第183話 潮流
泳いでくる者がいる、という報告を聞いた船長がまず思ったのは、誰か逃げてきたのか? だった。
島ではファイグスとの戦いが続いているが、そこから逃げ出した傭兵が、海に飛び込んだと思ったのだ。
海は危険な場所だ。海魔や魔魚がいて、しかも水面下にいるそれらを見ることができない。底が見える浅瀬で泳ぐのならともかく、深い沖で泳ぐのは非常に危険だった。
よほど追い詰められていたのか、恐怖で頭がおかしくなったか、とにかく普通は沖合の船まで泳ごうなんて考えない。
「船長! こっちに泳いでくる奴ですけど、何かに乗ってるみたいです」
「はあ? 何かって――」
何だ、と言いかけた船長の言葉が止まる。
自分の目でそれを見たからだった。
なるほど、男が一人こちらに向かって泳いでくる。そして男は自分で泳ぐのではなく、何かに乗って泳いでいた。
「ありゃ何だ?」
「さあ……馬に乗って泳いでいるように見えますが……」
「馬か? 違うような気もするが……そもそも馬って人を乗せて泳げるのか?」
「わかりません」
なんてことを言っている内に、ナゾの生き物に乗った男は船に近付いてきた。
「……馬じゃないな。俺の目にはガーガーに乗っているように見えるんだが?」
「私にもそう見えます」
馬ならまだ理解の範疇だったと思うが、ガーガーに乗って泳いでくるのは完全に予想外だった。
本来なら、島から傭兵が逃げてきても、そんなのは無視してさっさと船を出航させるべきだったが、あまりに予想外すぎて男を待ち受けてしまった。好奇心に負けてしまったのだ。
「何者だ!?」
男が船の側まで泳いできたところで、船長が声を投げかけた。本当に何者だと思いながら。
「僕はレン・オーバンスといいます! 大会の参加者です!」
という返答に続いて、
「あ、一応、貴族です!」
「貴族?」
船長はその答えに驚いた。これまた予想外の答えだった。
確かあそこで戦っているのは傭兵だけのはずじゃ? と思いながら副長に聞く。
「貴族の参加者なんていたのか?」
「いえ、私も聞いていませんが……」
副長も首を横に振る。
「じゃあニセ者か? 助かりたいのでウソをついてるとか」
「平民が貴族を名乗ったら死刑ですよ。さすがにそんなウソはつかないと思いますが」
などと二人が言い合っていると、船員の一人がためらいながら声をかけてきた。船長と副長の会話に割り込むのは恐れ多いが、言っておかねばならないと思ったのだろう。
「すいません。俺、知り合いから聞いたんですけど、大会に他の国の貴族が参加したって」
「本当に?」
「そいつ、城の警備兵なんですけど、城じゃ結構うわさになってるって。他の国の貴族で、大会に勝ったらサーリア様と結婚させてほしいと、公爵様に直談判したとか。公爵様もそれをおもしろがって参加を許可したとか」
「じゃあ、あれがその?」
「そこまではわかりませんが……」
やっかいなことになったと船長は思った。
「貴族を無視するのはマズいよな?」
「マズいでしょう」
副長がうなずく。
仕方なく船長はレンに向かって訊ねた。
「それではオーバンス様、この船に何のご用でしょうか?」
「さっき島の方から見たんですが、大型の海魔、サーペントが北へ向かって泳いで行ったんです」
「それなら我々も見ました。これからその後を追うつもりです」
「だったらちょうどいい。僕も乗せていって下さい」
「この後は、おそらくサーペントとの戦いになります。そんな危険な場所にお連れするわけには……」
「危険だから行くんです。サーペントは街を襲うつもりですよね? それを救援に行くなら連れて行って下さい。僕も多少は戦えます」
なるほど、このタイプの貴族かと船長は思った。
貴族には魔獣との戦いに積極的な武闘派の者も多い。それを貴族としての義務だと考えていたり、武勇を立てたいという功名心だったり、理由は様々だが、このレンという貴族もそういう武闘派なのだろう。大会に参加したことからも、それがわかる。
「わかりました。では我々と一緒にサーペントを追いましょう」
「いいんですか?」
あっさり決めた船長に、副長が心配そうな顔で聞いてくる。
「いいも何も、貴族様の命令には逆らえんだろう」
「それはそうですが、余計な口出しをされでもしたら……」
「当然、船の上では俺の命令に従ってもらう」
断固とした言葉に副長も納得したようだが、船長にはもう一つ、口には出していない考えがあった。
保身である。
すでにラグナ号はサーペントにだいぶ遅れているというか、わざと遅れるようにしたわけだが、後でこれが問題にされる可能性があった。
「なぜサーペントを食い止めようとしなかった?」
と問い詰められた場合に、
「一隻では勝てないと思ったので、やり過ごしました」
と正直に答えるのはまずいかもしれない。
理屈は正しいと思うが、それを上の貴族たちに許してもらえるかは別問題だ。
だがここでレンを拾っていたので時間がかかりましたと言えば、責任をレンにも押しつけられる。
レンは他の国の貴族らしいが、貴族は貴族だ。その命令に従った船長を責めるのは、貴族たちには難しいはずだ。何しろ日頃から威張り散らしているような連中だ。貴族の命令に逆らえばよかったのだ、とは言い出しづらいだろう。
そこまで素早く計算して船長はレンの乗船を許可したのだが、そこからがちょっと大変だった。
「では早く乗ってきて下さい」
と縄ばしごを降ろしたのだが、
「あ、こいつと一緒に乗りたんですけど」
「そのガーガーとですか!?」
ラグナ号は一段式のガレー船だ。簡単に構造を説明すると、櫂の漕ぎ手が並んで座る下層があって、その上に船長たちがいる上甲板がある。
喫水は浅いし、甲板も水面からそれほど高くない。せいぜい1メートルちょっとだ。だから縄ばしごで簡単に乗ってこられるのだが、ガーガーとなると話が別だった。
結局、網を使って引き上げることにした。魚を捕るためでなく、海魔との戦いに使われる大きくて頑丈な網だ。これを海に投げ入れて、数人がかりで引き上げた。
網があってよかったとレンは思った。
思い付きで船まで泳いできたが、ガー太と一緒に船に乗る方法まで考えてはいなかったのだ。船に網がなければ、乗船をあきらめていたかもしれない。
釣られた魚はこんな気持ちなのかな、と思いながら船上に引き上げられたレンは、ガー太から降りてお礼を言おうとしたのだが、降りたところでふらついた。
「大丈夫ですか?」
船員の一人に声をかけられる。中年の男性で、おそらく彼がこの船の船長だろう。
「大丈夫です。それよりありがとうございました」
まずはお礼を言ってから、自分の体調をチェックする。
ガー太に乗っているときは身体能力が大幅に強化されるが、その反動か、降りたときに疲れが一気にやってくる。最初にガー太に乗り始めた頃は、筋肉痛で寝込んだこともあったが、近頃は体が慣れてきたのか、そういうこともなくなっていた。
ただ今日はずっと戦い詰めだったので、だいぶ疲れてきているようだ。もう一頑張りだ、と気合いを入れた。
レンたちが乗ってすぐに、船は動き始めた。
かけ声に合わせて、船の左右に並ぶ櫂が一斉に動く。
この世界に来てから、川を渡る渡し船に乗ったことはあるが、こんな大きな船に乗るのは初めてだった。しかもガレー船だ。もちろん元の世界でもガレー船に乗ったことなどない。
人力でちゃんと船が進んでいくのに感動したが、思ったよりスピードが出ない。
ガレー船のスピードなど知らないので、こんなものだと言われたらそれまでなのだが。
「どうかされましたか?」
疑念が顔に出ていたのか、船長が声をかけてきた。
ちなみに船長は、レンたちが乗船してからずっとこちらを気にしている様子で、チラチラと見てきていた。これは他の船員たちも同じだ。みんなガー太が気になっているのだろう。
今は船長たちにも余裕がないし、レンの方からも話しかけなかったので会話がなかったが、そうでなければ質問攻めだったかもしれない。
「いえ、こういう船に乗るのは初めてなんですが、もうちょっと速いのかと思っていたので」
「ああ。今は潮の流れが逆ですからね。あまり速度が出ないのです。このあたりの海は潮の流れが強くて、しかも季節や一日の内でも流れが変わったりするんです。今は北から南、逆向きの流れなので速度が上がりません。これでも朝方よりは弱くなっているんですが、申し訳ありません」
「いえ、そういうことなら仕方ないですね」
帆船やガレー船は、自然環境の影響をもろに受ける。これはどうしようもなかった。
「もしかしてガー太も流されたりした?」
ふと思って聞いてみると、
「ガー」
そうだぞ、大変だったんだぞ、といった感じの返事がきた。
南向きの潮のせいで、沖の方まで流されたりしたんだろうか。ガー太には悪いが、潮に流されて必死に泳ぐ姿を想像してしまい、ちょっと笑ってしまった。
「ガー!」
なに笑とんねん、といった感じで抗議されたので、レンは慌ててごめんごめんと謝った。
このやり取りを、船長や他の船員たちは、ガーガーと話している? いやまさか……といった顔で見ていた。
前の話で誤字脱字があって、報告をいただいたのですが(いつもありがとうございます。助かります)一ヶ所、バルドの名前がバルスになってました。
自分のミスなんですけど、ちょっと笑ってしまいました。