第10話 雨中の惨劇(上)
レンが魔獣と遭遇して以降、危惧していたような事態は起こらなかった。
マーカスの話を聞いた南の村でも警戒を強めていたが、再び魔獣が現れることはなかった。
それはそれでいいことなのだが、おかげで村人たちはレンが嘘をついたのではないかと疑っているそうだ。特に一人で魔獣を倒したという部分を。
まあ仕方ないとレンは思った。
村人たちから嫌われることについては、もうあきらめていた。こちらから積極的に関わろうとしなければいいのだ。
レンの生活も落ち着いていた。
午前中は勉強、午後からはマーカスに剣や槍を教えてもらったり、ガー太と一緒に遠乗りに出かけたり。
マーカスはレンが出て行くことにいい顔をしなかったが、レンもこれだけは譲れなかった。
今やガー太に乗って外を走ることが、レンの唯一の娯楽といってよかったからだ。
とはいえ乗りすぎには十分注意している。初めて乗ったときのひどい筋肉痛の教訓は忘れていない。どれぐらい乗ればどれぐらい疲労するのか、自分の限界を確かめながら乗っていた。
「今日も魔獣はいないっと。けど……」
遠乗りに出たレンは、魔獣への警戒も怠ってはいなかった。
今もガー太に乗って歩きながら、周囲を見回している。
ガー太に乗って走ると体への負担が大きいが、歩くだけなら負担は小さい。ここ数日、色々試してみてわかったことだ。だから遠乗りの基本はガー太に乗っての歩きだ。
幸い今日も魔獣の姿は見ていない。それはいいのだが、ガーガーの姿も見えないのが気にかかる。
魔獣に襲われたあの日以来、レンはガー太以外のガーガーを見ていない。レンを襲った魔獣の気配を敏感に察知して姿を消したのはわかるが、それはレンが倒した。問題はいつになったら戻ってきてくれるのかだ。
それとも他に魔獣がまだいるのか?
ずっと気にはなっているのだが、ガーガーの習性がよくわからないので判断のしようがなく、出来ることといえば、こうして遠乗りの途中に注意深く見回ることぐらいだった。
「よし。それじゃあ帰ろうか」
「ガー」
最後、屋敷に帰るときは全力疾走だ。
風を切って走るのはやはり気持ちがいい。
レンの体も少しずつガー太に乗ることに慣れてきている。激しいスポーツみたいに、それを繰り返すことで体が鍛えられているのだろう。いつかずっと走り回れるぐらい順応できればいいのだが。
屋敷に戻ると、門の前に大きな幌付きの荷馬車が一台止まっていた。
はっきりと断言まではできないが、これはナバルの荷馬車だった気がした。はたして屋敷に入ると彼が待っていた。
「お邪魔しております」
レンに頭を下げて挨拶する巡回商人ナバル。
特に問題がなければ、二週間ほどで東五の村まで行って帰ってくるとナバルは言っていたが、今日でちょうどそれぐらいだったはずだ。
少しは慣れたが、やはり厳つい顔付きのナバル相手に話すのは緊張する。出来れば挨拶だけしてさようならといきたかったが、残念ながら彼には話しておかねばならないことがある。
「こんにちは、お兄ちゃん」
ナバルと一緒に来ていた娘のミーナも挨拶する。
「こんにちは。庭にガー太がいるから見てきたら?」
「本当!?」
ミーナはガー太のことを覚えていたのだろう。すぐに部屋を飛び出していった。
「すみません。どうしても一緒に来ると言ってきかなくて」
「別にいいですよ。それより、ここに来るまで特に異常はありませんでしたか?」
「私の方では特に。先ほどマーカスさんから聞きましたが、こちらで魔獣が出たとか?」
「ええ。それなんですが――」
レンは魔獣と遭遇したときのことをナバルに話そうとしたが、そこへミーナが戻ってきた。
「お兄ちゃん、ガー太がすごく大きくなってるよ!」
興奮した様子でミーナが言う。
「ああ、それは……」
そういえばミーナが知っているガー太は赤ちゃんだったなと思い出した。それがいきなり大きくなっていたのだから驚いただろう。
「ガー太は急にすごく大きくなったんだ」
「なんで!?」
「さあ、僕にもわからないんだ」
本当にわからないのだから、そうとしか言えない。
「ミーナちゃんは大きくなったガー太が怖い?」
「ミーナは平気だよ」
「じゃあガー太と遊んでてくれる?」
「うん!」
元気に返事をしたミーナは、またも部屋を飛び出していった。
「本当に騒がしくてすみません」
「いえ、元気でいいと思いますよ」
人付き合いの苦手なレンだったが、別に子供は嫌いではない。むしろ好きな方だった。元気に遊ぶ子供を見ていると、レンも楽しい気分になれる。ただしレンに子守などの経験はない。だからこその気楽な意見かもしれなかった。
「それで話を戻しますけど――」
レンは魔獣と遭遇したときのことをナバルに話した。
「あれから十日以上たちますが、他の魔獣は見ていません。ですがガーガーの姿も見ていません。注意しておいた方がいいと思います」
「わかりました。私は明日から西の方へと向かいますが、十分注意するようにします」
東の村から戻ってきたナバルは、今度は黒の大森林の西側に向かうという。東と同じように西一の村から西四の村まで行って、さらにその先のガスパル山脈まで足を伸ばす。山を少し登ったところにグラウデン王国の砦があるのだ。西へ向かうナバルの最終目的地がその砦だ。その砦を越え、ガスパル山脈を北に超えると、隣国ザウス帝国へとたどり着く。
砦から先の山道はかなり険しく、魔獣が出現することも多いので、その道を通る者はほとんどいないそうだが。
東へ向かったの同じように、一日移動、一日商売で砦まで行って、そこから五日かけて戻ってくるから、こちらも何もなければ二週間ほどの行程だ。
東へ向かい、次に西の村と砦を巡回し、それが終わるとここから西に三日ほどの距離にあるジャガルという街へ商品を仕入れに向かう。
黒の大森林はグラウデン王国の東の端に位置するが、ジャガルは王国東部でも最大規模の街で、人も品物も豊富なのだそうだ。
だがそのジャガルの人口も一万人程度という。もちろん単純な比較は出来ないが、日本の巨大都市を知っているレンにすれば、一万と聞いても大きい街とは思えなかった。
ナバルは監視村を回り、ジャガルへ仕入れに行くという行程をずっと繰り返している。それが巡回商人としての彼の仕事だ。
一通りの話が終わり、帰るナバルを見送るためレンも玄関から外へ出ると、庭ではミーナがガー太の背中に乗ってはしゃいでいた。
「ミーナ!?」
娘の様子を見たナバルが仰天した。
ガーガーは臆病だから不用意に近づいたりして驚かせてはいけない、というのは魔獣におびえて暮らすこの世界の人々の常識だ。それが近づくどころか、ガーガーの背中にまたがるなど言語道断である。
幼い子供でも許されることではなく、怒ったナバルはミーナを叱りつけようと前に出たが、
「ま、待って下さい。このガーガーはちょっと特別なんです」
怒ったナバルにおびえながらも、レンはどうにか彼をなだめようとする。
「ガー太」
レンが呼ぶと、ガー太はミーナを乗せたまま彼らのいるところまでやって来た。
「ほらね。こいつは全然人を怖がらないんです」
レンの言葉通り、全く人を恐れず堂々としているガー太を前に、ナバルは呆気にとられた。
「こりゃ驚いた……。こいつは本当にガーガーなんですか?」
「はい。ただ人を全然怖がりませんけど。そうだよなガー太?」
「ガー」
まあな、とでも言うようにガー太が鳴いた。
まだ目の前の存在を受け入れられないようなナバルに対し、ガー太に乗っているミーナはニコニコと楽しそうだ。
「そういえば、先日訪れたときにガーガーの子供がいたと思いましたが?」
「その子供が、このガー太ですよ。急に成長しちゃいまして」
「本当に?」
「そのあたりは僕の方がナバルさんにお聞きしたいんですけど、ガーガーって急に成長したりするんでしょうか?」
「いえ、私もそんな話は聞いたことがありませんが……」
やはりナバルもわからないようだ。
「ガーガーの子供も先日こちらで初めて見ました。ガーガーは臆病で人間には近づかないし、私どもも不用意に近づいたりしません。ですからどうやって子育てしているかも知らないし、どうやって成長するかも知りません。ですから急に大きくなるのも、ないとは言えませんが……」
「やっぱり普通はあり得ないですよね」
やはりガー太が特別なのだとレンは思った。人を怖がらないところも普通のガーガーとは違うし。
「それにしてもあのガーガー、普通のガーガーと比べて、体型も少し違うような気がするのですが?」
「やっぱりそう思います? 他のガーガーは丸っこいんですけど、ガー太はなんというか、ガッシリしてるんですよね」
やはりガー太の体型の違いは一目瞭然のようだ。
「ミーナ。もう帰るから、そのガーガーから下りなさい」
「えー」
ナバルの言葉に、ミーナは不満そうな顔をする。
「ミーナ!」
「いや! もっとガータと遊ぶ」
ナバルが強く呼ぶと、ミーナはガー太の首にぎゅっと抱きついた。
普通ならミーナがだだをこねても、ナバルは強引に抱きかかえて帰る。
だがミーナはガーガーに乗っていた。
ナバルは幼い頃からガーガーに近づくなと教えられて育ってきたし、常に魔獣の脅威に直面している巡回商人ということもあって、ガーガーへの敬意は人一倍だ。だからミーナをおろすためとはいえ、ガー太に近づくのをためらってしまう。
どうしたものかと思ったナバルは、困った顔でレンを見た。
見られたレンはナバルとミーナを交互に見て、どうにか妥協点を見つけようとした。
「えーと、ナバルさんは今日は南の村で泊まるんですよね?」
「はい。明日の朝に出発します」
「だったらミーナちゃんは後からこちらで村まで送りますから、もう少しここで遊んでいても大丈夫ですよ」
「いえ、そのようなご迷惑を――」
「マーカスさん、頼めますか?」
こちらで送るとは言ったが、自分で南の村へ行くのは嫌だったのでマーカスに頼む。
マーカスは笑顔で頷き、ナバルはまだ渋っていたが、最後はそれではお願いしますと頭を下げた。
なんだかんだいって彼も娘には甘いのだ。
「やったあ! じゃあガータ、次はあっちに行こう」
もう少し遊べるとわかったミーナは喜び、さっそくガー太に次なる指令を下す。
「ミーナちゃん。ガー太に乗って遊ぶのは楽しい?」
「うん。わたしが乗っても平気で、トコトコ歩いてくれるんだよ」
小さなミーナにとってガー太はかなり巨体なはずだが、全く怖がっている様子はない。
本人が物怖じしない性格なのか、ガーガーだから大丈夫だと安心しているのか。
「ガー太ももう少し相手を頼むね」
「ガー」
仕方がないな、といった調子で鳴いたガー太は、ミーナが指さす方へとトコトコと歩いていった。
結局、ミーナはそれから一時間以上ガー太に乗ってはしゃぎ、最後は遊び疲れてガー太に乗ったまま寝てしまった。
余程楽しかったのだろう、幸せそうな彼女の顔が印象に残った。
ミーナはマーカスが背負って村まで送っていったが、レンは彼に伝言を頼んでおいた。
「マーカスさん。ついでといっては何ですが、もう一度、魔獣に注意するよう伝えておいて下さい」
実際に魔獣に襲われてから、レンはちゃんと危機感を持っていた。だから繰り返しになってしまう伝言も頼んだ。
本当のところをいえば村人たちのことはあまり心配していなかったのだが――レンはそこまでお人好しではなかった――ナバル親子のことは心配していた。
だがそれでも甘かったとレンが思い知らされるのはすぐ後、翌日のことだった。
翌日の昼前、レンがハンソンの授業を受けていると、いきなりマーカスが駆け込んできたのだ。
「レン様大変です! 村人たちが!」
あせった顔のマーカスの言葉を聞き、レンは村人たちが屋敷に殴り込んできたのかとあせったが、幸いそれは早とちりだった。
だがマーカスが告げたのは、ある意味それよりも悪い知らせだった。
「ナバルさんたちが魔獣の群れに襲われたそうです」
「なんだって!?」
思わず立ち上がったレンは、マーカスに詰め寄った。
「どこで? いや、それよりもナバルさんたちは無事ですか?」
レンの脳裏に昨日見たナバルの厳つい顔やミーナの笑顔が浮かんだ。
「そこまでは、まだわからないそうです」
マーカスが村人たちから聞いた話まとめると次の通りだ。
今朝早く、ナバルたちの一行は南の村を出て西一の村へと向かった。今日は早朝から曇り空で少し迷ったそうなのだが、予定通りに出発したそうだ。この時は特に異常は無かった。
だが昼前頃、ちょうど雨が降り出した頃だった。村に怪我をした男が必死の形相で駆け込んできたのだ。男はナバルに雇われていた村人の一人だった。
「魔獣の群れに襲われた」
という彼の言葉に、南の村は騒然となった。
「魔獣は十匹以上いた。俺はどうにか逃げ切れたけど、他の連中はどうなったかわからない」
この時のナバルは五人の村人を雇っていて、彼の家族を合わせた合計十人の集団で村を出た。
魔獣の群れに襲われて、村まで逃げてこられたのは彼一人だけ。ナバルたち家族や、他の村人たちの安否は不明だった。
男の話を聞いた住人たちは即座に行動に移った。
ナバルたちを襲った魔獣の群れは十体以上。これでは村人総出で助けに行っても、逆に殺されてしまうだろう。だから村人たちはナバルたちを助けに行くことをあきらめ、雨の中、全員で村を逃げ出してレンの屋敷に避難してきたのだ。
ぐずぐずしている余裕はなかった。ナバルたちを襲った魔獣の群れは、次に南の村を襲う可能性が高い。一刻も早く、少しでも安全な場所に避難する必要があった。
例外はたった一人。連絡役の男だけだ。
監視村では魔獣の出現に備え、連絡用の馬を一頭飼育している。連絡役の男はその馬に飛び乗り、急使として西へ向かっていた。彼は隣の貴族の領地へ駆け込み魔獣の出現を伝える。急報を聞いた貴族は、さらに隣の貴族へと急使を送り――というのを順番に繰り返し、オーバンス伯爵家の本家まで急報が届く手はずになっているのだ。
早々にナバルたちを見捨てるというのは非情の決断だが、それがここで生きる人々のルールだった。犠牲を最小限に抑えるためには、時には誰かを見捨てなければならない。次に見捨てられるのが自分かも知れないことも覚悟して生きているのだ。
レンはそんなマーカスの話を最後まで聞かず、途中で屋敷を飛び出していた。
「ガー太!」
槍を持ち、庭にいたガー太に飛び乗ると、まずは南の村を目指して駆けだした。
ガーガーに乗ったレンを見て村人たちが驚愕していたが、そんなことを気にしている余裕はない。マーカスが何か叫んでいたようだが、それも耳に入っていなかった。
少し前から降り出していた雨が、ちょうどこの頃から強くなった。
雨に打たれながら一気に南の村まで走ったレンは、誰もいない村の中を駆け抜け、そこから西へと向かう道を走った。
ナバルが西一の村へ向かう途中で襲われたなら、きっとこの道筋のどこかにいるはずだ。
ガー太は素晴らしい速さと持久力を発揮し、雨の中を疾走する。
レンの頭に浮かぶのは、厳つい顔のナバルと、ガー太に乗って楽しそうに笑っているミーナの姿だ。
無事でいてほしいと願いながら走ることおよそ15分。
突然ガー太が足を止めたかと思うと、道を外れ、少し離れた所にある小高い丘を目指して走り出した。
「どうしたんだガー太?」
「ガー」
ちょっと待ってとでもいうようにガー太が鳴く。
一刻でも早くナバルのところへとレンはあせるが、ガー太が無駄な寄り道をするとも思えず任せることにした。
丘の上まで登ったガー太は、
「クエーッ!」
ひときわ大きな声で鳴いた。レンが思わず耳をふさいでしまうほどの大声だった。
さらにもう一回、同じように大きな声で鳴くと、やることはやったとばかりに元の道へと走り出す。
「今のはなんだったの?」
「ガー」
すぐにわかるよ、とでもいうようにガー太が鳴いたので、レンはそれ以上聞かなかった。
実際、走り出してすぐにガー太の行動の意味がわかった。
レンたちのところへ、複数のガーガーが集まってきたのだ。
最初に現れたのは三羽のガーガーだった。三羽は進行方向右側から走ってきたのだが、最初にそれに気付いた時、レンは魔獣が近付いてきたのかと身構えてしまった。
だが雨の中を走り寄ってきたのは三羽のガーガーだった。
三羽のガーガーはレンたちに合流し、一緒になって走り始めた。
それからも次々とガーガーが現れ、どんどん数が増えていく。
「ガー太が呼んだのか?」
「ガー」
どうやらそうらしい。さっきの鳴き声で、ガーガーたちを呼び寄せたのだ。
ここ数日、ガーガーたちは姿を見せなかったというのに、ガー太が呼んだらやって来てくれたのだ。
しかも今レンが向かっている先には魔獣がいるはずなのに、ガーガーたちは逃げ出さず一緒にそこへ向かっている。
色々と疑問があるが、レンが一番疑問に思ったのは、ガー太はこのガーガーたちをどうして呼んだのか、だった。
まさか囮にするつもりだろうかとレンは思った。
ガーガーは太った見かけによらず足が速い。魔獣に追いかけられても逃げ切れる可能性は高い。
このままガーガーの集団で魔獣の群れに近付き、向こうが襲いかかってきたところでガーガーは逃げ出す。魔獣は逃げたガーガーを追っていき、レンたちはその場に残っているナバルたちを救出する。
そこまで上手くいくとは思えないが、それなりに上手くいきそうな気もした。
ガー太が集団の先頭を走り、その後ろをガーガーたちがついて行く。そうやって走ることさらに15分ほど。
雨音に混じり、かすかに獣の咆哮が聞こえた。
ガーガーの鳴き声ではない。もっと凶暴な獣の鳴き声だ。
そろそろ近いかとレンが思っていると、ついに目指すものを見つけた。
道の先に馬車が止まっているのが見えたのだ。ナバルの荷馬車に違いない。
さらに荷馬車の近くで動く人影も見えた。
雨が降っているせいではっきりとはわからないが、誰かが魔獣相手に戦っているようだ。
生存者がいる!
それがレンの闘志に火をつけた。
「いくぞガー太!」
「ガー!」
レンの言葉に応えるようにガー太が一気に加速し、その後ろにガーガーの群れが続く。
この時、集まったガーガーは三十羽を超えていたが、どのガーガーも逃げだそうとはせず、ガー太に続き一団となって魔獣の群れに突っ込んでいった。