第175話 海上(下)
運良くサーペントとの遭遇を免れたガラデイン号だったが、逆に運悪くサーペントと遭遇してしまった者たちもいる。
これは後に事態の推移を調査してわかったことだが、サーペントとガラデイン号が遭遇したのは、後継者の島の南の海上だった。
この後、サーペントは泳いで北上し、島に現れた。運の悪い傭兵たちがそれに遭遇して全滅し、レンたちはその一部始終を目撃した。
それからサーペントは再び海に戻り、島の西側を北上したようだ。
全てを見ていた者はいなかったが、位置関係などから考えて、それで間違いないだろう。
そして島の西側の海上には一隻の船がいた。
ロレンツ公国の軍船バリオン号だった。
全長は二十メートルほど。船上には帆もあったが、船の左右からは多くの櫂が突き出ている。いわゆるガレー船のような船だった。
今回の大会で、ロレンツ公爵は島の周囲に二隻の軍船を派遣していた。
目的は島内での戦闘などを観察、記録すること。
島に上陸した部隊が、どんな風に戦ったのか。できる限りそれを見て、後で報告する。当然、見るだけで戦闘には参加しない。
後は島の周辺海域の警戒だ。後継者の島に余計な船が近付いたりしないか監視する。
この二つが与えられた任務だった。
バリオン号は島の西側を、ゆっくりと航行していた。
「慎重に進めよ」
と船長が命じる。
バリオン号はだいぶ島に近付いていたが、そうなると浅瀬や岩礁に船が乗り上げ、座礁する危険があった。
なにしろ後継者の島は聖地として、普段は民間船どころか軍船が近寄るのも禁止されており、ろくな海図もないのだ。注意して進まねばならない。
兵士たちが何人か、舳先から身を乗り出すようにして前方の海面を注視している。進路上に岩礁などがないか見ているのだ。
船長は島の方を眺めるが、ここからは動くものは見えなかった。まだ戦いは起こっていないのか、それとも別の場所で戦っているのか。
もう少し南へ進めば、シーベルの剣が収められている祠が見えてくるはずだ。そこまで行けば、何らかの動きが見えるかもしれないと思った。
それは突然に来た。
「何かが水の下にいます!」
見張りの絶叫と、衝撃はほとんど同時だった。
下から突き上げるような衝撃が襲ってきて、船員たちが弾き飛ばされたように転倒する。何人か、悲鳴を上げて海に落ちた者もいた。
船長も転倒し、体のあちこちをぶつけた。
座礁したか!? と船長は思った。
見張りの叫びが耳に入っていなかったのだ。
痛みをこらえつつ体を起こした船長は、船を襲った衝撃が、座礁によるものではないことを知る。
海面が盛り上がり、巨大な顔が浮上してきたのだ。
顔はどんどん上にあがり、船上に倒れている船長たちを見下ろす。鎌首をもたげたヘビが、獲物を見下ろすかのように。
「サーペント……」
海の男として、船長もサーペントのことは知っていた。だがこうして実物を見るのは初めてだった。
そしてバリオン号が、どんな状態なのかもわかった。
巨大なサーペントの胴体の上に乗り上げているのだ。
どうにかしなければと船長は思ったが、
「あ……あ……」
口から出てくるのは、そんな意味不明のつぶやきばかり。
恐怖で思考はマヒし、動くことができなくなってしまったのだ。
頭を持ち上げたサーペントは、船に向かってそれを振り下ろしてきた。
船長が最後に見たのは、自分に迫るサーペントの巨大な顔だった。
轟音を立てて、サーペントの頭がバリオン号に衝突、前から三分の一ぐらいのところで、船体は真っ二つにへし折られた。
巨大な水しぶきが上がり、船の破片や、悲鳴を上げた船員たちが海に投げ出される。
この時点で多くの船員が死亡したが、彼らはまだ幸せだったかもしれない。
海に投げ出されて生きていた船員たちは、必死に島を目指して泳ぎ始めたが、サーペントは彼らを逃がさなかった。
一人、また一人と彼らはサーペントの巨大な口に飲み込まれていき、ついに動く者は誰もいなくなった。
沈没したバリオン号の生存者は0人だった。
ラグナ号は後継者の島の北側に近付きつつあった。
こちらもロレンツ公国の軍船で、バリオン号と同じく、多数の櫂を備えたガレー船のような船だった。
受けている任務もバリオン号と同じで、島内の戦闘の観察と、島の周辺海域の警備だ。
「海岸近くで戦闘が起こっているようです」
見張りの報告に船長はうなずく。
さて、何と何が戦っているのか、と船長は考える。
まだ遠いので、戦いが起こっているのはわかっても、詳細な内容までは見えない。
島にいる魔獣と、人間の部隊が戦っているのか、それとも人間同士が戦っているのか。
まずは島内にいる魔獣との戦闘になるはずだが、その後は剣を巡って人間同士の戦いになるだろう。
まったく、公爵様の思い付きにも困ったものだ、と船長は思った。
後継者を決める大会など聞いたこともない。
だが船長を含め、ロレンツ公国の領民の多くは、こういうロレンツ公爵の行動に慣れてしまっていた。良くも悪くも。
だから今回も、
「また公爵様がおかしなことを言い出した」
と言いつつも、絶対反対という声はなく――無駄とわかっているので――大会は実行され、ラグナ号はここにいる。
……それに実のところ、船長も大会を楽しみにしていた人間の一人だ。
公爵家の跡継ぎが誰になるかなど、船長にとっては雲の上の出来事で他人事だ。当事者ではないので、野次馬として大会を興味深く見ている。
ラグナ号が島に近付くにつれ、戦いの様子がよく見えるようになってきたが、
「おいおい、こりゃいったい……」
船長の口から、困惑したつぶやきが漏れる。
島の海岸近くでは、人間の集団と魔獣――ファイグスの群れが戦っていたのだが、その戦いの様子は、船長が事前に想像していたものとは違っていた。
ファイグスの数が多いのだ。
事前に聞いていた話では、島にいるファイグスはせいぜい数十体だったはずが、どう見ても百体以上はいそうだ。
「超個体らしき、巨大な魔獣がいます!」
見張りの報告で、船長もそれに気付く。
他のファイグスとは明らかに違う、巨大なファイグスが一体いた。
島に上陸した部隊は苦戦しているようだった。
彼らが戦っているファイグスは、事前の準備さえしておけば、それほど恐ろしい魔獣ではない。だが、今回は数が多すぎた。
連続して吐かれる火の玉に、部隊はその場に釘付けにされ動けないようだ。
そこへ超個体が火を吐いた。
船員たちから、おおっというどよめきが上がる。
普通のファイグスが吐くのは火の玉だ。しかし超個体が吐いた火は、玉ではなく帯状の巨大な炎だった。
それは傭兵たちの盾で防ぐことができないようで、何人かが炎に巻かれ、転がり回るのが見えた。
上陸部隊は明らかに苦戦していた。防戦一方で、船長の目から見ても、長くは持たないだろうと思われた。
どこか一ヶ所でも、攻撃に耐えきれず崩れれば、そこから一気に全体が崩壊するだろう。
それがわかっていても、船長に打つ手はなかった。
海上から援護すべきか? とも思ったが、それはすぐに打ち消す。
陸上で戦うならともかく、海上の船にとってファイグスは恐るべき魔獣だった。火の玉が当たって船が炎上すれば一巻の終わりだ。
海岸から一定距離を保たねばならず、それだけ離れると弓での援護も不可能だった。
しかも島で戦っているのは、大会のために雇われた傭兵たちだ。これが同じ公国軍の兵士たちなら簡単には見捨てられなかったが、傭兵を救うために危険は冒せなかった。
ラグナ号は島から一定の距離を保ち、それ以上近付こうとはしなかった。
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。