第186話 ハーベン防衛戦3
振り下ろした剣から返ってきた手応えに、ベルダースは顔をしかめた。
それは今まで感じたことのないもので、無理に例えるなら、思いっ切りネバネバした水に剣を叩きつけたような、そんな感覚だった。
サーペントの胴体は大きな鱗で覆われており、そこへ斬りつけたベルダースは、硬い鱗にはじき返されるかもしれない、と危惧していた。
幸い軟らかかったが、剣が通りやすいというわけでもない。衝撃を吸収し、受け止めてしまうような感じだ。
それでも――剣は通じた。
浅かったがサーペントの体に傷を付けることができた。
全長数十メートルのサーペントからすれば、剣の傷などまさにかすり傷で、しかも超回復によってその傷もすぐに塞がってしまう。だが傷付けることができるなら、それを積み重ねていけばいい。多人数で攻撃を繰り返し、相手の超回復を上回るダメージを与えれば倒すことができる。
気合いを入れて二撃目を振り下ろそうとしたベルダースだったが、その時、サーペントの胴体が動いた。
サーペントにしてみれば、ちょっと身じろぎした程度だったのかもしれない。うっとうしい虫を振り払うように。
だが全長数十メートル、胴の太さは三メートルに達しようかという巨体だ。
近くにいたベルダースや他の兵士たちにしてみれば、巨大な壁がぶつかってきたような衝撃だった。
ベルダースや、周囲にいた他の兵士たちが、サーペントにはじき飛ばされる。
「がはっ!?」
数メートル宙を舞い、ベルダースの体は倉庫の壁面に叩きつけられた。
衝撃と痛みで気を失いそうになったが、どうにかこらえ、剣を杖にして立ち上がる。
体は動く。まだ戦える。
だがサーペントはさらに暴れ回った。体をくねらせ、周囲の兵士や建物をなぎ倒す。
ベルダースのようにはじき飛ばされた者はまだ幸運だった。悲惨だったのは巨体に押しつぶされた者だ。よくて骨折などの重傷、運が悪ければそのまま圧死だ。
サーペントの巨体が生み出すパワーはすさまじく、石造りの頑丈な倉庫が、体当たりを受けて次々と倒壊する。
兵士たちは悲鳴を上げて逃げ惑い、攻撃どころか近付くことさえ難しい。
「何ということだ……」
考えが甘かった、とベルダースは己の判断を悔やんだ。サーペントは想像以上の化け物だ。これでは兵が千人いても、いや一万人いたとしても、正面から挑んで勝てるとは思えない。
ならば別の手を使うしかない。できれば使いたくなかったが、そんな甘いことを言っていられる相手ではなかった。
「無理に近付くな! 囲みつつ距離をとれ!」
何も考えずの接近戦は無謀と判断し、一度兵士たちに下がるように命じる。
自分も後ろへ下がり、ロレンツ公爵の所へ向かう。
「生きていたかベルダース。本気で死んだかと思ったぞ」
「私も死ぬかと思いました」
ロレンツ公爵はだいぶ後ろから戦況を眺めていた。
それでいい、とベルダースは思う。前に出て来られて戦いに巻き込まれ、万が一のことがあればそれこそ一大事だ。例え自分たちが全滅しても、公爵には生きていてもらわねばならない。
「公爵様、ご覧の通りあのサーペントは、まともにやって勝てる相手ではありません」
「だろうな。では逃げ出すか?」
いつもと変わらぬ軽い調子でロレンツ公爵が聞いてくる。その言葉にベルダースは少し安心した。
上の者が落ち着いていれば、下の者もある程度は落ち着くのだ。
「街を捨てて逃げるのは最後の手段です。公爵様、火攻めの許可を」
「それしかないか」
ほとんどの海魔に対し、最も有効な手段が火攻めだった。
ただし火攻めには延焼という問題がある。海魔を倒したはいいが、大火事になって街が焼けてしまっては本末転倒だ。
それに魔獣の生命力は脅威だ。燃えさかる炎の中から飛び出し、全身火だるまになりながら暴れ回ったという魔獣の話もあるのだ。軽々しく火攻めはできない。
「準備はできているのか?」
「もうすぐ油壺をの乗せた荷馬車が到着するはずです」
油壺は海魔攻撃用に作られた特別製だ。
陶器の壺で大きさは子供の頭ぐらい。中に油を入れてから口を密閉、くびれの所に縄を巻き付けている。兵士たちは縄を持ってブンブンと振り回し、勢いをつけてから海魔に投げつける。当たれば壺が割れて油がかかり、そこへ火矢を撃ち込んで燃やすという寸法だ。
この油壺もまた、
「強力な海魔が現れた場合のことも考えておかねばならない」
というロレンツ公爵の命令によって開発された。
作られた壺は数百個あり、いざという時に備え、城の倉庫に保管されていた。
今回は先に兵士たちが出て、油壺を乗せた荷馬車は準備でき次第出発という手はずになっていたので、もうそろそろ到着してもいいだろう。
「だがこの状況で火攻めをしても効果があるのか?」
「それは……」
ベルダースは返事に窮した。彼もわかってはいたのだ。
普通の海魔なら、その気になれば燃やすことは簡単だ。
多少外れても、油壺を何個か命中させて火をつければいい。周囲を気にしなければ、それで火だるまにできるだろう。
しかしサーペントはあの巨体である。少々燃やしたところで、それで倒せるかどうかわからない。そして相手は元気に動き回っている。そんな状態でサーペントの全身を燃やそうというのはかなり難しいだろう。
ほんの少しの間でいい、サーペントの動きを止めることができれば。そこを集中攻撃して火をつければいい。
だがどうやって?
ベルダースには妙案が思い浮かばなかった。
ラグナ号は街に急行していた。急行していたのだが……
遅いな、とレンは思った。
船に乗る前は、海面を颯爽と進んでいく姿をイメージしていたのだが、船のスピードは全然上がらない。
漕ぎ手は号令に合わせ、がんばって櫂を動かしているようだが、逆向きの潮の流れが強くてなかなか進めないようだ。
このままじゃ手遅れになるんじゃ?
とあせるレンだったが、船の上ではどうすることもできず、黙っているしかなかった。
せめて風が吹いてくれれば。
ラグナ号にはマストが一本あったが、今は無風なので帆は広げていない。ここで南風が吹いてくれればいいのだが、逆風でないだけマシ、と思うしかないのか。
その時だった。
今まで無風だったのに、突然、南からの風が、それも突風のような強い風が吹き始めたのだ。
なんで急に!? と驚くレンだったが、
「南海の風が来たぞ! 帆をかけろ!」
まるで風が吹くことをわかっていたかのように、船長が即座に命じる。
さすがは海の男、素人にはわからないけど経験でちゃんと風が吹くのがわかるんだなあ、などと感心したレンだったが、これは勘違いだった。
船長は南風が吹くなどと予想してはいなかった。ただ、急に風が吹くかもしれない、と備えていただけだ。
南海の風は気まぐれなことで知られている。
風がなかったのに急に吹き出したり、逆に強風がピタッとやんだり、いきなり風向きが逆に変わったり。
経験豊富な漁師でも、南海の風は読めないといわれている。だから南海に面した地域では、どうなるかわからないという意味で「南海の風まかせ」なんて言葉が生まれたりもした。
船長もそんな南海の風に備えていただけだ。いきなり風が吹き出すかもしれない、と。
今回はそれが幸運なことにレンたちにとって追い風となる南風だったのだ。
船員たちも南海の風の気まぐれさは知っていたので、驚くことなくすぐに作業に取りかかった。
帆を張るために二人の船員がマストに登ったが、それを見たレンは危ないなあ、とヒヤヒヤした。何しろ命綱も着けずに高いマストへ登っていくのだ。落ちたら無事ではすまない。
だが船員たちは慣れたもので、スルスルと上まで登ると、横の柱――帆桁にまたがって、帆を縛り付けていたロープを外し始めた。
展開された帆は大きく風をはらみ、ラグナ号は急加速した。
「うわっ」
甲板に立っていたレンも思わずよろけるほどの加速だった。
それまでノロノロ進んでいたのがウソのように、ラグナ号は進み始めた。レンが最初に思い浮かべていた通りの疾走だった。