第174話 海上(上)
ハーベンの街の沖合十数キロの海上を、一隻の帆船が航行していた。
船名はガラデイン号。中型に分類される貨物船で、南海沿岸の街を行き来している。
今は荷物を積み込み、ハーベンの街へ向かっているところだったが、今朝、ちょっとしたトラブルに遭遇していた。
それは今日の早朝、まだ日も登らぬ頃だった。
「右舷前方に海魔発見!」
見張りが叫び声を上げて鐘を鳴らす。急報を告げるため、見張り場所には鐘が設置されている。
操舵手は即座に反応した。
「取舵いっぱい!」
思いっ切り舵輪を回し、船が左へ旋回する。
海を航行する船は、常に海魔の危険と隣り合わせだ。だから昼も夜も見張りを置き、もし海魔を見つけたらすぐに対応する。一分一秒の遅れが、生死に直結するからだ。
だが見張りから、すぐに訂正の報告が上がった。
「いや、違います! あれは海魔じゃありません!」
流木や岩礁などを、海魔と見間違うのはよくあることだ。
そして船乗りたちの間では、こんなことが言われている。
「百回見間違っても、一回見つけろ」
間違いかもしれないと思ってためらってしまうと、それが本物の海魔だった場合に、致命的な遅れを招いてしまうかもしれない。
だから間違ってもいい、とにかく何か見つけたら報告しろ、と見張りに徹底させるのだ。
……もっとも、もし本当に百回連続で間違うような見張りがいれば、いい加減にしろ、と他の船員たちにボコボコにされるだろうが。
今回、海魔発見を叫んだのは、ライアンというまだ十代の若い船員だった。
たまに見間違いをするが、それぐらいなら許容範囲ということで、今回も特に問題なく終わるはずだった――続いての報告がなければ。
「海魔じゃなくて、ガーガーが泳いでます!」
「ガーガーだと!?」
「どこだ!?」
海魔発見の叫びを聞いて、飛び起きてきた他の船員たちだったが、今度はガーガーと聞いて、どこだどこだと船の右舷に駆け寄る。
「あっちです」
とライアンは指さしたが、
「どこにもいないぞ?」
日も登っていない暗い海、さらに船は進路変更して、そちらから離れる方向へ進んでいたため、すでに何も見えなくなっていた。
ライアンは本当に見たんですと言い張ったが、他の船員たちは相手にしなかった。
ガーガーは意外と泳ぎが達者な鳥だった。丸々と太っているが、水に浮くので泳げる。川では、たまに泳いでいるガーガーが目撃されたりもしている。
だが、だからといって海でも泳ぐかといわれれば別問題だった。
何しろ海で泳いでいたという目撃例が全然ないのだ。
川とか池ならたくさんの目撃例があるのに、海だと全然ない。だから多くの人たちは、ガーガーは海では泳がないのだと思っていた。
海魔が怖いのか、それともしょっぱい海水が嫌なのか、理由はわからないが、とにかくガーガーは海では泳がないらしい、と。
だからライアンが、ガーガーが泳いでいると叫んだとき、多くの船員がそれを見ようと駆け寄ったわけだが、見つからなかった以上、ライアンが見間違えたのだろう、と思うのは当然だった。
「本当に見たんです」
とライアンは言い張ったが、他の船員たちは笑って相手にしなかった。
この「誤認」で進路を一時的に変更したため、ハーベンの街への到着は少し遅れることになったが、その程度なら問題にならない。
海魔がいなくてよかったじゃないか、なんて船員たちは言いながら、ガラデイン号は元の航路へ戻り、ハーベンの街を目指した。
それから数時間後。
日も昇り、周囲も明るくなった。
船は順調に航海しており、この分なら昼前にはハーベンの街に着けそうだ、なんて船長が思っていると、またも見張りの叫び声が聞こえた。
「右舷前方に海魔発見!」
「取り舵いっぱい!」
反射的に叫びつつ、また誤認じゃないだろうな? と思ってしまった船長だったが、
「でかい、サーペントです!」
「なにぃ!?」
見張りの報告に、船長は仰天する。
慌てて右前方を見れば、確かに海面を巨大な何かが泳いでいる。
船長には形まではわからなかったが、目のいい見張りがサーペントと言うからには、少なくともそれに似た形をしているのだろう。
「戦闘――いや、動かず静かにしてろ!」
とっさに戦闘準備を命じかけた船長だったが、慌てて言い直す。
海魔も色々いて、小さい海魔なら船員たちでどうにかなる場合も多い。舷側をよじ登れないような海魔なら、そのまま無視すればいい。
だがあの海魔はデカイ。
海面に出ているのは体の一部だろうが、それだけでも数メートルはありそうだ。デカイ海魔は力も強いから、船ごとつぶされる危険もあった。
発見した海魔は、こちらから見て右前方へ向かって泳いでいる。今はガラデイン号がそれを追いかける形だ。向こうがこちらに向かって来ているならどうしようもないが、この位置関係なら、やり過ごせる可能性があった。
だから船長は戦闘準備ではなく動くなと命じた。
船員たちもピタリと動きを止め、海魔の方を凝視している。
頼むからこっちに気付くなよ、と船長は神に祈る。
それから長い時間が流れ――実際はそんなに長くなかったはずだが、船長にはとてつもなく長く感じられた――船の舵が利き始めた。
ガラデイン号は進路を左に変え、海魔との距離が徐々に開いていく。
海魔がこちらに向かってくる様子はない。
「ふー」
と船長は大きく息を吐いた。
どうにかやり過ごせたと思った。もちろん見張りには、
「油断せず見張りを続けろ」
と命じておくが。
船員たちも小さく喜びの声を上げたりしている。
「助かりましたね」
副長に声をかけられた船長は、ああ、とうなずいて応える。
「あいつを見つけたのはギレットだな?」
海魔発見を叫んだ見張りの名前だ。
「港に着いたら酒でもおごってやるか」
と言った船長は、思い出したように付け加える。
「ついでにライアンにもおごってやるか」
「あいつもですか?」
「考えてもみろ。今朝の誤認騒ぎのおかげで、この船は遅れて進んでるんだ。そうじゃなければ――」
副長にも船長の言いたいことがわかった。
遅れていなければ、この船はもっと前を進んでいた。だったら前を進んでいたあの海魔と、バッチリ鉢合わせていたかもしれない。
「不幸中の幸いってやつですね」
「こいつは不幸じゃねえぞ。とんでもない幸運だ。そう考えたら、もしかしたらあれも本当だったのかもしれないな」
「あれっていうと?」
「ライアンは泳ぐガーガーを見たって言っただろ? そいつは本物だったかもしれないぞ。俺たちにサーペントのことを警告するために現れた、神の使いだったかもしれない」
ニヤリと笑いながら船長が言うと、副長もなるほどとうなずく。
海では不思議なことが色々と起こる。自分たちを助けるため海を泳ぐガーガーが現れた、なんて奇跡だって起こるかもしれない。
「だがあの海魔が向かった方が気になるな……」
海魔は北へ向かって泳いでいた。この位置から北へ向かうと、その先にあるのはハーベンの街だ。
「残念だがハーベンへ向かうのはちょっと待った方がよさそうだな」
あのまま進めばハーベンの街が襲われる。向きを変えて戻ってくればこっちが襲われる。
どっちにしろ、このままハーベンへ向かうのはやめた方がよさそうだ。
一時的に、どこか他の港へ避難するかと船長は思った。
海を泳ぐガーガー
主に船乗りたちの間で語り継がれている伝説。
海を泳ぐガーガーを見た者には幸運が訪れる、あるいは海を泳ぐガーガーと出会えた船には幸運が訪れる、などと言われている。
ガーガーは海で泳ぐのか? については諸説ある。
ガーガー学の権威であるズバ・バーン教授の調査によれば、ガーガーが海で泳いでいたというはっきりした事例は確認されていない。教授も何度も実地調査を行い、砂浜でくつろぐガーガーや、波打ち際で遊ぶガーガーを目撃することはできたが、ついに海で泳ぐガーガーは見つけられなかった。
一方、ガーガーは泳ぎが得意であり、海で泳げる、泳げないの二択なら、泳ぐことは可能だ。
ズバ教授も、見つかっていないだけで、泳がないと断言はできないと述べている。
また自分から海で泳ぐことはなくても、転落したとか、波にさらわれたとかで、やむを得ず泳ぐ場合もあり得るだろう。
この伝説の起源が何なのかははっきりわかっていないが、実際にどこかの船乗りが海を泳ぐガーガーを見て――あるいは見たと思い込んで――その後で何か幸運なことがあったのではないだろうか。そしてそういう話が吹聴され、伝説になっていったのではないか、と推測されている。
いずれにしろ海を泳ぐガーガーというのは極めて珍しく、それを見ることができただけで幸運といえるだろう。
長くなりすぎたんで分割します。
年末で曜日感覚がなくなってて、気が付けば週末を過ぎて火曜日になってた感じです。