第172話 サーペント(上)
島の北側では魔獣と傭兵たちの激闘が繰り広げられていたが、レンたちはそれを知らず、島の南側から祠を目指して進んでいた。
一行の進みは順調だった。
最初の待ち伏せを除けば、魔獣に遭遇することもなく、ついに祠の見える場所まで到着した。
海岸近くに、小さな石造りの祠が建てられていた。
レンたちは山側から回り込むルートで祠に近づいていた。そこはちょっとした林になっていたので、木陰に身を潜めつつ、まずは祠の様子をうかがう。
「先客がいるようですね」
ジョルスの言うとおり、祠の周囲には十人ほどの傭兵たちがいて、周囲を警戒しているようだ。まだこちらに気付かれてはいない。
「人数から見て、南回りの部隊だよね?」
どこの部隊かはわからないが、あの人数から見て、北回りの主力とは思えない。南回りで、レンたちに先行していたどこかの部隊だろう。
北の方を見ても、近づいてくる部隊などは見えない。距離は北回りの方が短いのだから、何もなければそっちの方が早いはずだ。それが姿を見せないのは、魔獣との戦いなどで時間がかかっているか、あるいはすでに到着して剣を持ち去った後なのか……
後者ならちょっと面倒だなと思ったが、その心配は無用だったようだ。
祠の中から、剣を持った兵士が出てきたからだ。
「あれがシーベルの剣だよね?」
「だと思いますが……私にはどんな剣か、よく見えません。領主様はわかりますか?」
隠れている場所から祠までは距離があって、シャドウズたちも、兵士が剣を持っているのは見えても、その形状まではわからないようだ。
レンはガー太に乗っていたので――木陰から顔だけ出して様子を見ていた――視力が強化されており、シーベルの剣がどんな剣なのか、ある程度は見えた。
「はっきりとはわからないけど、鞘に飾り付けがされてるね。あれならわかるよ」
鞘には全体に意匠が施され、宝石も付けられていた。あれなら間違うことはないだろう。
どうやら北回りの部隊はみんな遅れてるみたいだし、ここであの剣を奪って逃げれば、そのまま勝てるのでは?
「あれを奪おうと思うけど、いけるよね?」
「わかりました」
とシャドウズたちがうなずけば、
「あいつらを倒せばいいの?」
カエデは俄然、やる気を見せた。
「倒すのが目的じゃないからね。傷付けないように奪えたら、それが一番だから」
甘いかもしれないが、向こうに恨みがあるわけではない。
こちらは五人で相手は十人以上だが、カエデとシャドウズたちの実力に、レンの弓があれば、十分勝てる相手と思われた。
もちろん油断は禁物だが、そんなことはわざわざ言わなくても、みんな分かっているだろう。
「それじゃあ――ちょっと待った」
行こうと言いかけたところで、動きを止める。
南から、別の集団が近づいてきた。後ろにいた別の部隊だろう。こちらも十人ほどで、祠に気付いたのか、足早に走ってきた。
シーベルの剣を持っている部隊の方も、迎え撃つ準備を整える。
ある程度まで近づいたところで、二つの部隊はにらみ合った。
ここからでは聞こえないが、何やら言い争っているようだ。剣を寄越せとか、そんなことを言っているのだろう。
もちろん話し合いで終わるはずもなく、双方が剣を抜く。
「戦いが始まったら、どさくさ紛れで剣を奪おう」
漁夫の利狙いだ。
そのまま両集団の激突必至と思われたが――
それに反応したのは、レン、ガー太、カエデの二人と一羽だった。ほぼ同時に海の方を向く。
異様な気配を感じたのだ。
「どうかされましたか?」
「何かいる……」
不思議そうな顔で聞いてくるジョルスにレンが答えた時だった。
それは海の中から現れた。
最初に海面を割って現れたのは、岩のようにごつごつしたウロコにおおわれた頭だった。
そして赤く、暗く燃える二つの目が現れ、鋭く巨大な牙が並ぶ口が現れる。
それは顔だった。それも巨大な顔だ。成人男性と並べば、ほとんど同じ大きさだろう。
大きな波が起こり、海岸へと打ち寄せる。
祠の近くで激突寸前だった二つの集団は、全員が動きを止め、呆然と海から現れた顔を見つめている。
そんな彼らの中に、ニーデルという名前の傭兵がいた。年は三十ぐらい。くすんだ金髪で、よく日に焼けた顔をしていた。
ニーデルはとある貧しい漁村の出身だった。
彼の家は代々漁師をしていて、彼の父も、祖父も、その父も……とにかく昔から漁師をやっていた。だからニーデルも普通に育てば漁師になるはずだった。しかし五才の時の出来事が彼の人生を変えてしまった。
その日、ニーデルは父親の手伝いで船に乗っていた。まだ小さかったが、貧しい家では子供も働かなければならない。
その日まで、ニーデルは自分も父のように漁師になるのだと思っていた。それが当たり前で別の道など考えたこともなかった。
その父が死んだ。
ニーデルの目の前で、海から飛び出てて来た魔魚に襲われたのだ。
魔魚にかみつかれた父は、悲鳴を上げて海に転落した。
幼かったニーデルは何もできず、近くにいた他の漁師船に助けられるまで、泣いていただけだった。
父親は死体も上がらなかった。
この日以来、ニーデルは海が怖くなった。海に出るどころか、海に近づくのも怖くなってしまった。そんな状態では漁師になれるわけもなく、村を出るしかなかった。
幸い、ニーデルは腕っぷしが強かったし、度胸もあった。海以外は怖くないというか、
「あの海に比べれば、こんなのはどうってことねえ」
という気持ちで生きてきた。
傭兵となったニーデルは、それなりの活躍をして、それなりに名も売れた。
そこへ舞い込んできたのが今回の仕事だ。
最初、島へ渡ると聞いてニーデルは断った。だが、島へは船ではなく洞窟を通っていくという。前払いの手付金は少なかったが、成功報酬はかなりの額だった。
もう十年近く、海は見ていない。
今の自分でも海は怖いのか――そんな興味もあって、彼はこの仕事を受けることにした。
久しぶりに海を見ることになったが、特に怖いとも思わず、拍子抜けしてしまった。それでもさすがに船に乗る気にはならなかったが。
海が平気なことはわかったし、後は仕事をこなすだけ、と思っていた彼の前に海から魔獣――海魔が現れたのだ。
「サ、サーペント……」
ニーデルの口から、そんなつぶやきが漏れる。
それは彼の村に伝わる海魔の名前だった。かつて村を襲い、甚大な被害をもたらした巨大な海魔。
その名は彼の村だけはなく、海沿いの村や船乗りたちの間で広く知られていた。
ウミヘビのように細長い体の海魔のことをそう呼ぶ。ただし細長いというのは姿かたちのことで、サイズのことではない。サーペントと呼ばれる海魔は、全長十メートルを超えるような巨大な海魔で、胴の太さも数メートルあるのだから。
実のところ、サーペントはどれか特定の海魔を指す言葉ではない。ウナギとかウミヘビとか、海には細長い姿の生き物が色々いるように、ヘビのように細長い姿の海魔も色々いたのだ。
大まかに見れば同じような姿でも、体表の色や性質が違ったり、手足があったりなかったり。本来、それらをひとまとめにはできないのだが、この時代はまだまだ魔獣の分類も進んでおらず、とにかく細長くて馬鹿デカい海魔は、全てサーペントと呼ばれていた。
「うわああああああああッ!?」
悲鳴を上げ、ニーデルは山の方へ逃げ出した。
恥も外聞もない。とにかく怖くて逃げることしか考えられなかった。
だがそれは他の者たちも同じだった。
あまりの驚きに動きを止めていたが、ニーデルの悲鳴で呪縛が解かれたかのように、他の傭兵たちも海から離れるように逃げ出した。
それを追うかのように、サーペントが動いた。顔の周囲の海面が盛り上がり、巨大な水柱が間欠泉のように立ち上る。
「なっ!?」
逃げようとしていた傭兵たちの何人かが、その光景を見て足を止める。あまりの驚きに、立ち止まってしまったのだ。
林の中から様子を見ていたレンも驚愕した。
口から水を吐いたとかならわかる。だが今のは海水が勝手に動いたとしか見えない。どういう仕組みかわからなかったが、あの巨大な海魔が水を操っているとしか思えなかった。
立ち上った水柱は、急に方向を変え、逃げる傭兵たちに向かって落ちてきた。狙っているとしか思えない動きで。
音を立てて大量の水が地面にたたきつけられ、傭兵たちが全員、水に押し流される。
サーペント本体も動いた。
巨大な体が海岸に上がってくる。
全長数十メートル、胴の太さも三メートルぐらいありそうな巨体は、全身が岩のようなウロコにおおわれていた。手足のようなものは見えなかった。
サーペントはヘビのように体をくねらせ、海岸近くをはい回る。
水に流され、倒れていた傭兵たちが、次々と押しつぶされて死んでいった。シーベルの剣が収められていた祠も、サーペントに粉砕される。
やがて全員を殺し尽くしたと思ったのか、サーペントは海へと戻っていった。
レンたちは、その様子を息を殺すようにして見つめていた。
静かになった海岸には、十体ほどの無残な死体が残るだけだ。
傭兵たちは全部で二十人以上いたはずだが、他に動く者はいない。おそらく他の者は海へと流されたのだろう。
あれだけの勢いの水に流されたのだ。どちらにしろ、生きているとは思えなかったが。
ふと、そういえばカエデが静かだな、とレンは思った。
いつもなら真っ先に飛び出していきそうなのに、何も言ってこないのはなぜだろう? と思ってカエデの方を見ると、意外なことに血の気の引いた顔で体を震わせていた。
あのカエデがおびえている!? と驚いたレンだったが、そういえばカエデは――というかダークエルフはみんな、水が苦手だったことを思い出す。
泳げない彼らにとって、さっきの水攻撃など、まさに悪夢だろう。
「領主様、どうしましょうか……?」
こちらを見たジョルスが聞いてきた。彼も顔色が悪い、というかシャドウズの三人も、みんなカエデと同じようにおびえた顔をしている。
「どうするって?」
「あの連中の中に、剣を持った者がいたと思うのですが……」
「ああ、そういえば……」
あの海魔を見たショックで忘れていたが、そういえば彼らの一人が剣を持っていたのだった。
「探しに行ってみようか」
レンたちは隠れていた林を出て、海岸まで下りていく。
いつも通りなのはレンとガー太だけで、後の四人はおっかなびっくりの足取りだった。