第185話 ハーベン防衛戦2
ハーベンの街が海魔や魚魔に襲われる回数は、周辺の港町や漁村と比べると少ない。
南海に面しているという点ではハーベンも他の街も変わらないが、ハーベンは湾の奥に位置しているため、ここが襲われる前に他の街や村が襲われることが多いのだ。
南海に面した街では、多ければ年に数回ぐらい海魔に襲われているところもあるが、ハーベンはせいぜい数年に一回ぐらいである。
他の街に比べて少ないとはいえ、何度も襲撃を受けているので、対海魔の戦術は確立している。
海魔が現れた場合、街の住人や船乗りたちは、急いで海の側から離れる。一方、街の警備隊は海から少し離れた所に布陣し、上がってくる海魔を待ち構える。
多くの海魔は水から上がると動きがにぶる。だから海に近付きすぎない、というのは鉄則だった。
相手が水から上がってこない海魔や魚魔なら、警戒しつつ海辺に出て戦うが、この場合も陸地から攻撃して決して海には入らない。海魔と海の中で戦うのは自殺行為だ。
編成された防衛軍の指揮を任されたベルダースは、今回もまたこの鉄則に従った。
当初は街からの避難民に行動を邪魔されたが、港に近付くにつれ動きやすくなった。みんな逃げ出したので人がいないのだ。
ハーベンには港に隣接した倉庫街があったが、ベルダースはそこに入ったところで布陣した。建ち並ぶ倉庫は石造りの頑丈なものばかり。海からの攻撃に対して、それらを防壁として使うつもりだった。布陣した場所から海までの距離は百メートルほど。まずは海魔がここまで上がってくるかどうかだ。
城を出たときに百名ほどだった軍勢は、三百名ほどに増えていた。
遅れて駆けつけてきた兵士たち、街の警備隊、それに少しだが武器を手にした街の住民たちもいる。
それにしても、まさか本当にこのような日が来るとは――ベルダースは若干の後悔と共に、以前のやり取りを思い出していた。
「街を壊滅させるような、強力な海魔に襲われた場合のことも考えておくべきだろう」
とロレンツ公爵が言い出したのは何年前だったか。
ベルダースもそういう危険があることは認識していた。
南海にはサーペントの他、巨大で強大な海魔が何体も確認されており、それらに襲われて壊滅した街や村もある。だがハーベンは湾の奥にあるから、襲われるとしてもまずは他の街だろう、という思いがあった。
もっと危機感を持って公爵様の話を聞いておくべきだったと思ったベルダースだったが、それでも彼はやるべきことはやっていた。ロレンツ公爵の命令を受けて、一通りの計画を整えたのだ。
各地区の代表者を決めて連絡網を作り、いざという時はそれを使って、速やかに住民の避難と徴兵を行う予定だった。
普通の海魔なら、住民を避難させて警備隊だけで対処する。
だが街が壊滅するかもしれないとなれば、住民にも兵士として戦ってもらわねばならなかった。
この時代、兵士の種類は大きく三つに分けられた。
まずは王や貴族と主従契約を交わした兵士たち。騎士や警備隊などの常備軍だ。軍隊の中心となる存在で、常日頃から訓練している精鋭部隊でもある。ただし平時でも雇用し続ける必要があるので、多数の兵力を保持しようとすれば莫大な金がかかる。
そこで出番となるのが傭兵だ。必要なときだけ金を払って彼らを雇う。いらなくなれば契約終了なので、傭兵は常備軍と比べて安くつく。だが練度はバラバラだし、忠誠心も期待できない。
そして最後が農民や街の住民を徴兵して編成した徴兵部隊。こちらも傭兵と同じく、必要なときだけ徴兵して、戦いが終われば解散となる。傭兵よりさらに金がかからない――徴兵を領民の義務としているところもあるし、ある程度の給金を支払うところもあるが、それでも傭兵よりは安い――その代わり領内の働き手を奪うことになるので、経済的なダメージが大きくなる場合がある。
わかりやすいのが種まきや収穫の時期の徴兵だ。この時期に農民を徴兵すると、農作物の生産に大きな影響が出るから、簡単に徴兵することはできない。
この時代、国や地域にもよるが常備軍と傭兵が戦場の主役であり、徴兵部隊が戦場に出てくることはあまりない。
これは魔獣の影響が大きかった。
軍隊の頭数を増やすのはいいが、集団が大きくなればなるほど、魔獣の襲撃を受けやすくなる。
また数が増えれば食料などの輸送量も増えるが、これも魔獣の脅威があるような状況では、大量の物資を安定供給するのが難しい。
そういう理由から、どうしても数を絞った少数精鋭になりがちだった。
例外は防衛戦だ。自国が攻められた場合であれば、輸送の負担が減るので、思い切った徴兵をかけやすい。
特に魔群の襲撃を受けた場合は、住民が根こそぎ動員されることも多い。人間相手なら降伏もできるが、魔獣相手なら殺すか殺されるかだ。後がないので、戦える者は全員武器を取ることになる。
ハーベンの街でも、ロレンツ公爵の命令によって、いざという時の徴兵体制が整備されていたのだが……
残念ながら上手く機能しなかったな、とベルダースは思った。
実際に巨大海魔が現れた途端、住民たちはパニックになって我先に逃げ出してしまった。逃げずに残って防衛軍に加わった住民もいるが、その数は少なく数十人ぐらいだった。これでは戦力として期待できない。
だがものは考えようだ。戦いに慣れてない住民を集めたところで、どこまで役に立つかわからない。だったら最初から彼らをあてにせず、自分たちだけで戦った方がいいかもしれない。
それより惜しむらくは襲撃が今日、よりにもよって大会当日だったことだ。
これが昨日でも明日でも、街には大会に参加すべく集まった千人近い傭兵がいた。連中のせいで街の治安が悪化するなど、いいことは一つもなかったが、サーペントが襲撃してきた今こそ連中が必要だった。
なのに今日は大会当日、連中は後継者の島へ渡ってここにはいない。
一応、急いで島へ連絡は送っておいた。
大会は当然中止、すぐにハーベンに戻って来いと。だが連中が戻ってくるまで、どれだけ時間がかかるかわからない。
やはり連中はあてにせず、自分たちだけで戦うべきだろう。
「来ました、サーペントです!」
見張りの兵士が叫ぶ。
ベルダースにもその姿が見えていた。
「でかいな……」
やはり大きい。顔だけで大人の人間ぐらいありそうだ。蛇のように長い体をしているが、全長は何十メートルになるのか。
その巨大な体をくねらせるように泳ぎながら、サーペントは悠々と港に入ってきた。
さてどうする?
海の中にとどまったままか、陸に上がってくるのか、それによってこちらの対応も違ってくる。
岸壁のすぐ側まで来たサーペントはそこで止まり、蛇が鎌首をもたげるように、水面から顔を持ち上げた。
高さ三メートルぐらいだろうか。サーペントは高所からベルダースたち防衛軍を見下ろす。
突然、そのサーペントの周囲の海面が波立った。
サーペントを中心に渦を巻くように水が流れ、それら大量の海水が水柱となって立ちのぼる。
「は?」
思わずベルダースが間抜けな声を出す。
嵐の日に荒れた海を見たことがある。数メートルの大波が次々と打ち寄せ、その迫力に圧倒されたものだが、これはそんな大波とは根本的に違う。
大量の水がまるで竜巻のように垂直に立ちのぼっている。
口から水を吐くというならわかるが、こんな現象は理解不能だ。おそらくサーペントの能力なのだろうが、どうやったらこんなことができるのか。
「まるで噴水のようだな」
と言ったのはベルダースの後ろにいたロレンツ公爵だ。ここまで乗ってきた馬からはすでに降りている。魔獣におびえて暴れ出したら危ないからだ。
噴水を知らなかったベルダースは、それが何か訊こうとしたが、
「み、水が!?」
兵士たちが悲鳴のような声を上げた。
立ちのぼった水柱が向きを変え、放物線を描くようにこちらに――ベルダースたち防衛軍がいる場所に向かって落ちてきたのだ。まるで生き物が獲物めがけて襲いかかるような勢いで。
「衝撃に備えろ!」
ベルダースはそう叫ぶのがやっとだった。
大量の水が地面に激突した。
まるで洪水に飲み込まれたようなものだった。
水柱の落下地点近くにいた兵士たちは、衝撃ではじき飛ばされ、激流に押し流された。
ベルダースは落下地点から少し離れた場所にいたが、それでも水に流されそうになって必死に踏ん張る。
「おおおおっ!?」
と悲鳴を上げたのはロレンツ公爵だ。彼は踏ん張りきれずバランスを崩したが、付いていた護衛の兵士が二名、慌てて彼の体を支えてどうにかこらえた。
幸い、激しい水の流れはすぐに収まった。
この水流攻撃は精神的な衝撃は大きかったものの、直接的な被害は少なかった。
ベルダースが周囲を確認すれば、水に押し流された者たちも立ち上がろうとしている。どこかに体をぶつけたりして骨折した者もいるだろうが、見た限りでは死んだ者はいない。
しかしこの攻撃はやっかいだった。何しろ対抗手段がない。一方的に水を流し込まれたら、こちらはどうすることもできないのだ。何か手を打たねば、と考えるベルダースだったが、その必要はなくなった。
サーペントが陸に上がってきたのだ。
巨大な体を蛇のようにくねらせながら、こちらに迫ってくるサーペントに対し、
「迎え撃て! 盾を構えろ!」
とベルダースは慌てて指示を出すが、兵士たちの動きはにぶい。
水で流されたせいで陣形が崩れていた。
まさかさっきの攻撃はこれを狙って!?
海魔の分際で悪知恵を働かせるとは、とベルダースは激怒したが、どうすることもできなかった。
サーペントが、乱れたままの兵士の列に襲いかかる。
「ひっ!?」
と悲鳴を上げたのは、最初に狙われた兵士だった。
サーペントの巨大な顔が迫り、大きく口が開く。恐怖に身をすくませた兵士は逃げることもできず、その巨大な口に飲み込まれた。
サーペントは動きを止めず、そのまま次の獲物へと襲いかかる。
「公爵様は後ろにお下がりください! 他の者はサーペントを包囲しつつ攻撃しろ!」
ベルダースが矢継ぎ早に命令を出す。
「奴の正面に立つな! 体がでかい分、全部の攻撃には対応できないはずだ。回り込んで攻撃しろ」
そして腰の剣を抜いて叫ぶ。
「続けえッ!」
自ら先頭を切って、ベルダースはサーペントに斬りかかっていった。