第16話 ダークエルフ5
黒の大森林の中は、思っていたより暗く、そして涼しかった。
木々が生い茂っているため日の光が届かず、昼だというのに薄暗い。
レンは日本にいた頃、何度か森の中の道を歩いたことがあったが、ここまで暗い森の中を歩いたことはなかった。とはいっても、レンが歩いたのは観光地の遊歩道などだ。人が歩きやすいようにきっちり手入れがなされていたわけで、ここまで深い自然の森ではなかった。
また、暗いことに加えてあちらこちらに茂みなどもあり、視界はとても悪い。
いきなり魔獣が飛び出してきそうで怖いが、そこは同行のダークエルフ、そしてガー太を信じるしかない。ガー太なら、素早く魔獣の気配を察知してくれるはずだ。
森の入り口から集落までは、徒歩で二時間ほどだとリゼットから教えてもらっている。
これはダークエルフの健脚で二時間だから、普通の人間ならもう一時間ぐらいはみないとダメだろう。
レンもガー太に乗っているから余裕だが、もし徒歩なら今のリゼットのペースについて行くのは無理だっただろう。
森の中を歩くこと一時間ほど。
初めのうちは物珍しく周囲を眺めていたレンも、代わり映えしない景色に退屈し始めていた頃だった。
最初にそれに気付いたのは、やはりガー太だった。
「ガー」
ガー太が足を止め、警告の鳴き声を上げた。
「リゼットさん! 何かいるみたいです」
レンは慌てて気を引き締めつつ、リゼットに注意するよう呼びかけた。
リゼットたちの反応は素早かった。
先頭のリゼットは即座に剣を抜いて構え、レンの後ろにいたルビアとレジーナは弓に矢をつがえて構える。三人はレンを中心にして、周囲を警戒する態勢をとった。
呼びかけたレンが驚くほどの素早い対応だった。
彼女たちの行動原理は単純明快だ。少しでも危険があるというなら即座に対応する。
もし警告が間違いでもそれでよし、逆に本当の危険を見過ごしたら命の危険に直結する。黒の大森林は、常に危険と隣り合わせの場所なのだ。
歩みを止めたため、周囲は静かになった。遠くから鳥か獣かわからない鳴き声が聞こえてくるぐらいで、レンには近くの物音とか気配とか、そういったものは感じ取れなかった。
だがガー太には、それがはっきりとわかっているようで、体をゆっくりと右の方へ向けた。
「右の方に何かいるみたいです」
レンもガー太の視線の先を見てみたが、やはり何もわからない。
だがリゼットも何かに気付いたようだ。
「……そうですね。何かいます」
ダークエルフの感覚が鋭敏なのか、この黒の大森林で生きてきたリゼットの感覚が鍛えられているのか、とにかく彼女もガー太と同じ方向を鋭くにらみつける。
しばしの間、静かな膠着状態が訪れたが、先にじれて動いたのは向こうの方だった。
うなり声が聞こえたかと思うと、何かが木々の影から飛び出してきた。
ハウンドだ。
すでにレンも二回戦っている野犬のような魔獣。それが一体。体の大きさも普通の野犬サイズだ。
これなら何とかなりそうだ、とレンは少し安堵した。
もちろん油断はできない。レンが一人で戦えば、負けて殺されてしまう可能性が高い魔獣なのだから。だがガー太に乗っている状態なら話は別だ。なにしろ前の戦いでは群れを相手にして勝ったのだ。一体だけなら、それほど恐れることはない。
しかもこの場には他に仲間もいるのだ。
襲い来るハウンドに対し、最初に動いたのはルビアだった。
弓を引き絞り、冷静に狙いを定めてから矢を放つ。
標的は素早い動きのハウンド、しかも遮蔽物の多い森の中だったが、彼女の放った矢は見事にハウンドに命中、胴体のあたり突き刺さる。
ハウンドは少しよろけたものの、その動きは止まらない。やはり矢が一本命中した程度では、魔獣を仕留めることはできないのだ。
迫るハウンドに対し、今度は剣を持ったリゼットが前に出た。
ハウンドはうなり声を上げて彼女に飛びかかったが、リゼットはわずかに横に動いてそれを回避した――レンの目にはそう見えた。
だが彼女は単に避けただけではなかった。ハウンドから黒い血しぶきが上がったのだ。
よく見るとハウンドの左の胴体あたりがざっくりと斬られている。
リゼットがすれ違いざまに斬りつけていたのだ。斬撃が速すぎて、レンの目には捉えきれなかったのだ。
そして今度はリゼットの方から攻撃に移る。超回復のある魔獣に対しては、常に攻撃に出て相手を殺し切らなければならない。
ハウンドの方も負けじとリゼットに襲いかかるが、レンには、その動きがにぶいように思えた。なんだか痛みに苦しんでいるようにも見える。魔獣に痛覚があってもおかしくはないが、あの程度の傷で苦しむとは思えないのだが。
「どうかされましたか?」
レンの顔に浮かぶ疑問に気付いたのだろう。少し警戒を緩め、レジーナがレンの側に寄ってきた。
「いえ、なんだか魔獣が苦しんでいるような気がして」
ちょっと緊張しつつレンは答える。
「ルビアが射た矢のおかげですね。今、私たちが持ってる矢は特別製なんです」
特別製ってどういうことですか、とレンはさらに聞こうとしたのだが、その前にガー太が鋭く鳴いた。
レンは素早く顔を上げ、数メートルほど後ろの高い木の枝を見上げた。
どうしてそこを見たのか、自分でもわからない。ガー太の鳴き声に反応して、反射的にそこに目がいったのだ。そしてその木の枝には、何か大きなものが乗っかっていた。それは木の枝から飛び、レンの方へ向かって滑るように落ちてくる。
だが狙いはレンではなく――
「危ない!」
ガー太が走り出し、レンは両手で攫うようにレジーナを抱きかかえた。
「えっ?」
レジーナの方は、背後から音もなく飛んできたそれに全く気が付いていなかった。そのままだと無防備な後頭部か背中を襲われていたはずだ。
レンはレジーナを抱きかかえて回避しようとしたが、その一撃を避けきることはできず、レジーナは右肩のあたりを切り裂かれた。
「ぐッ!」
レジーナは押し殺したような悲鳴を上げ、左手で右肩を押さえるが、そこから血が腕を流れ落ちて行く。
「レジーナ!? このッ!」
ルビアが落ちてきたそれに向かって矢を射るが、それは地面から飛び上がって矢を回避すると、そのまま羽ばたいて数メートル上の木の枝にとまる。
「なんだあれ……?」
それはレンが初めて見る生き物だった。
その姿は、強いていうなら巨大なコウモリだった。胴体は細いが、そこからコウモリのような大きな羽が出ている。羽を広げた幅は一メートル以上ありそうだ。
顔は平べったく、目や耳がどこにあるのかもよくわからないが、口は大きく、そこに並ぶ鋭い牙まで見えた。
そして異質なのがその足だった。
コウモリの足は細くて小さいが、この生き物の足は太くて長かった。まるでコウモリの足だけ、ゴリラの太い腕と取り替えたかのようだ。足の先は大きくて鋭い三本爪になっている。レジーナの右肩を傷つけたのはこの爪だろう。
「バルチーです」
ルビアが言う。
「木から木へと飛び移り、音もなく急降下して獲物を襲うやっかいな魔獣です。あの長い足に特に注意して下さい。力が強く、人間の手足ぐらい簡単に引きちぎってしまいます」
説明しながらルビアが弓を構えると、バルチーは狙われていることがわかったのか、別の木へと飛び移る。さらにそこから別の木へと次々と飛び移っていく。その動きは素早く、レンの目では追いきれない。ルビアですら、弓の狙いを付けられないようだ。
レジーナは負傷して戦えそうにない。
リゼットはまだハウンドと戦っている。あちらは優勢だが、決着にはまだしばらくかかりそうだ。
だったら僕も戦うしかないとレンは思った。
「レジーナさん。弓を貸してもらえますか?」
負傷したレジーナから弓を借り受け、それに矢をつがえ弓を引いたレンだったが、予想外の手応えに驚く。
強い!?
レジーナが持つ弓は弦の張りがとても強かった。屋敷で練習したときは、練習ということであまり強く張らなかったが、それとは比べものにならないほど強い。人間の普通の男なら、渾身の力を込めて引かなければならないだろう。
これと同じような弓を、ルビアは軽々と引いていた。彼女の腕は細くてしなやかだというのに、いったいどれほどの力があるのか。
そしてもう一つ驚いたのは、自分もまたこの弓を軽々と引けたことだ。
日本にいた頃のレンなら、この弓を引くのは無理だったはずだ。今の鍛えられた体なら、この弓も引くことはできたと思う。だが、本当ならもっと力を込めなければならなかったはずだ。それなのに軽々と引くことができた。
今の僕は筋力が増強しているのか? ガー太に乗っているから?
理屈はわからないが、なぜか落ちることなくガー太に乗れるように、なぜか身体能力が強化されているのだ。そうとしか考えられない。
とにかく考えるのは後だとレンは思った。今はあのバルチーとかいう魔獣を倒すことに集中しなければ。
正直なところ、自分の身を守るだけなら難しくないと思った。
またもガー太任せになってしまうが、自分に攻撃してくるのなら、回避も迎撃も可能だろう。ガー太ならやれるはずだ。
だが、それではバルチーがレジーナを狙ったときに対処できない。彼女を守るためには、襲い来るバルチーを撃ち落とすしかない。
「ふー」
レンは一度大きく深呼吸する。
集中しろ。そして思い出せ。
バルチーに気付いたガー太が鳴き声を上げたとき、レンは即座に相手の位置をつかんでいた。おそらくはガー太の感覚を共有したのだ。今のレンとガー太は人鳥一体、お互いの心が通じ合っているのなら、お互いの感覚も共有できるはずだ、とレンは思った。
自分の目で追うのではなく、ガー太の感覚で追うんだ――レンは頭の中で自分に言い聞かせ、意識を集中する。
すると、不意に視覚が広がったような気がした。
目で見ている前方だけでなく、目には見えない自分の後ろや、自分の頭の上まで見えるような気がする。
直感でわかった。これがガー太の感覚なのだ。
バルチーの位置もわかる。
今は右の木の上にいて、そこから右斜め後ろの木に飛び移り、そして――
枝を蹴ったバルチーが急降下してくる。狙いは傷ついたレジーナだ。
レンは上半身だけでくるりと後ろを振り向き、バルチーを狙って矢を放った。
レンは弓に関して素人だ。しかもガー太の上で振り向くという無理な体勢で射た矢だ。普通に考えれば命中するはずがない。
だがレンが放った矢は狙い違わずまっすぐに飛び、まるで吸い込まれるようにバルチーの左目に突き刺さった。
「ギャウッ!?」
バルチーが悲鳴を上げ、空中で体勢を崩したところに、さらに二本目の矢が突き刺さる。
ルビアの放った矢だった。
二本の矢を受けたバルチーは、そのまま地面に墜落する。
「お見事です領主様」
ルビアの声には、掛け値なしの感嘆が混じっていた。
「我々の弓を軽々と引いた上、一撃でバルチーを射貫くとは」
「いえ、それは……」
たまたまです、と言いかけたのをやめる。
レンは確信していたのだ。矢を放った瞬間、それがバルチーに当たることを。
矢を命中させることができた理由は二つ。
一つは空間把握能力。
バルチーがどこから、どの方向に、どれだけのスピードで襲ってくるかを、レンは完全に把握していた。それはガー太の感覚によるものだが、標的の正確な位置を認識できているなら、後はそこを狙えばいい道理だ。
そしてもう一つの理由。レンが正確に相手を狙うことができたのは、自分の体を正確にコントロールしていたからだ。
弓にしろ、他の武器にしろ、正確な攻撃を繰り出すのに必要なのは体の安定だ。強靱な足腰によって下半身が安定すれば、その上に乗る上半身も安定する。体全体が安定すれば中心軸がぶれなくなり、自分の体を正確にコントロールすることができる。そして、そこから繰り出される攻撃もまた正確なものになる。
本来なら、それは長い年月をかけた鍛錬によって得るものだ。だが、レンはガー太に乗ることで、ほぼ完璧なバランスを手に入れた。ガー太に乗っているとき、レンの足腰はガー太と一体化して揺るがない。そんな安定した下半身を得たことで、どんな体勢になってもバランスを崩すことなく、正確かつ精密に体を動かすことができる。
だからこそバルチーを正確に狙うことができたのであり、放たれた矢がバルチーを射貫くことができたのだ。
もっとも、今のレンはそこまで自分の動きを理解してはいなかった。ただ、なんとなく自分の狙い通りに矢が飛んだという実感があったから、たまたまとは言いたくなかったのだ。
「領主様?」
考え込んでしまったレンを見て、ルビアが怪訝そうに声をかける。
「あ、いえ、今のは上手く射ることができたと思います」
とりあえずレンはそう答えておいた。
「領主様、大丈夫ですか!?」
ハウンドを倒したリゼットも駆け寄ってきた。
「僕は大丈夫です。でもレジーナさんが……」
レジーナの傷はすぐに命に関わるような重傷ではなかったが、放置できるほど軽い傷でもない。だが、ここでは布を破って包帯代わりに巻き付けておく応急処置ぐらいしかできなかった。
「集落までこれで我慢してくれ」
「わかりました」
顔色は悪かったが、それでも気丈な声でレジーナは答えた。
後はレンたちを襲ってきたバルチーだったが、二本の矢を受けて飛べなくなり、地面でもがき苦しんでいたところを、リゼットが首をはねてとどめを刺した。
「そういえば、この矢は特別製だと言ってましたよね?」
バルチーも超回復能力を持つ魔獣だ。二本の矢が刺さった程度で、飛べなくなるほど苦しむとは思えなかった。だったら矢に秘密があると考えるのが妥当だ。レジーナもさっき、そんなことを言いかけていた。
「はい。この矢尻は鉄ですが、作るときに魔獣の骨を砕いたものを混ぜ込んでいるんです」
ルビアが答えてくれた。
「魔獣の骨ですか?」
「はい。そうしておくと、矢が刺さったときに魔獣の超回復を阻害し、さらに強い苦痛を与えることができるようです。ただし、同じ種類の魔獣の骨では効果がないので、複数の魔獣の骨を混ぜるようにしています」
どういうことだろうとレンは思った。
少し考えて思い浮かんだのは拒絶反応だった。
例えば人間の場合、違う血液型の血を輸血すると拒絶反応が起こり、最悪の場合死に至る。魔獣もそれと同じように、他の魔獣の骨を体内に入れると拒絶反応が起こるのではないだろうか。
これがあっているかはわからない。だが理屈は問題ではない。実際にそれが魔獣に対して効果的なら、かなり有益な情報だろう。
そんな矢を量産することができれば、魔獣に対しての切り札になるかもしれないとレンは思った。