第152話 竜の爪跡を越えて
魔獣という邪魔者を排除し、生存者も救出した。
これで問題なく出発できたが、レンたちはすぐには出発しなかった。
「よければ馬車や食料などを提供したい」
とエッセン伯爵から申し出があったからだ。
レンの馬車は、魔獣との戦闘中に馬が暴れて谷底へ落ちたが、その代わりを伯爵が提供してくれるというのだ。
「感謝の気持ちとして、どうか受け取ってほしい」
という伯爵の言葉は本音だった。ただ純粋な気持ちばかりではない。この先、オーバンス伯爵家といい関係を築きたいと思っているので、ポイント稼ぎの意味もあった。
レンはこれを喜んで受けた。
ガー太に乗っている自分や、ダークエルフたちは馬車がなくても問題ないと思うが、今はイールの二人が加わっている。二人には馬車と十分な食料があった方がよかった。
エッセン伯爵はすでにロッタムの街へ使いを出していた。
最優先でと命じていたので、明日中には砦に到着するだろう。というわけで、出発するのは明後日の朝となった。
幸か不幸か、砦の復旧などで手伝えることは山ほどあったので、退屈はしなかった。
次の日の夕方、予定通りに馬車が到着したので、さらに次の朝、レンたちは出発することになった。
その前に、レンは伯爵に一つ頼み事をしていた。
「レン殿のことを秘密にしておいてほしい?」
「はい。こちらにも色々と事情がありまして。バドス王国へ行くことを、あまり知られたくないのです」
「だがそうなると、今回の功績もなかったことになってしまうが?」
「構いません」
むしろそれが問題だった。魔獣の群れを倒すというのは、貴族にとってこの上ない名誉だったが、レンはそんな名誉に興味はない。他人の注目を集めたくはなかった。
エッセン伯爵は考え込む。
なるほど、色々と事情があるというのはその通りなのだろう。ダークエルフばかりを連れているとか、顔を隠したあやしげな者がいるとか、いかにも事情がありそうだ。
だが魔獣の群れを倒し、バドス王国への道を解放したというのは非常に大きな功績だ。それと引き換えにできるほどの事情とは一体?
気になった伯爵だったが、詳しくは訊ねなかった。後々のためにも、ここはレンの言う事情に配慮してやった方がいいだろう、と判断したのだ。
これで話はまとまったとレンは思った。今まで同じようなことが何度かあったが、いずれも手柄を譲ると言えば、相手は喜んでそれを受け取ってくれた。だから今回もこれでよし、と思ったわけだが、彼は一つ大きな見落としをしていた。
ここを治めているのはエッセン伯爵だから、彼にさえ言っておけばいいと思ったのだが、ここには彼の部下でない者もいた。
王国の役人のボーダンだ。
万全を期すなら、彼にもちゃんと話を通しておくべきだった。だがレンは彼のことをすっかり忘れていた。このことが、後で予想外の事態を生むことになる。
「こちらからも一つお願いがあるのだが」
逆にエッセン伯爵からもお願いをされてしまった。
「バドス王国まで、ナタリアを一緒に連れて行ってほしい」
あの派手な美人のことか、と思った。
伯爵の話によると、彼女は山脈の向こう側、バドス王国のダランの街の住人だそうだ。父親はダラン有数の商人の一人、ビロウス・シュベンド。
伯爵は何度かダランを訪れたことがあり、またビロウスがロッタムの街へ来たこともある。その際に二人は知り合いとなり、ナタリアのことも知っていた。
今回、彼女は見合いのためにここまで来たそうだ。
お相手はジョシュア・バンナーク。バンナーク商会はロッタム有数の商人で、ジョシュアはそこの長男だった。つまり二人の結婚は国境をまたいだ両家の政略結婚だった。
だがジョシュアは父親と一緒に今回の事件に巻き込まれ、行方不明となった。街を出て、砦にも来ていないとなると、途中で魔獣に襲われたと考えるしかない。生存は絶望的だった。
有力な商人が、跡取り息子と一緒に死んだのだ。これは一騒動あるぞ、と伯爵は思ったが、それとは別にナタリアのことだ。
ここは一度、ダランに戻った方がいいと伯爵が言うと、彼女もそれを受け入れた。ちょうどいいことに、レンもバドス王国まで行くという。だったら――ということだった。
「別にいいですけど……」
あまり乗り気のしない返事に、伯爵はおやっと思った。
ナタリアはすごい美人だし、そんな彼女を護衛するとなれば、若い男なら大喜びしそうなものなのだが……
正直、伯爵ですらナタリアにクラッと来るときがある。相手は隣国の商人の娘だし、自分の立場や年齢も考え自重しているが、レンならば、そういうしがらみもないはずだ。
だがレンにとっては、そういう伯爵の思いこそ余計なお世話だった。しかし頼まれたからには仕方ない。向こうの街まで送り届けるだけだし、何とかなるだろうと思った。
ナタリアは一人ではなく、何人か使用人が一緒だった。幸い使用人たちも全員無事で、ここまで乗ってきた馬車も無事だった。ただ馬がいなくなってしまったので、何頭か伯爵から借り受けて帰ることになった。
エッセン伯爵とその部下たちに見送られ、レンたちは砦を出発した。
その後ろには、ナタリアの乗る馬車が続く。
レンはナタリアとあまり関わらないようにしようと思っていたが、向こうはそう思っていなかった。
休憩を取るたびに馬車を降りると、レンの側までやって来て、色々と話しかけてきた。
「レン・オーバンス様。この度はありがとうございました」
「オーバンス様が乗られている、その鳥はなんですの?」
「オーバンス様は、どこのご出身ですか?」
「オーバンス様は――」
等々、とても積極的だった。
レンの方は、その対応に必死だった。黙っているのも失礼だと思い、何か返事をしようと思うのだが、短い言葉で返すのが精一杯である。
しかも気のせいだろうか、彼女との距離が近いというか、ぐいぐい近寄ってくるような。
気のせいではなかった。
ナタリアの方は明確にレンの気を惹こうと行動していたのだから。
彼女はレンについて、伯爵から一応の説明を受けていた。
オーバンス伯爵家は有力な貴族で、彼はそこの息子。長男ではないのは残念だが、将来性はある。
見た目は立派な体格の青年だし、魔獣相手に見事な戦いを見せたそうだ。
この世界では、強さはもっとも優先されることの一つだ。強い男というだけで価値がある。
残念ながら見合い相手のジョシュアは死んでしまった。彼とは面識があったし、嫌いでもなかった。結婚相手としては、いい相手だとも思っていた。しかし、そこに恋愛感情があるわけではなかった。
ナタリアは自分が裕福な家に生まれたことを自覚していたし、そんな家に生まれたから、結婚は自分の意志で行うものではないとも思っていた。結婚は家と家で行うものだ、と。
まあ、よっぽどの相手が出てくれば、彼女も反対したかもしれないが。
だからお見合い相手のジョシュアのことも、好きな相手ではなく、取引相手みたいなものだった。その有力な取引相手が亡くなってしまったのなら、次の相手を捜さなければならない――と彼女はドライに気持ちを切り替えたのだ。
そしてレンは中々の優良物件に思えた。助けてくれたことに感謝もしている。だから積極的にアプローチしてみたのだが……
「あの人はダメね」
何度目かの休憩を終えて、自分の馬車に戻ったナタリアは、メイドに向かってそう言った。彼女には身の回りの世話をする専属のメイドが何人かいて、今回の旅行にも同行していた。
「お嬢様でもダメですか?」
メイドの一人が聞き返す。
メイドたちはナタリアのことをよく知っていた。生来の美貌に加えて、彼女は何が男受けするかもよく知っていた。つまり男の前で猫をかぶれるのだ。たいがいの男は、そんな彼女にあっさり落とされる。
「ダメね。私が寄っていっても、恥ずかしがってるとかじゃなく、本当に嫌そうなんですもの。何か特殊な性癖でも持っているんじゃないからしら」
彼女の考えは単純だった。
この私が誘惑しても全然なびかないのだから、何か特別な趣味を持っているに違いない。女ではなく男が好きとか、そういう趣味を。
レンが聞いたら、
「ちょっと女性が苦手なだけです」
と反論しただろうが、とにかく彼女はそう決めつけ、レンのことはあきらめることにした。良くも悪くも彼女は切り替えが早い。
積極的に話しかけてきていたナタリアが、急に何もしてこなくなったので、レンも不審に思ったが――何もしてこないなら、その方がいいかと思って、こちらも特に何もしなかった。
順調に道を進んだレンたちは、砦を出て二日目、ついに竜の爪跡と呼ばれている場所にさしかかった。
「すごいな……」
レンはその景色に圧倒された。
竜の爪跡は、ちょっと広い谷のような地形だった。谷の両側には、とんでもなく高い山が壁のように連なっている。
砦を出てからも上り坂を進み、だいぶ山の上まで登ってきたと思っていたが、ダーンクラック山脈の山々はもっと高いのだ。あの山を越えようと思えば、どれだけ苦労するか、というより生身で越えられるのだろうか。
だが竜の爪跡と呼ばれるここだけは、その山脈がぷっつりと途切れている。まるで何者かが山脈をえぐり取ったような地形になっていて、竜の爪跡と呼ばれているのも、なるほどと思った。
竜の爪跡はかなりの長さがあったが、地形は平坦で、今までの上り坂と比べて歩きやすかった。また標高が高くなって気温が下がり、平地よりも過ごしやすくなっていた。今は初夏なのでよかったが、これが冬なら逆に大変だっただろう。
途中で一泊したが、何かトラブルが発生することもなく、レンたちは二日かけて無事に竜の爪跡を通り抜けた。
そしてそこを抜けると、今度は道が下り坂に変わった。ダーンクラック山脈の最高点を超えて、向こう側に出ることができたのだ。
グラウデン王国とバドス王国の国境は、ダーンクラック山脈とされているが、山脈のどこが正確な国境なのかは決まっていない。取りあえず真ん中あたりだろう、とされていたので、レンたちはこの時点で国境も越えていた。
山を下りて進んでいくと、今度はバドス王国の砦に到着した。グラウデン王国と同じように、こちらも山の登り口に砦を築き、人や物の出入りを管理していたのだ。
出迎えは物騒だった。
レンたちが近付いていくと、砦から完全武装の兵士たちが飛び出してきて、
「止まれ!」
厳しい声が飛んできた。
「お前たちは何者だ!?」
魔獣の群れによって、ここしばらく竜の爪跡は封鎖状態にあったが、それは当然こちら側でも把握していた。
エッセン伯爵が兵士を集めて砦へ向かったように、こちら側でも砦に兵士を集結させ、竜の爪跡へ調査に向かおうとしていた。
そこに現れたのがレンたちである。
レンがガー太に乗っていたし、他はダークエルフばかり。
砦の兵士たちが、何者かと警戒するのも当然だった。
「隊長様! ナタリアです」
ここでナタリアが前に出てきた。
「おおっ! 無事だったか!」
彼女の登場に兵士たちは驚き、すぐにそれが喜びへと変わる。
しばらく前にナタリアはここを通ってロッタムの街へと向かったが、砦の隊長以下、兵士たちもそれをよく覚えていた。その後、人の行き来がぱったりと途絶えたため、彼らもナタリアの安否を気遣っていたのだ。
彼女が前に出てくれたことで、後の話はとんとん拍子で進んだ。
何があったかは全部彼女が説明してくれたし、レンのことも紹介してくれた。
「大変失礼致しました。それに彼女を救ってくれたことも感謝いたします」
最初の敵意に満ちた態度はどこへやら。砦の隊長にも丁寧に頭を下げられた。
レンがグラウデン王国の貴族とわかったこともあるだろうが、隊長の言葉にはそれ以上の感謝がこもっていた。
美人で性格もいい――と思われている――ナタリアは、この砦の兵士たちにも人気だったのだ。