第173話 サーペント(下)
すでに海魔の気配は感じない。沖の方へ泳ぎ去ったと思うが油断は禁物だ。いつでも逃げ出せるように、海の方を注意しておく。
「ひどいな……」
隠れていた林を出て、海岸近くまで下りてきたレンは、周囲の惨状を見てつぶやいた。
海魔の巨体に押しつぶされた死体は、どれもひどい有様だった。
この世界に来てから、何度も死体を目にして、否応なくグロ耐性がついてしまったレンだったが、それでも気分が悪くなってくる。
それでも海岸に倒れていた十数体の死体を確認したが、シーベルの剣を持った者はいなかった。
一応、周辺も探してみるが、やはりそれらしい剣は見つからない。
「海へ流されちゃったのかな?」
レンの言葉にジョルスが同意する。
「そう考えるしかないと思います」
となると見つけるのは非常に困難だろう。
もしこのままシーベルの剣が行方不明になれば、大会はどうなるんだろう? とレンは疑問に思った。こんな状況は想定してなかったはずだ。
「領主様! こっちに生きている者が!」
シャドウズの一人が、生存者を見つけたようだ。
レンも急いでそちらに駆け寄る。
海岸から少し内陸に入ったところにある草むらに、一人の男が倒れていた。
全然動かなかったが、死んでいるのではなく気絶しているだけのようだ。
「おい、起きろ!」
シャドウズの一人が、男の頬をバシバシとはたく。
「もうちょっと優しくしてあげた方が……」
ガー太から降りたレンが、そう言いかけたが、
「うう……」
男が目を開けた。
「大丈夫か? 話はできるか?」
シャドウズの一人が訊ねると、男はぼんやりした口調で答える。
「ここは……? なんでダークエルフがいるんだ?」
「お前は海魔に襲われたんだ。覚えてないのか?」
「海魔……?」
とつぶやいた男は、いきなりガバッと飛び起きた。
「そうだサーペント! 早く逃げないと――」
「落ち着け。あの海魔は海へ戻った。もうここにはいない」
「……本当か?」
恐慌状態になりかけた男だったが、周囲が静かなのに気付いて、どうにか落ち着きを取り戻す。
「今、サーペントって言いました?」
レンが男に訊ねる。
サーペントというのは、前の世界でも聞いたことのある名前だった。
英語で蛇を意味する言葉なのだが、レンはそれを知らなかった。聞いたことがあるのは、もっぱらファンタジーゲームなどでだ。
海竜サーペントなどと呼ばれる。海のモンスターや、水属性の召喚獣。それがレンの知るサーペントだった。そしてゲームでは、まさにさっき見た巨大な蛇のような姿で描かれていることが多い。
「ああそうだ。あれはサーペントだ。村に伝わる話通りだった……」
男が震える声で答える。
「その話、詳しく聞かせてもらえませんか?」
「その前に、お前ら何者だ? 俺の部隊はどうなった?」
逆に聞かれたので、レンはまず、それに答えることにした。
自分たちはサーリアに雇われた傭兵で、先程の海魔との戦い――というにはあまりに一方的だったが――の一部始終を見ていたことを伝える。
そして海魔が去った後、周辺を探してみたが、他の生存者は見つけられなかったことも。
「じゃあ俺の部隊は全滅か」
「多分ですけど……」
彼らがやられるのを、レンたちは助けもせず見ていたわけで、恨み言の一つでも言われるかと思ったのだが、男にそんなつもりはなさそうだった。男もあれと戦うのは無謀だとわかっているのだろう。隠れてやり過ごすしかない。
また、仲間が死んだと聞いても、男に悲しむ様子はなかった。仲間といっても全員が金で雇われた傭兵同士だろうから、悲しむほどの付き合いはなかったのかもしれない。
「俺はニーデルっていうんだが――」
男はそう名乗り、巨大海魔――サーペントについて教えてくれた。といっても、ニーデルも詳しく知っているわけではなかったのだが。
彼は貧しい漁村の出身で、かつてその村がサーペントに襲われ、壊滅的な被害を受けたらしい。
「巨大なウミヘビみたいな海魔……聞いてた話そのままだった……」
サーペントという名前と姿が、偶然とは思えない。
もしかしてあの海魔も世界を越え、大昔の地球の海で暴れ回ったこともあるのだろうか? それで名前が残って伝説になったとか。調べる方法もないので、推測でしかなかったが。
「とりあえず一度、洞窟の所まで戻りましょう。サーペントのことも伝えないと」
おそらく大会は中止になるだろう。それどころか、あのサーペントが街を襲うかもしれない。厳重に警戒し、場合によっては街からの一時避難も検討した方がいいと思った。まあ、そのあたりのことはロレンツ公爵も考えているとは思うが。
海に面した街で、海魔に無防備ということはないだろう。
レンたちは海岸沿いを南回りでここまで来たが、帰りは距離の短い北回りで行くことにした。
北からは他の部隊も来ているはずで、途中ですれ違ったら事情を説明しようと思った。
この時、レンたちの頭からは重要なことが抜け落ちていた。
元々、島にはファイグスと呼ばれる魔獣がいるという話を聞いていたのに、それについて深く考えなかったのだ。
サーペントの衝撃が大きすぎて、すっかり忘れてしまっていた。
「帰るのか? だったら俺も一緒に行っていいか?」
ニーデルが不安そうな顔で聞いてきた。
「いいですよ。一緒に来て、あなたも何があったか証言して下さい」
ここに置いていくのもかわいそうだし、レンたちの他に証人がいた方がいいだろうと思った。
一緒に連れて行くと歩くスピードが落ちてしまうが、そこはできるだけ急いでもらうしかない。
出発ということで、レンはガー太にまたがったが、やはりというべきか、それを見たニーデルが目を丸くする。
「あんた、そりゃガーガーか?」
「ええ。ちょっと変わり者のガーガーです」
「変わり者って……」
ニーデルはまだ何か言いたそうだったが、あきらめたように首を振って、
「やっぱり海に来るんじゃなかった……」
とつぶやいた。
ニーデルは驚愕していた。というか、驚愕の連続だった。
最初は、いきなり現れたサーペントに驚愕した。
部隊はあっという間に全滅、生き残ったのは自分一人。多分、真っ先に逃げ出したから助かったのだろう。もう少し逃げるのが遅かったら、他の仲間と同じように死んでいたはずだ。
仲間といっても金で集められた傭兵なので、別に悲しくはない。生き残れた幸運を喜ぶだけだ。
そして別の部隊に助けられたわけだが、これがまた奇妙な連中だった。
人間一人とダークエルフ四人組というのはわかる。人間がリーダーになって、ダークエルフの傭兵を率いるのはよくあることだ。だが四人の中の一人がガキ、どう見ても十代前半の小娘というのはどういうことだ。この島に小娘を連れてきて、いったいどうしようというのか。
だがそれ以上に驚いたのは、その人間がガーガーに乗っていたことだ。
というか、あれは本当にガーガーなのか? 臆病なはずのガーガーのくせに、ニーデルのことも全然怖がらないし、それどころかやけに鋭い目をしていて、目が合ったら、思わずこちらが目をそらしてしまった。
あの迫力、どう考えてもガーガーとは思えない。
よく似た別の鳥ではないかとニーデルは疑っていた。
彼の驚きはまだ続いた。
ニーデルは彼らと一緒に、島の洞窟の入り口まで戻ることにしたのだが、出発してすぐ、魔獣が襲ってきたのだ。
サーペントではない。ファイグスが十体ほど現れたのだ。
それ自体は驚くことではなかった。
元々、ファイグスを倒して剣を手に入れるつもりだったのだ。ニーデルも慌てて戦う準備をしたのだが、何もする必要はなかった。
男とダークエルフが、あっという間に倒してしまったからだ。
襲いかかってきたファイグスの群れに対し、まず攻撃したのがガーガーに乗った男だった。
ファイグスと戦う場合、まずは相手の火の玉を受け止めてから反撃するのがセオリーだったが、男は弓での打ち合いに出たのだ。
「何してやがる!?」
思わずニーデルは声を荒げた。
敵は火の玉を飛ばしてくる魔獣、弓で戦っても勝てるわけがないと思ったのだが、その予想はくつがえされた。
男は恐るべき技量の持ち主だった。
傭兵生活の中で、ニーデルは弓の名手と呼ばれる者を何人か見たことがあったが、男の技量は彼らに匹敵、あるいは凌駕していた。
なにしろ男はガーガーに乗って弓を射ていたのだ。ニーデルに騎射の経験はなかったが、地面に立って射るのと、馬に乗って射る騎射とでは――今回はガーガーだったが――どう考えても騎射の方が難しいだろう。
だが男は数十メートル離れたファイグスに、次々と矢を命中させていった。しかもかなりの強弓を使っているのか、放たれた矢はかなりの威力があった。普通の弓ではひるみもしないはずの魔獣が、矢を受けて体勢を崩していったのだから。
そこへダークエルフが斬り込んだ。それも小娘のダークエルフが一人で。
最初、ニーデルは恐怖で小娘の頭がおかしくなったんだろうと思った。
だが違った。
小娘はとんでもない速さでファイグスの群れに突っ込んでいくと、二本の剣を抜き、ファイグスに斬りかかった。
左右の手に一本ずつの二刀流だ。
剣は重い。持つだけならともかく、片手で振り回すとなると、並みの男ではすぐに疲れて腕が上がらなくなるだろう。だがその小娘は二刀を軽々振り回して暴れ回った。小柄なのに信じられない腕力だった。
ニーデルは自分の強さにそれなりの自信を持っている。だが、そんな彼でも、
「こいつにはとても勝てないな」
という剛の者を何人か見てきた。
いずれも化け物じみた強さの男たちだったが、そんな彼らと比べても、小娘の強さは頭一つ抜けているように思えた。化け物じみた、ではなく、まさに化け物のような強さだった。
結局、その二人だけであっさりとファイグスの群れを倒してしまった。
「何なんだこいつらは……」
呆然とつぶやいたニーデルだったが、そこで彼は恐ろしい可能性に気付いた。
今の今まで、ニーデルはサーペントに襲われたのはとんでもない不運だと思っていた。だがもしサーペントに襲われていなかったとしたら、この連中と戦うことになっていたはずだ。
あの小娘と戦うことになっていたら……
一対一ではもちろん、十対一でも勝てたかどうか。
もしかしてサーペントに襲われたのは幸運だった……?
愕然としたニーデルはあらためて思った。
やっぱり海に来るんじゃなかったと。
そしてあらためて誓う。
もしこの島から生きて帰れたら、今度こそ絶対に二度と海には近付かない、と。