ!?」
あせったようなガー太の鳴き声に前を向くと、目の前には民家の二階が迫っていた。
高度が下がり続け、ついにここまで落ちてきたのだ。
「ちょ――」
何かを言いかけたレンと、顔を引きつらせたようなガー太は、そのまま民家に激突。
二階の壁を突き破り、家の中に突っ込んだ。