第104話 拡大のしわ寄せ
マルコは運送業の拡大に奔走していたが、彼にとっても、レンやダークエルフたちにとっても、現在の本業はあくまで密輸である。
運送屋の方に資金をつぎ込めるのも本業が安定しているからであり、そちらの方をおろそかにはできない。
だからダークエルフたちは着々と密輸業務の改善に取り組んできた。
その中で一番大きな改善は、全行程で宿泊用の小屋が完成したことだろう。
密輸ルートに沿って、一日ごとに泊まれる小屋を建てたのだ。
レンがターベラス王国に行った時も利用したが、その時は途中までしか完成していなかったので、行程の真ん中あたりは野宿だった。
それが全て完成し、黒の大森林を移動中でも、毎日小屋で眠れるようになったのだ。
小さくて簡素な小屋だったが、森の中で野宿するのと屋根があるのとでは全然違う。密輸に従事する商隊にとって、体力面でも安全面でも大きな改善となった。
またその商隊も現在は二つに増えた。
ずっと商隊のリーダーだったゼルドを、シャドウズのリーダーとして引き抜いた時は、大丈夫だろうかと心配したレンだったが、それ以降も特に大きな問題は起こっていない。
ちゃんと人材が育っていた、ということだろう。
そして訓練を終えたダークエルフたちが新たに加わり、商隊を二つに増やすことができた。
今はこの二つの商隊が黒の大森林を行き来しているが、これで終わりではない。
新人ダークエルフたちの訓練は続いており、もっと商隊を増やす予定だった。
それだけの需要があったからである。
マルコは密輸の儲けを次の取引につぎ込み、その次の取引で増えた儲けをさらに次の取引につぎ込み――といったやり方で一回ごとに取引量を増やしていた。商売は拡大しながらよい方向に回っていた。
さらにマルコの取引相手のラフマンも、より積極的に密輸に関与するようになってきた。
これまでラフマンは持ち込まれた商品を買い取っていただけだったが、今年に入ってから、自ら金を出して買い付けするようになった。
ラフマンが積極的になったのは、レンとヴァイセン伯爵の信頼関係が強くなったのが理由だった。
ロッシュの戦いの一件で、ヴァイセン伯爵はレンのことを強く信頼するようになった。ラフマンはそれを知り、これなら大丈夫そうだ、と判断したのだ。両者の関係がよくなれば、当然、密輸も続くことになる。
ヴァイセン伯爵が認めているのなら、恐れるものは何もない。
ダークエルフたちはラフマンとも契約を交わし――やはりレンが取引の安全を保証する、と一筆書くことになったが――それで密輸の量はさらに増えることとなった。
現在、宿泊小屋の建設を終えたダークエルフたちは、今度は道の整備に乗り出している。
草木を刈ったり、地面を踏み固めたりして、簡易だが黒の大森林の中を通る道を造ろうとしている。これが完成すれば、さらに密輸がやりやすくなるだろう。
このように密輸は順調に行われていたが、問題もあった。
一番の問題は犠牲者が出ていることだ。
この一月から三月の間だけでも、商隊や小屋の建設で五人の犠牲者が出ている。
いずれも魔獣に襲われてのことで、負傷者はさらに多い。
もしこれが現代日本なら、月に一人か二人の死者が出るような仕事は、即座に中止になるだろう。だがダークエルフたちはこの犠牲を当たり前のことと受け止め、むしろ少ないぐらいだと喜んでいるほどだ。
元々、黒の大森林にある集落は危険だった。レンが来る前から、狩猟などで多くの犠牲者が出ていたのだ。
昔は単独行動する者も多かったが、今は基本的に単独行動は禁止して、どんな仕事も三人組とか五人組とかで行うようにしている。密輸の儲けで食糧事情が改善し、集落の人口が増えたおかげだった。それだけ人数に余裕ができていた。
これで魔獣に遭遇しても有利に戦うことができるようになり、以前と比べて危険度は大きく下がっている。
それでも犠牲者が出るのは、魔獣に不意打ちを受けたりするからだ。また人口が増えて活動する人数も増えたため、魔獣と遭遇する回数も増えていた。危険度が下がっても、回数が増えれば、犠牲者の数は増える場合もある。
レンもどうにかしたいと思ってはいたが、魔獣が棲む黒の大森林で活動している以上、どうしようもないところがあった。
また魔獣がらみではもう一つ気になることがあった。
二月頃のことだが、商隊が黒の大森林を抜ける途中で、魔獣の群れに遭遇したことがあった。
幸い、この時はダークエルフたちの方が先に魔獣に気付いたため、身を潜めて上手くやり過ごすことができた。だがもし魔獣の群れに気付かれていたら、商隊はそこで全滅していただろう。
大きな問題こそ起こっていないものの、密輸が危険であることに変わりはなく、気を抜くわけにはいかなかった。
以前、集落が魔獣の群れに襲われたように、いつかまた魔獣の群れの襲撃があるだろう。
その時に備えるためにも、密輸で儲けた金で、よりよい武器や防具の購入も行っている。魔獣への備えは常に必要だった。
その他には密輸関連というか、仕事全般で大きく変わったことがあった。
「レン様。集計が終わったので持ってきました」
「ありがとう」
リゲルが持ってきた獣皮紙を受け取る。
そこに書かれていたのは、今回の密輸の収支報告だった。
これまで密輸などのお金の計算は全てレンが一人でやっていたのだが、今ではリゲルを中心としたダークエルフの子供たちが行っている。
算数を勉強した子供たちが、そろばん片手に計算しているのだ。
特にリゲルの計算能力は高く、今では四則演算のスピードも正確さもレンを圧倒的に越えていた。だから数字関係の仕事は全てリゲルたちに任せて、レンは確認だけしていた。
この世界はまだまだ教育水準が低く、人間でも簡単な計算ができない者が多い。そんな中で身につけた計算能力は、ダークエルフたちの子供たちにとって、将来の大きな武器になるだろうと思っている。
だがその数はまだ少ない。屋敷の子供たちの数は増えたとはいえ、ダークエルフ全体から見れば、まだわずかだ。レンは将来的に全てのダークエルフに基本的な教育を受けさせたいと思っていた。目指すは日本の義務教育である。
この異世界に来て実感したのが、日本の教育水準の高さだった。日本では、国民のほとんどが読み書きや計算ができて当たり前だった。だがそれが当たり前なのがどれほどすごいことか。
道のりは遠いが、いずれはそれがダークエルフにとっても当たり前になるようにしたかった。
「それとレン様。紙なんですけど……」
「もうなくなった?」
「いえ、まだあります。でも本当にあんな風に無駄遣いしていいのかなって」
「勉強に使ってるんだから、無駄遣いじゃないよ」
しばらく前にレンは紙を大量購入した。密輸の儲けのいくらかを、紙代に使ったのだ。
ちなみに紙といっても、レンが前世で使っていたような木から作った紙ではなく、獣皮紙と呼ばれる紙だ。この世界にはすでに紙もあるらしいのだが、この国では獣皮紙が主流だった。
獣皮紙を大量に購入したのは、子供たちの勉強に使うためだった。
「どんどん書いて使っていいよ」
そう言って子供たちに渡したのである。レンにとって勉強というのは、やはり書いて覚えるものだったから、ダークエルフの子供たちにもたくさん書いてもらおうと思ったのだ。
だがこの世界では紙はまだまだ高価な品で、獣皮紙の値段も高かった。ダークエルフの子供たちもそれをよく知っていた。
また元の世界でもそうだったが、文字を書くだけなら、他にもっと安価な代替品も存在していた。
ハンソンから教えてもらったのだが、この世界にも黒板と似たような品があるらしい。そういう物は獣皮紙よりもかなり安いので、まずはそれを使ってみては? とハンソンから言われたりもしたのだが、レンは紙にこだわった。
勉強するならやっぱり紙を使うべきだろう、というのはおそらく前世の経験から来る思い込みだろう。勉強といえば紙のノート、というわけだ。
幸いお金には多少の余裕ができていたので、レンはその思い込みを押し通すことができた。
だがリゲルだけでなく、ロゼやディアナ、それに他の子供たちも、獣皮紙が高価だと知っているので、
「本当に使っていいの?」
とまだ疑問に思っているようだ。
だからレンは、どんどん書いていこうと繰り返し言っていた。
「もちろん無駄遣いはダメだよ。でも勉強に使うのは無駄遣いじゃないから」
必要な未来への投資だ、とレンは思っていた。
投資といえば、マルコの運送業への投資も続いていた。
この投資にはダークエルフのお金も入っている。
ダークエルフは密輸の儲けで、まず食料を買い込んだ。このおかげで集落の人口も増やすことができたのだが、その増えた者の分まで含めて、当面の食糧は確保できた。
そこで考えたのが、次のお金の使い道である。
勉強用の紙を買ったり、武器を買ったりもしているが、それでも全額は使い切っておらず、かといって眠らせておくのももったいない――ということで当面使う予定のないお金は、全てマルコに低利子で貸し付けることにした。
運転資金が増えるのはマルコにとっても大歓迎だったので、彼は喜んでお金を借りて、それを密輸や運送業につぎ込んでいる。
事務仕事ができる人間を何人か雇い、仕事の態勢を強化したマルコは、そこからさらに運送業の拡大に乗り出した。
荷馬車もどんどん増やしていって、今は十台になった。運用しているのは全員がダークエルフだ。
ここまで急拡大して本当に大丈夫だろうか、とマルコは不安に思うこともあった。
仕事量に関してではない。
人や物を運んでほしいという依頼は依然多くあり、十台の荷馬車でも捌き切れていない。もっと増やしても大丈夫だろう。
マルコが不安に思っていたのは、雇っているダークエルフたちについてだ。彼はレンと違ってダークエルフを信用していない。しかも短期間で人数を大きく増やしたわけで、たちの悪いダークエルフが紛れ込んだりしないだろうか、と心配していた。
これまで運送業が発展してこなかったのも、信用できる人間の確保が難しい、という点が大きかったからだ。マルコはそれをダークエルフを雇うことでクリアしたわけだが、本当にクリアできたのかどうか、まだわからない。
安易に人を増やせば質が下がる、というのはどこの世界でも同じだった。
今のところ、ダークエルフたちは皆まじめに働いているようだが、最初はまじめそうに見えても、慣れてきたら態度が変わるというのもよくある話だ。
だがそのような不安を、マルコはあまり考えないようにしていた。
ダークエルフが何か問題を起こせば、それは紹介してくれたレンの責任だ――そのように割り切ることにしたのだ。
それで直接的な被害を受けるのはマルコだが、レンに一つ貸しを作ることになると考えれば、悪くないと考えていた。
今のところ仕事は順調なので、他に大きな問題はない、とマルコは思っていた。
だが彼の気付いていないところで、大きな問題が発生しつつあった。
短期間で運送屋の仕事は大きく拡大したのだが、それによって仕事を奪われた者たちがいたのだ。
これまで荷馬車の護衛を請け負ってきた傭兵たちだった。
傭兵たちの中には、これまでの仕事で高い信頼を得ていた者たちもいて、そういう者たちは今まで通りの仕事を継続できた者が多かった。だがあまり信頼されていない傭兵――仕事ぶりや素行が悪かった者たちはすぐに仕事を失うことになった。
これまで自前で荷馬車を用意し、彼らを雇っていた商人たちが、こぞって仕事をマルコに切り替え始めたからだ。
商人たちにしてみれば、傭兵たちの今までの行いが悪かったからで、それは自業自得だということになる。
だが仕事を失った方は、それで納得できるわけがない。
また中には具体的に「四月から、あそこの街まで行ってくれ」と話が決まっていたのに、
「悪いがあの話はなくなった」
といきなり仕事をなかったことにされた傭兵もいた。
そういう者たちは当然不満を募らせる。そして傭兵には元からの荒くれ者も多い。暴力や犯罪などへの忌避感がないのだ。
だから恨みに思った傭兵たちの中から、直接的な復讐に出ようとする者が現れるのも、当然の成り行きといえた。