第156話 小さな接待役
「あらお嬢様。起きてよろしいのですか?」
台所に現れたナタリアを見て、女中が声をかけてくる。
「ちょっと、のどが渇いたから」
「呼んで下されば、お持ちしましたのに」
「それぐらいは自分でやるわよ」
家に帰ってきてホッとしたからなのか、ナタリアは昨日の夜から熱を出し、今朝も朝からずっと部屋で寝ていた。
体調はだいぶ回復したと思うが、まだちょっと体がだるい。水を飲んだナタリアは、すぐに自分の部屋に戻ろうとしたが、なにやら店先が騒がしいのに気付いた。
気になったナタリアは、店先の方をのぞいてみる。
店員たちが集まってわいわい言っているので、何があったのか店員の一人に聞こうとしたが、その前に見覚えのある人物に気付いた。
「オーバンス様ではありませんか?」
「あ、どうも」
レンもナタリアのことは覚えていたので、軽く頭を下げて挨拶する。人の顔を覚えるのは苦手なレンだったが、さすがに彼女のような美人なら覚えている。
「今日はどうしてこちらに?」
「えーと……あなたのお父さんに呼ばれまして。ちょっとお礼を言いたいので、来てもらえないかと」
彼女の父親、ビロウスの名前が出てこなかったので、レンはそんな言い方をした。
「そうでしたか。それで父は?」
周囲を見渡すナタリアに、
「それが今ちょっと出かけてるみたいで。それで待たせてもらおうかなと思ったんですが」
「え?」
軽い調子でレンは答えが、それを聞いたナタリアが固まった。
彼女はレンがどこの誰だか知っていた。つまり貴族を呼んでおいて待たせることが、どれだけ無礼になるかを知っていた。
「申し訳ございません!」
ナタリアがその場に平伏した。
「こちらの手違いでオーバンス様をお待たせするなど、とんだご無礼を。どうかお許し下さい」
「ちょっとナタリアさん!?」
レンは驚いていた。なにしろいきなりの土下座である。
そりゃ僕も少し腹を立てていたけど。呼んでおいて待たせるとか、どうなってるんだって。けど土下座してもらうほどのことじゃないし。
店員たちもナタリアの行動にびっくりしていた。
彼らはレンがそこまで大事な客とは思っていなかった。
レンが丁寧な態度で店員たちに接していたので、自然と店員たちも気安い態度でレンに接していた。それがこの急展開である。
即座に態度を切り替える、というのも難しいだろう。
「頭を上げて下さいナタリアさん。そこまでしてもらうほどのことじゃないですから」
「お許しいただけるのでしょうか?」
ナタリアが顔を上げて訊ねてくる。
「許すというか、別に怒ったりしていませんから。ナタリアさんも気にしないで下さい」
「ありがとうございます」
またも平伏するナタリア。
「お前たちも、早くお詫びしなさい!」
ナタリアに強く言われ、他の店員たちも慌ててその場にひざまずく。まだ事態を把握し切れていない彼らだが、とにかく何かマズいことをしたようだ、と気付き始めていた。
ただ一人、イーリスだけが、よくわからないという顔で立ったままだ。
よくわからないのはレンも同じだった。さっきまで普通に話していたのに、どうしてこんなことになったのか。
「オーバンス様。この者たちの無礼も全て私の責任です。どうかこの者たちには寛大なご処置を」
「ですから僕は怒っていませんから。そういうのはやめて下さい」
とにかく土下座はやめてほしいんですけど、と思った。
「ありがとうございます」
と再び顔を上げて答えたナタリアは、一転して厳しい表情になり、店員たちに訊ねた。
「それでお父様はどこに?」
「急にトルエン様から連絡がありまして、何でも先日の取引で――」
「今すぐ呼び戻してきて」
店員の答えを途中でさえぎり、ぴしゃりと言う。
「ですが、こちらも大事な取引で――」
「いいから早く行きなさい!」
「はいッ!」
ナタリアの剣幕に押され、店員の一人が飛び出していった。
「ではオーバンス様。もう少しだけ、こちらでお待ち下さい」
今度こそ奥の部屋に案内されたレンは、そこでビロウスを待つことになった。
一方、困ったのがナタリアだった。
レンを迎えたからには、それ相応のもてなしをしなければならないのだが……
「じゃあオーバンス様は、いきなりここへやって来たっていうの?」
店の者から話を聞いたナタリアは、レンが事前の約束もなく、今日いきなりやって来たことを知った。
使いの者がレンの素性を知らずに招いてしまったのが原因だが、応じる方も応じる方だ。普通はやって来ない。
貴族に会うとなれば、平民が貴族の元へと出向くものだ。
商人同士なら別に気にしないが、貴族はそういう体面にこだわる。
だが貴族の中にも、まれに体面とか礼儀作法とかにこだわらず、商人のように実利を優先する者がいる。レンもそういうタイプなのだろうか。
それならまだ救いがあるが……
レンが貴族だと知った店員たちの中には、顔を青くしている者が何人かいた。
「俺、普通に気安く話しかけちゃったよ……」
「それぐらいならまだいいだろ。俺なんて、あんた呼ばわりしたんだぞ。あんたのダークエルフ、すごいじゃないかって」
店員たちが深刻な様子で話しているのも当然だ。
もしレンが、
「あの無礼な店員たちをクビにしろ」
とでも言えば、きっと父は即座に彼らのクビを切るだろう。
彼らの無礼が原因とはいえば原因だが、それを責めるのは酷な気がする。というか、はっきりいって向こうが悪い。立派な貴族だというなら、貴族らしい振る舞いをすべきなのだ。
それとも、もしかしてそれが狙いだったとか?
さすがにビロウスの不在まではわからなかっただろうが、いきなり行っても十分なもてなしが受けられないのは、彼だって予測できたはずだ。
貴族を招待しておいて、それ相応のもてなしができなかったとなれば、呼んだビロウスの不手際となってしまう。
レンはそれを狙ったのではないだろうか。
父とレンがどのような話をするのか、ナタリアも詳しくはわからないが、わざわざ呼ぶのだから商売がらみ、金や利権が絡んだ話になるのは予測できる。レンだってそれはわかったはずだ。
やり手の商人である父が、まさか本当にお礼を言うためだけに呼んだとは考えないだろう。
だから失礼な招待にあえて応じ、こちらに失点させておいて、話の主導権を握ろうとしたのではないか?
ナタリアから見たレンは、人のよさそうな少年にしか見えない。さっきも気さくな態度で、店員たちやイーリスに接していたようだし。
だが父はそんな彼のことをひどく警戒していた。
穏やかな人柄は仮面で、その下にしたたかな本性を隠しているのかもしれない。
油断は禁物ね、とナタリアは思った。
治りかけていた体調も悪化した気がするが、ここで寝込むわけにはいかない。
使いの者を送ったから、すぐに父も帰ってくるだろう。だがそれまでレンのことをほったらかしとはいかない。もう一頑張りしなければ。
しかしどうすればいいか。
客人をもてなすとなれば、料理、酒、それに女だろう。
もしこれをレンが聞いていれば笑ったかもしれない。接待って日本でも異世界でも変わらないんだなあ、と。
だがナタリアには笑い事ではなく、真剣だった。
まず酒はダメだろう。これから大事な話し合いがあるはずだから、その前に酒はない。終わった後ならいいだろうが。
食事はすでに手配した。知り合いの料理屋に人を走らせ、すぐに料理人を寄越すように伝えた。しかしこれから作るとなると時間がかかる。
後は女だが……
いつもなら自分が出て行って相手をする。うぬぼれではなく、ナタリアは自分が魅力的な女性であることを知っている。接待役として、大事な席に呼ばれたことも何度もある。
だが今回はダメだ。
以前の道中で、レンが自分に興味がないことはわかっていた。ここで自分が出て行っても無駄だろう。
誰か他の相手を――と思ったところでイーリスに目がとまった。
そういえば、店先で何をしていたのだろうか。
「ちょっと聞きたいんだけど――」
ナタリアは店員たちから事情を聞いた。
レンが連れてきたダークエルフと、イーリスで計算勝負をしていたらしいが、なぜそんなことになったのか、わけがわからない。だが重要なのはそこではなく、レンがイーリスに興味を示した、ということだ。
他に手はないし、これに賭けてみようと彼女は思った。
奥の部屋に案内されたレンは、一人でソファーに座ってぼーっとしていた。
「お付きの方はこちらに」
とリゲルは別に案内されたので、レンは一人で待つことになった。
待つのはいいが退屈だった。
スマホがあればなあ、と思った。あれがあればいくらでも暇つぶしができるのだが、なんて思っていると、部屋のドアがノックされた。
「失礼します」
と入ってきたのはナタリアだった。
相変わらずの美人に、レンは少し気後れする。彼女と一対一で話すなら、一人で待っている方がいい。
レンにとっては幸いなことに、彼女に続いて別の人物が入ってきた。
小さな女の子、さっきリゲルと勝負したイーリスだった。
彼女はお盆にお茶の入ったカップを乗せて入ってきた。その動きがちょっと危なっかしい。
「お茶。……なんとか茶? おいしいみたい」
レンの前にカップを置いたイーリスが、そんなことを言ったので、レンは思わず笑ってしまった。
小さな女の子が、がんばってお手伝いしているのはほほえましいものだ。
そんなレンの様子をナタリアはじっと見ていた。イーリスの無礼な物言いには驚いたようだが、レンが怒りもせず笑っているのを見て、何かを確信したように小さくうなずく。
普通の日本人であれば、子供の言葉遣いに一々腹を立てたりはしないだろう。レンのように、がんばってお手伝いしてるんだなあ、と温かい目で見守る者がほとんどだ。
この世界でも平民は同じようなものだが、貴族は違う。名誉を重んじる彼らは、例え相手が子供であっても、自分に対する無礼を許さない。笑って受け入れるレンの態度は異質だった――何か特別な理由でもない限り。
そんな彼の態度を見て、ナタリアは自分の考えが正しかったことを確信する。
自分に対する態度と、イーリスに対する態度を見れば一目瞭然。やはり彼はそういう趣味の人間なのだ、と。
今見た通り、イーリスは基本的な礼儀作法もまだ身につけていない。そんなイーリスの言動にレンが怒る危険もあった。そこが賭けだったのだが、どうやら賭けて正解だったようだ。
イーリスはナタリアの妹だった。ただし腹違いの母親から生まれた異母妹だが。イーリスの母親は、店で働く女中の一人だった。それにビロウスが手を出して彼女が生まれた。
だから同じ娘でも、正妻から生まれたナタリアとはまるで立場が違う。ナタリアが娘として大事に育てられたの対し、イーリスが店の下働きのようなことをしているのも生まれの違いによるものだ。
この国では、権力者や金持ちが正妻の他に複数の愛人を持つのが当たり前なので、イーリスの存在も当たり前のように受け入れられている。
ビロウスの扱いも、ことさら冷たいというわけではない。普通の下働きと違い、イーリスは色々と配慮されていたりもする。
例えばこの時代、下働きがミスすれば殴られたりするのも当たり前だったが、彼女がそんな暴力を受けることはなかった。
ナタリアもイーリスのことを少しは気にかけていた。
なにしろイーリスはちょっと変わった子供だった。あれだけ計算ができるのだから、頭の回転は速いはずなのに、人と話すと言葉が出なかったりテンポがずれたりする。
今もそうだ。この部屋に来る前に、ちゃんと挨拶の仕方や、お茶についても教えていたのに、いざやってみるとめちゃくちゃだった。
見た目はかわいらしい女の子なのだが、これではとても接客などできない。
だがレンは彼女の無礼な振る舞いに怒ったりすることもなく、
「イーリスちゃんはなんでそんなに計算が得意なの? どんな勉強したの?」
などと機嫌よさそうに話しかけている。
これで父が帰ってくるまで、どうにかなりそうだとナタリアは安堵した。