第147話 山道
ロッタムの街と、その南にある山中の砦は、どちらも国の直轄地、王領だった。
街を治めているのはエッセン伯爵という貴族だ。彼は位こそ伯爵だが、今の自分の領地は田舎の村一つという小さな貴族だった。
王国の貴族には、大きく分けて二つの生き方があるという。
一つは自分の領地の運営に力を注ぎ、そこで一生を終えるという道。
もう一つは王国の役人か軍人となり、そこで出世して栄達を目指すという道。
大貴族ほど前者の道を選ぶ者が多く、小さな貴族ほど後者の道を目指す者が多い。特に領地を持たない名ばかりの貴族だと、後者を目指すしか成り上がる道はない。
とはいえ王国の中で出世するというのも容易な道ではない。
貧乏貴族はたくさんいるし、大貴族の次男三男など、家を継げない者たちの中にも、そちらを目指す者は多い。もちろん民間の人材を登用してもいる。
エッセン伯爵はまだ家を継ぐ前、十代の頃に王都へ向かった。田舎の村一つで終わってなるものか、という野心と向上心に燃えて。
王国の中で出世しようと思うなら、頭脳を武器に役人を目指すか、武勇を武器に軍人を目指すかだが、彼は役人を目指した。
武勇にもそれなりの自信があったが、それより頭脳の方が優秀だと自己分析していた。
王都で勉学を積みながら、積極的に人脈を拡げた彼は、見事に王国の下級官吏に採用された。それから順調に出世を重ね、十年ほど前、三十代の若さでロッタムの街の領主に抜擢された。
ロッタムは王国の端っこだが、重要な土地でもある。
竜の爪跡を通じて、多くの人や物が行き交う、南方への玄関口なのだ。
この街に赴任して以来、いや若くして王都に出て以来、彼が自分の領地に帰ったのは数回しかない。
父親が死に、伯爵家を継いだが、領地は家宰に任せたままだ。
今の彼にとって、本来の領地は生まれ故郷に過ぎず、ここロッタムこそが自分の領地であった。
領主としてのエッセン伯爵は、話のわかる男だと評価されていた。
人や物が行き交うロッタムには多くの利権が存在している。それを巡って王国、街の役人、内外の商人、そして犯罪ギルドなど、多彩な人間が手を組んだり対立したりしている。
エッセン伯爵は、そういう色々な利権団体の話を聞き、利害の調整をするのが上手かった。それぐらいならいいだろう、という妥協点を見つけるのが上手いのだ。それでいて、いざとなれば武力の行使をためらわない果断さも持ち合わせていた。
彼は領主の仕事をそつなくこなし、上から下まで評判は上々だった。彼の統治した十年で、ロッタムの街は順調に発展していて、国王にも信頼されているという。
そんなところに持ち上がったのが、今回の事件だった。
山中の砦は、国境を守る砦でもあった。とはいえ南のバドス王国との関係は良好だったため、これまで戦争で使われたことはない。万が一、両国の関係が悪化としたとしても、竜の爪跡は険しい山道で大軍の通過には適さない。ここが戦場となる可能性は低かった。
そのため砦といっても小規模だった。常時、駐屯している兵士は三十人ほどだ。彼らの仕事はたまに出没する魔獣退治とか、遭難者の救助だった。
街の領主であるエッセン伯爵は、この砦の司令官も兼任している。普段はずっと街で過ごし、砦に行くことは滅多になかったが。
彼が領主になって以来、砦からの連絡が途絶えたことなど一度もなかった。調査に向かった兵士も帰ってこない。
明らかな異常事態である。
伯爵も、やはり魔獣の襲撃を疑った。砦はすでに陥落したか、あるいは囲まれて身動きがとれないのか。いずれにしても砦の兵士たちで対処できないなら、もっと数を集める必要があった。
街には五十人ほどの警備隊がいたが、街を空っぽにするわけにはいかず、そこから三十人を選抜した。
加えて傭兵を五十人ほど集めた。時間をかければもっと集まっただろうが、それよりも早さを優先し、合計八十人ほどの軍勢で砦へ向かうことにした。
そうやって、いよいよ出発しようかというときに、奇妙な来訪者が訪れたのだ。
「あれはガーガーか?」
「そのようですが……」
多くの者たちと同じく、エッセン伯爵も、彼の副官を務めることになった警備隊の兵士も、来訪者本人ではなく、彼が乗っている鳥に注目した。
ガーガーに乗ったレンである。
エッセン伯爵に同行しようと、彼が街を出たところへやって来たのだ。
「エッセン伯爵でしょうか?」
馬に乗ったリーダーらしき人物、彼がエッセン伯爵だろうと、レンは少し緊張しながら声をかけた。初対面の相手に話しかけるのはやはり苦手だった。ガー太に乗っているから落ち着いているが、そうでなければ、もっとためらっていただろう。
「何者か?」
と問い返されたので、レンはガー太から降りて答える。
「僕はレン・オーバンス。オーバンス伯爵の息子です」
「これは失礼した」
オーバンス伯爵の名前を聞いて、エッセン伯爵も馬上から降りる。
自身は伯爵本人、相手は伯爵の息子だから、地位はエッセン伯爵の方が上である。そのまま馬上から会話を交わしても問題なかったが、そこは伯爵が気遣いを見せたのだ。
そういう礼儀作法に疎いレンは、相手の気遣いには全く気付かなかったが。
「それでレン殿、私に何の用だろうか? 見ての通り、私はこれから出陣しなければならない。手短に願いたいのだが」
言いながら、エッセン伯爵はオーバンス伯爵について思い出していた。
直接の面識はない。だが黒の森辺境泊として名前は知っていた。王国の中でも有力な貴族だ。その息子が何の用だろうか?
「僕はこれから竜の爪跡を越え、南のバドス王国へ向かおうと思っているのですが」
「残念ながらそれは無理だ。今は――」
「はい。事情は聞いています。それで、もしよければ僕たちも同行させてもらえないかと思いまして」
「貴殿を? しかしまだ何が起こっているのかも不明だ。どんな危険があるかわからない場所に連れて行くというのは……」
「危険は承知の上です。僕も、こちらのダークエルフたちも、自分の身を守るぐらいの力はあります。多少のお力になれると思うのですが」
「うーむ……」
少し考えた伯爵は、
「わかった。その申し出をありがたく受けよう。ただ、一つ条件がある」
「なんでしょう?」
「言った通りどんな危険があるかわからないのだ。同行するなら、全て私の指示に従ってもらいたい」
「わかりました」
レンも最初からそのつもりだったので、相手の条件を承諾する。
一方、エッセン伯爵の心中は微妙だった。
一人でも戦力がほしいのは事実だ。だから助力の申し出はありがたいのだが、相手が伯爵家の息子というのが問題だ。おとなしくこちらの言うことを聞いてくれればいいが、勝手に行動されたりすれば困ったことになる。
見たところ、レンという少年は大柄で立派な体格をしていた。見るからに武芸自慢の若者、といった感じだ。頼もしいと思う反面、自分の実力を過信し、こちらの言うことを聞かない危険性も感じた。
それでも同行を認めたのは、相手に恩を売っておこうと思ったからだ。レンにというより、オーバンス伯爵に。
今までオーバンス伯爵とは付き合いがなかったが、これをきっかけに関係が始まるかもしれない。そして付き合いは最初が肝心だ。
ここでレンの提案を断れば、相手の心証が悪くなり、それが巡り巡ってオーバンス伯爵にも影響するかもしれない。それを避けたのだ。
それにしても、おかしな連中だと思った。
伯爵家の息子だというのに、お供はダークエルフばかりのようだ。山越えの下働きとして雇ったのかもしれないが、人間の部下が一人も見えないのはどういうことだろう。
それ以上におかしいのが、レンと一緒にいるガーガーだ。……ガーガーだと思う。なんだか普通のガーガーと比べたくましく見えるが。
「一つ聞きたいが、この鳥はガーガーか?」
「はい。ガー太といいます。普通のガーガーとは違って、人を怖がらない珍しいガーガーです」
予想していた質問だったので、レンはスラスラと答える。
「本当に人慣れしているのか?」
「はい。ガー太、ちょっとそっちへ」
「ガー」
レンが伯爵の前の地面を指差すと、ガー太は前に出てきて、伯爵の正面に立った。
堂々たる態度であり、伯爵を怖がる様子などまるでない。
「これはすごいな……」
伯爵は驚き、感心しながら目の前のガー太をまじまじと見つめた。ガーガーは何度も見たことがあるが、こんなに近くで見たこともないし、ここまで堂々としたガーガーを見たこともない。人間を怖がるどころか、伯爵の方が気圧されているぐらいだ。
「確かに普通のガーガーではないようだ。だが、いくら人慣れしているとはいえ、ガーガーに乗るというのは感心しないな」
レンに向き直った伯爵は、とがめるような調子で言った。
「ダメなんでしょうか?」
「ガーガーに害を与えるなかれ、だ。まさか知らないわけではないだろう?」
「ドルカ教ですよね」
王国の国教でもある宗教だ。レンもその信徒なのだが、信仰心はまるでない。だが多くの人にとって影響力があるのは理解している。その教えの中で、ガーガーを大切に扱うように定められているのだ。
その教え自体には、レンも異論はなかったのだが……
「僕はガーガーに害を与えているつもりはありません。乗るのも無理矢理ではありません。首輪なんかも付けてないですし」
今もそうだが、ガー太はなんの装備も身につけていない。もしその気になれば、今すぐどこかへ走り去ることもできる。
「僕を乗せてくれるのは、ガー太の好意だと思っています」
あくまでガー太の自由意志なのだ、と強調した。
「ガー」
まあ、そうだなといった感じでガー太が鳴く。
その一人と一羽の様子を見て、エッセン伯爵は考え込む。
伯爵はそれなりに熱心なドルカ教の信徒だった。そんな彼にとって、ガーガーに無理矢理乗るというのは許されない行為だ。だが見たところ、このガーガーがそれを嫌がっていないのも事実なようだ。
人を恐れないことといい、このガーガーはかなりの規格外といっていい。それをどう判断したらいいのか、伯爵はわからなくなってしまった。
この一件が片付いた後で、神父様にでも聞いてみるか――と伯爵は判断した。つまり先送りである。
ここで宗教論を語っている時間もないし、ひとまず黙認しておこうと思った。
エッセン伯爵率いる軍勢が出発すると、レンたちはその最後尾についた。
先頭を進むのは馬に乗った伯爵だ。レンはその隣に来るように誘われたりもしたのだが、断って後ろを歩くことにした。その方が気楽だったからだ。
エッセン伯爵は、これをレンが遠慮したのだと思った。伯爵と並んで歩けば、何かあった際に意見を求めることになるだろう。後ろに下がったということは、それを遠慮して、あなたの指示に従うという意思表示に違いない。謙虚に振る舞うレンに対し、伯爵の好感度が少しアップした。
エッセンの伯爵の後には街の警備兵が続き、その後に傭兵部隊、食料などを積んだ荷馬車、レンたちという順番で続き、最後尾がイールの二人を乗せた馬車だ。
伯爵は馬車の中身も気になっていたようだが、それを直接は聞いてこなかった。
一行は街を出てしばらく進んでから、登りの山道に入った。道は狭くて、馬車が一台通れるぐらいの幅しかない。御者はシャドウズの一人がやっていたが、馬車の扱いにあまり慣れていないので慎重に進む。
所々道幅が広くなっているのは、馬車がすれ違うためだろう。
いつもなら山を下ってくる者がいるのだろうが、誰ともすれ違うことなく山道を登っていく。
目的の砦は、街を出てほぼ一日の距離だ。朝に出たら、夕方ぐらいに到着する。山道を行く旅人たちにとっては、宿泊所にもなっていた。
ダーンクラック山脈は魔獣が少ないことで知られているが、魔獣がいないわけではないので、やはり野宿する者は少ない。
こまめな休憩を挟みつつ、一行は進む。
ガー太は元気だし、ダークエルフたちにも疲れは見えないが、レンは馬車の中にいるイールの少女たちの体調が気になった。
人目があるので外に出られないが、熱さ対策は大丈夫だろうか?
水はたくさん積んであるし、一緒に乗っているロゼも何も言ってこないので、大丈夫だとは思うのだが。
昼を過ぎた頃、一行は難所の一つにさしかかった。
そこは切り立った崖に作られた道だった。
道の右には何もない。下をのぞき込むと、数十メートルの崖になっている。落ちればただではすまないだろう。
左側は急斜面の岩壁になっていた。落石がないか心配になってくる。道が細いので逃げ場がないのだ。
「ここは特に慎重に進むぞ」
伯爵が命令し、一行はスピードを落としてゆっくりと進んでいく。
崖の道は百メートルほど続いていたが、先頭の伯爵が半分ぐらいまで進んだところで、レンはその気配に気付いた。横のカエデを見ると、彼女も気付いているようだ。
魔獣が近付いてくる。
それも一体や二体ではない。もっと数が多い。
「エッセン伯爵!」
レンは大声で、先頭の伯爵に呼びかけた。本当は前に出たかったのだが、レンの前には荷馬車が道をふさいでいた。道が狭いのでかわして前に出ることができない。
緊急事態だからしょうがない、とレンは決断する。
「ガー太」
「ガー」
答えたがガー太が前に出る。勢いをつけてジャンプして、荷馬車の上に飛び乗った。
着地の衝撃で荷馬車が揺れ、御者が慌てて馬を止める。
この様子は先頭のエッセン伯爵からも見えたので、慌ててレンの方へと向かった。
「何をやってるんだ!?」
とがめるような伯爵の言葉に、
「前から魔獣の群れが向かって来てます!」
レンも荷馬車の上から怒鳴り返す。
「魔獣が!?」
兵士たちがざわつき、エッセン伯爵も慌てて前を向いたが、魔獣の姿はどこにも見えない。
「どこに魔獣が――」
「上です!」
レンが指差す。
左側の急斜面の上に、何体かの魔獣が現れた、と思ったらそのまま斜面を転がるように落ちてきた。
「なっ!?」
迎え撃つヒマもなかったが、もし万全の態勢で迎え撃てたとしても、どうしようもなかったかもしれない。
魔獣は隊列の真ん中ぐらいに落ちてきた。
運悪く魔獣に激突された兵士が、悲鳴を上げて右の崖下へ転落する。
魔獣も一緒に落ちていったが、その中の一体だけが道のふちに手をかけ、ぶら下がるようにして落下を免れた。
ぬうっと道の上にあがってきた魔獣は、大型のサルというか、小型のゴリラのような姿をしていた。ゴツゴツした体は全身が茶色の毛で覆われ、二本足で立っている。ゴリラはどこか優しそうな顔立ちをしているが、その顔はひたすら凶悪だった。
「バジャナだ! 殺せ!」
伯爵が叫ぶ。どうやらバジャナという魔獣らしいが、簡単に命令通りとはいかない。
道が狭いため、一度に動ける兵士が限られるのだ。
それでも魔獣の側にいた兵士が剣を抜き、バジャナに斬りかかったが、
「飛んだ!?」
重そうな見かけとは裏腹に、バジャナは身軽だった。その場でジャンプすると、斬りかかってきた兵士の頭上を軽々と飛び越え、その後ろにいた兵士に襲いかかる。
不意を突かれた兵士は対応が遅れ、バジャナに押し倒された。
バジャナは大きく口を開け――そこには鋭い牙が並んでいた――兵士の肩にかみついた。
絶叫を上げた兵士を、周囲の者たちは慌てて助けようとするが、
「上だ! まだ来るぞ!」
レンが叫ぶ。
彼の言う通り、斜面の上にはさらに十体ほどのバジャナが現れ、最初の数体と同じように、転がるように斜面を落ちてきた。