第166話 情報の齟齬
翌朝、レンが自室のベッドで目覚めると、
「おはようございます。オーバンス様」
ベッドの横に立っていたメイドさんから挨拶された。
これは昨日までと一緒だった。この部屋を与えられてからは、毎朝メイドさんに挨拶されている。だが今朝はそのメイドさんが違っていた。知った顔ではあったが。
「ええと、ごめん。あなたの名前は……」
「リタです。オーバンス様」
「そうだ、リタさんだ。……で、どうしてリタさんがここに?」
リタはサーリアに仕えるメイドだったはずだ。それがどうして朝からレンの部屋にいるのか。
「私のことはリタとお呼び下さい」
「リタさんの方が呼びやすいんだけど」
別に呼び捨てでもいいといえばよかった。リタはだいぶ年下だったし。だが若い女の子でも、あまり親しくない相手を呼び捨てというのは、なんというかしっくりこない。これも日本人的な感覚だろうか。
「……わかりました。オーバンス様がそうおっしゃるなら」
どこか納得していない様子だったが、とりあえずレンの言葉を優先してくれたようだ。
「で、リタさんが何でここに?」
「サーリア様に、オーバンス様のお世話をするように命じられたからです」
「いや、その理由を知りたいんだけど?」
「理由についてはサーリア様に聞いていただかないと。私は命じられただけです」
そういうものかと思った。だったらサーリアに聞きに行こう。
「サーリアさんは今どこに?」
「自室だと思いますが、その前にお風呂の準備もできておりますが?」
「本当? じゃあ先に入らせてもらおうかな……」
この城には、広い風呂が何か所か造られていた。レンの屋敷の天然温泉には及ばないが、それでも広くて気持ちのいい風呂なので、レンも気に入っていた。
ただ、いつでも入れるというわけではない。
城の風呂は、基本的に高位の人間が入るものだ。みんなが寝静まった深夜には、召使たちが利用しているが、それ以外の時間は誰かの貸し切りになっている。例えばロレンツ公爵が風呂に入るときは、公爵の貸し切りだ。
客人扱いのレンも、風呂に入るときは貸し切りだ。
そして貸し切りなので、他の誰かとかぶらないように、スケジュールを調整しなければならない。この辺りは、各人の召使たちが話し合って調整している。
城の人間には暗黙の優先順位があって、例えばロレンツ公爵は最優先だから、彼が風呂に入りたいと言えば、他の者は譲らなければならない。
このように時間が調整されるので、レンも好きな時に風呂に入れない。昨日も一昨日もメイドさんが、
「お風呂のご用意ができました」
と教えてくれたのだ。
だからリタがお風呂の準備ができたと言うからには、わざわざ朝風呂のスケジュールを調整してくれたということだろう。せっかくなので彼女の好意に甘えることにして、城のお風呂へ向かう。
「あ、一人で入りますから、手伝いとかはいらないです」
脱衣所に入る前に言っておく。そう言っておかないと、メイドさんたちは当たり前のように一緒に入ろうとしてくるからだ。きっとリタも同じだろう。
誰かに体を洗ってもらうとか、どんなものかちょっぴり興味はあったが、それより恥ずかしさが勝るので遠慮しておく。
脱衣所で服を脱いで、いざ浴場へ。
城には何ヶ所がお風呂があったが、どこも石造りの広くて立派なお風呂ばかりだ。
ここのお風呂もそうで、それを独り占めできるのだから贅沢だなあ、なんて思いながら浴場へ入ったのだが――今回は一人ではなかった。
湯船につかる先客がいたのだ。
「……レン殿?」
お湯につかっていたサーリアが、びっくりした顔でレンに聞いてくる。
「サーリアさん……?」
素っ裸のレンも、驚いてサーリアを見る。
なんでサーリアがここに!? いや、それよりこの状況はマズい。どう考えても事案である。
とにかくここにいてはダメだと、レンは慌てて風呂から出て行こうとしたが、
「まてレン殿。わらわはもう風呂から上がるから、ゆっくり入っていくとよい」
「いや、でも……」
「リタに風呂に入るように言われたのか?」
「そうですけど……」
「あやつめ。時間を間違ったようじゃな」
そう言いながらサーリアは湯船から上がって、レンの横をスタスタと通り過ぎていく。まだ子供だからなのか、恥ずかしがる様子もなく堂々としていた。むしろレンの方が恥ずかしがっている。
自分が出て行くべきだと思ったが、サーリアが風呂から上がってしまっては仕方ない。彼女の後に付いて一緒に出て行くわけにもいかず、レンは入れ替わるように湯船につかった。
「レン殿。後でもう一度話をしたいのじゃが、構わんか?」
「もちろん。ちゃんと話をしましょう」
サーリアは最後にそう言ってお風呂から出て行った。
ふーっとレンは大きく息を吐く。
最悪の事態は免れたようだ。
あそこでサーリアが悲鳴上げて騒ぎになっていたら、大変なことになっていただろう。
少女のお風呂に乱入するとか、日本なら社会的に死んだも同然だ。
こっちの世界でも無事ではすまないだろう。サーリアはロレンツ公爵の娘だし、そのお風呂に入るとか、死罪の可能性も十分あり得るのでは?
風呂から上がったら、兵士たちが待ち構えているとかないよな……?
ちょっと不安に思うレンだった。
だが、そもそもこれは自分の責任ではない。リタにお風呂の準備ができたと言われたから入っただけなのだ。
風呂から上がったら、一言文句を言ってやろうと思ったし、そこはサーリアにもきっちり伝えておこうと思った。
「さて、これはどういうつもりじゃ?」
リタに体を拭いてもらいながら、サーリアは彼女に訊ねた。
サーリアが風呂から上がってくると、脱衣所にリタがいたのだ。
今日は一人で風呂に入ったサーリアだったが、いつもはリタと一緒に入っている。体を洗ってもらったり、体を拭いてもらったり、そういうのも全てリタにやってもらっている。というか身の回りの世話は全てリタにやってもらっているのだ。
だから今も当たり前のように体を拭いてもらっているが、どうしてこうなったのか、ちゃんと聞いておかねばならなかった。
「今朝のお話は、てっきりそういうことだとばかり思っていたのですが……」
リタは戸惑い気味に答えた。
「今朝の話じゃと?」
今日の朝、レンの所にリタを送り込んだのはもちろんサーリアである。
レンには世話役のメイドが一人付いていたが、そこへサーリアが手を回して、その役目をリタに入れ替えたのだ。
周囲に対する牽制のためである。
昨日、レンは返事を保留して話を終えたが、それを正直に他の者に知らせるつもりはない。リタをレンのメイドとして送り込めば、二人の間で話がまとまったのだ、と勘違いしてくれるかもしれない。
またレンの行動を監視する、という役目もあった。
だから今朝、サーリアはこう言ってリタを送り出したのだ。
「お主をレン殿の世話役に就けることにした。レン殿にしっかりお仕えして好感度を上げるのじゃ。後、レン殿が誰と会ってどんな話をしたか、そのあたりの情報も集めるように」
リタはわかりましたと返事をして、レンの部屋へと向かった。それだけだ。サーリアは彼をお風呂につれて来いなど一言も言っていない。
「サーリア様は、その時にこうもおっしゃっていました。わらわはこの後一人で風呂に入るから、時間を見てオーバンス様をもう一度連れてくるように、と」
「確かに言ったが、それは風呂から上がった頃を見計らって連れてこいと言ったのじゃ。なんで風呂に連れてこいという話になる」
「サーリア様のことですから、てっきり色仕掛けでもするとばかり」
「お主ならまだしも、わらわのような子供が色仕掛けをしてどうする」
「……もしかしてご存じないのですか?」
「何をじゃ?」
「オーバンス様は、小さな女の子が好みだという話です」
「初耳じゃ」
サーリアとリタは、それぞれ別のルートから情報を集めていた。
サーリアは家族や貴族たちから、リタはメイド仲間や下働きの人たちから。そうやって情報を集め、互いの情報を付き合わせていたわけだが、そこで情報の齟齬が起こってしまったようだ。
「申し訳ありません。てっきりサーリア様も知っているとばかり」
「その話は本当なのか?」
「オーバンス様はダーンクラック山脈の魔獣を倒し、ふもとの街で歓待を受けたそうなのですが、その際、年頃の美女には目もくれず、年端もいかぬ子供を差し出すように要求したとか」
「もしかして最初に姉上の誘いを断り、わらわの話を聞いてくれたのもそれが理由か?」
「可能性はあると思います」
「うーむ……人の趣味は様々じゃから、レン殿がそういう趣味でもおかしくはないか。なるほど、それでわらわが色仕掛けか」
「サーリア様なら、平気でそれぐらいはやりそうだと思いましたので」
「はっはっはっ。そうほめるでない」
「ほめているわけでは……いえ、ある意味ほめていますが」
「レン殿がそういう趣味なら色仕掛けも悪くない。じゃが困ったのう。そういうのはわらわの不得意分野じゃ。色恋は知識よりも経験が物を言うらしいし……リタはどうじゃ?」
「私もよくわかりません。そういう世界に売られる前に、サーリア様に助けていただいたので」
「そうじゃったな。ではどうすべきか」
「よくわかりませんが、サーリア様にその気があるのでしたら、ぐいぐい迫っていけばよいのでは?」
「男女の間は、そう単純なものでもないらしい。押したらひかれる場合もあるし、あえて拒絶するのが効果的な場合もあるそうじゃ。それに小さな女の子が好きだというのが本当だったとして、どの程度の年齢が好みなのじゃ? わらわはもちろん、リタもレン殿より年下じゃ」
「ではどちらも好みなのでは?」
「女なら誰でもいいという男もいるそうじゃが、細かい好みを持つ男もいるというぞ……というか、そんなことはどうでもいいのか。要は本人の好みがどうであれ、周りがそれを信じてしまえばよいのじゃ」
「つまり?」
「それとなくうわさを流せ。レン殿はわらわに一目惚れして、わらわのために戦うと誓ったと。ついでにシンシア姉上もあっさりふられたと付け加えるのじゃ。こんなうわさが流れれば、他の兄上や姉上も、レン殿と組むのをためらうじゃろう」
「そんなウソをついてもすぐにバレるのでは?」
「大会は明後日、つまりあと一日バレなければそれよい」
そう言ってサーリアは笑いを浮かべた。まるで時代劇の悪代官のような笑いを。
「わかりました。ではそのように」
風呂から上がってきたレンは、あらためてサーリアから謝罪された。
「申し訳ない。やはりリタが時間を間違えておった」
「いえ、こちらこそすみません」
「今回の件じゃが、わらわたちだけの秘密ということで、話を収めてもらえると助かる。この件が表沙汰になると、リタを処罰しなければならん」
「わかりました。僕もその方が助かります」
サーリアのお風呂に入っていったとか、レンも口外されたら困る。闇に葬るのが一番だった。
「レン殿の今日の予定は?」
「一度城の外に出て、その後は、他の方たちの話を聞ければ、と思っています」
「そうか。まあがんばってくれ」
この後、レンは言った通りに城を出て、ロゼと一緒にみんながいる森へと戻った。
シャドウズたちから、情報集めの結果を聞くためだった。
後継者決定大会のことは街でも話題になっており、街のダークエルフたちから色々な話を聞けたようだ。
ロレンツ公爵の四人の息子たちの評判は、おおむねサーリアから聞いた通りだった。
長男のレーダンは、粗暴なところもあるが、魔獣退治の実績も残しているため、領民達の人気は高いようだ。この時代、やはり強さこそが優先されるのだ。
三男のジェストは領民達の一番人気だった。有能な戦士として知られているし、レーダンとは違い領民達にも気さくな態度で接するようだ。彼が後継者になってくれれば、という声は大きい。
次男はシャリオスというのだが、彼は人気がない。病気がちで、あまり表にも出て来ないらしい。いざという時、魔獣などから街を守るのが領主の務めなのだから、病弱な当主というのは人気がないのも当然だった。他に優秀な面があれば話も違ってくるだろうが、そういう話も聞こえてこない。
四男のジリオンも人気がないというか、こちらはまだ十二歳で、表に出てくる機会も少なく、どういう人物なのか情報が少なかった。彼も動いているというか、彼の周囲の人間たちが動いて人を集めたようだが、どうなっているのかよくわからない。
情報がないのはサーリアも同じだ。こちらは完全に後継者候補から除外されているという感じだ。レンが来るまで誰も雇っていなかったそうだから、そういう話も納得だ。
ロレンツ公爵にはサーリアを含め六人の娘がいるが、五女もまだ結婚しておらず、後継者大会には不参加を表明している。
二女と三女は他国へ嫁いでおり、こちらも不参加だ。つまり大会に参加するのは長女と四女だけだ。レンがサーリアに味方すれば、ここに彼女も加わることになる。
長女のシンシアと四女のブリンダは、ともに公国内の有力貴族に嫁いでいる。二人のどちらかが勝った場合は、彼女たちではなく、彼女たちの夫が後継者になるだろう。二人とも、それぞれの領地から人を連れてハーベンの街へ乗り込んできたらしい。
これらの話を聞いたレンには、三男のジェストに味方するのが一番いいように思えた。それならサーリアに付くのも同じだ。彼女は勝てばジェストに家督を譲ると言っていた。
ウソではないだろう。レンにそんなウソをつく理由がないからだ。
だったらもうサーリアでいいかとも思ったが、大会は明後日、まだ今日と明日がある。その間に他の子供たちの話も聞いて、最終判断を下そうと思った。
……思ったレンだったが、事態は彼の予想通りには進まなかった。
城へ戻り、他の子供からの接触を待ったのだが、全然そういう話が来なかったのだ。
「自意識過剰だったかなあ……」
サーリアはレンのことはうわさになっていると言っていた。実際、サーリアと姉のシンシアは向こうから話しかけてきた。だから他の子供たちも、向こうから話を持ちかけてくると思っていたのだが、そういうことは全くなかった。
うわさになんかなってなくて、誰も僕のことなんて知らないのか、と思ってしまったレンだったが、事実は違っていた。
うわさにはなっていたのだ。ただしレンが思っていたのとは全く違う内容で。
「レン・オーバンスというあの貴族だが、サーリア様に一目惚れしたらしいぞ」
「それどころか結婚を申し込み、公爵家の跡取りを狙っているそうだ」
「サーリア様にぞっこんで、シンシア様は相手にもされなかったそうだ」
なんてうわさが城内を飛び交っていたのである。
原因はリタの流したうわさである。元々、城内で働いている者たちは、そういう王族や貴族のゴシップが大好きなのだ。レンのうわさは、おもしろおかしくあっという間に広がった。
これを聞いた他の兄弟や姉妹は、レンに接触するのを躊躇した。
下手にこちらから話を持ちかけ、それをあっさり断られたら貴族としての体面に傷が付いてしまう。現にシンシアはサーリアに負けたと笑い者になっていたのだ。そのためシンシアは激怒していたようだが、とにかく他の者たちは彼女の二の舞になるのを避けようとした。
打開策はあった。
レンが自分から動けばよかったのだ。誰でもいい、レンの方から話を持ちかければ、向こうも応じてくれたはずだ。そうすれば誤解もとけたかもしれない。
だがレンは動かなかった。
元々人付き合いが苦手で、初対面の相手に自分から連絡して話をしに行く、なんてことも苦手なレンだった。
もう少し待ってみよう、なんて自分に言い訳しながら、受け身になってしまった。
結果、事態は進展することなく、時間だけが過ぎていった。