第100話 売り時
レンがこの世界に転生してきたのは、今から二年前の三月中旬だった。
残念ながら正確な日付はわからないというか、覚えていない。
きっちり日付を記録していなかったから、今ではもうわからなくなってしまった。
今は四月だから、二年たったことは確実だが。
ちなみに今年は西方歴八百八十二年になる。
この西方歴というのは、かつてこの大陸西方のほとんどを統一したラム帝国という国で発明された暦だ。ラム帝国はすでに滅んだが、西方歴は残り、今ではここグラウデン王国を始め、大陸西方諸国の共通歴として使用されている。
二年の間に誕生日も二回迎え、転生時に十七才だったレンは十九才になった。
大柄で、鍛え上げられた肉体の堂々たる若者である。
特に筋トレとかはしていないのだが、ガー太に乗っているだけで、全身の筋肉が鍛え上げられたようだ。最初の頃は、乗るたびに筋肉痛になっていたことを思い出す。
鍛え上げられた肉体は、自分で見てもほれぼれするぐらいで、ちょっとナルシストの気持ちがわかったレンである。
この二年間には色々とあった。まさに激動の二年といってよかったが、ここ三ヶ月ほどは落ち着いていた。
ターベラス王国から帰ってきたのが今年の一月だか、それからはシャドウズの創設があったぐらいで、レンは遠出することもなく、ずっと屋敷にいた。
ガー太に乗って散歩に出かけても日帰りで、黒の大森林の集落にも行っていない。
寒いのであまり外出する気にならなかったのだ。
毎日、ダークエルフの子供たちに勉強を教えながら、のんびり温泉に入る生活を送っていた。
だが、レンがゆっくりしている間にも世間では大きな動きがあった。
昨年、レンも参戦したロッシュの街での戦いだが、あの戦いを含め、魔群を巡る一連の動きは、周辺各国に大きな影響を与えていた。
魔群に襲撃されたターベラス王国、ザウス帝国の両国は、直接的な被害を始めとして大きな被害を受けた。そしてその影響は、周辺諸国にも及んでいた。
出現場所が、両国の国境となっているルベル川だったからだ。
場所が場所だけに、魔群との戦いだけでなく、それが引き金となって国同士の紛争が起きる恐れもあったのだ。
それは各国の経済にも大きな影響を与えた。
魔群によって川を渡ることができなくなり、二国間の物の流れが止まったからだった。そのためターベラス王国を経由してザウス帝国に入ってきていた、大陸中央方面からの輸入品などもストップしてしまった。逆も同じで、ターベラス王国にはザウス帝国以西の品が入ってこなくなった。
これが短期間なら問題ないのだが、当初は魔群がいつ退治されるかもわからず、事態の長期化を予想した者が多かった。
当事者の二国、そして周辺諸国の商人たちの多くも、この事態が長期化すると予想し、活発に動いていた。
どこの世界のどんな時代であっても、大きな戦いは大量の金を動かす。
具体的には、品薄、値段の高騰を見越し、商人たちは交易品を買い占め、売るのを控えるようになった。これによって輸入品の値段が一気に高騰した。
この情報は、やがてレンが暮らすグラウデン王国にも伝わった。
情報伝達手段が発展していないこの世界では、情報が伝わるのに時間がかかる。しかもザウス帝国とグラウデン王国の間にはガスパル山脈があった。ここは黒の大森林ほどではないが、魔獣の多い危険地帯として知られており、人の行き来はほとんどない。
このため情報の伝達には余計に時間がかかった。
ルベル川はザウス帝国の東部だが、ここで起こった事件の情報は、まず帝国の西部まで伝わり、そこからグラウデン王国へ伝わってくる。このルートだと、情報が伝わるまでには、早くても二ヶ月近くかかるし、どうしても最初はあやふやな情報になってしまう。
グラウデン王国に伝わった話も、最初は帝国の東部のどこかで魔群が出たらしい、といったぐらいのうわさ話だった。
しかしこんなうわさ話だけでも、動いた商人はいた。もし本当なら大きな儲け話になるかもしれないと思い、彼らは賭けに出たのだ。
やがて詳しい続報も入ってきた。
ルベル川に千体を超える魔群が現れたそうだ――それがどうやら正しいとわかると、グラウデン王国でもザウス帝国と同じことが起こった。商人たちが、輸入品の買い占めや売り控えに走ったのだ。
マルコもその一人だった。
最初に情報を聞いたのは、他の商人たちと同じような頃だった。
彼は巡回商人の仕事を他人に任せた後、王国東部のジャガルの街を中心に、営業活動などで色々と動き回っていた。そんな中でうわさ話として聞いたのだ。
「ザウス帝国の東部で、魔獣の群れが出たらしい。それもかなりの数のようだ」
そんな話を聞いたマルコだが、当初は特になにもしなかった。他の多くの商人と同じく、まずは真偽を見極めてから、と思ったのだ。
しかしその後、詳しいことがわかってくると、マルコは大喜びした。
ルベル川に魔群が出て、両国の交易が止まる――素晴らしい! と彼は思った。
なぜなら彼はルベル川を経由しない秘密のルートを持っていたからだ。ダークエルフたちによる、黒の大森林を抜ける密輸である。
正規のルートが止まり、商品の値段が上がっていくなら、それは彼の儲けにつながる。
マルコは手元にあった密輸品の売却を止め、値上がりを待つことにした。すると予想通り、商品の値段はどんどん上がっていった。
できるだけ長く魔群が暴れてくれることをマルコは願っていた。その分、彼の儲けが大きくなるからだ。
魔群のせいで苦しむ人がいる、なんてことは考えないようにしていた。
だが年が明けてしばらくすると、そんなマルコを驚愕させる情報が飛び込んできた。
「ロッシュの街で魔群を打ち破った!?」
最初にその話を聞いた時、マルコは思わず大声を上げていた。
「それは本当なのか?」
情報をもたらしてくれた相手に確認する。
「間違いありません。領主様がそうおっしゃっていました」
答えたのはダークエルフである。
この情報の出所は、ターベラス王国から帰ってきたレンだった。
マルコは密輸を行っているダークエルフたちに、何かターベラス王国の情報がわかれば教えてほしいと頼んでいた。
帰ってきたレンはその話を聞き、魔群を撃破したということをマルコに伝えたのだ。
ただ、レンはターベラス王国のヴァイセン伯爵に会いに行くことを、マルコに伝えていなかった。そのため自分が実際に見てきたとはいわず、あくまでダークエルフたちが聞いた情報としてマルコへと伝えた。
レンの方もマルコが商品を売るのを止めているとは知らず、親切心でそれを伝えただけだったが、これがマルコを助ける結果となった。
レンからの情報をマルコが聞いたのは、一月中旬ぐらいのことだった。
ロッシュの街の戦いがあったのは、昨年の十二月の頭だった。普通のルートで情報が伝わるのに二ヶ月かかるとすると、その情報が入ってくるのは二月頃になる。マルコはレンのおかげで、半月早くその情報を手に入れることができたのだ。
しかしそれを聞いたマルコは、まず疑った。
「本当なのか?」
と何度も確認したりした。
彼がそれほど疑ったのは、この頃には魔群の情報がかなり詳しく伝わっていたからだ。
千体を超える魔群を相手に、ザウス帝国もターベラス王国も、お見合いするような形で手を出さず、魔群が放置状態にあることを知っていた。
だから多くの者が、この状況は長期化すると思っていたし、マルコもそう思っていた。
そんな状況で本当に魔群を倒したのだろうか?
というマルコの疑問の中には、間違いであってほしいという願望も混じっていた。その方が彼の儲けが大きくなるからだ。
悩んだマルコだったが、結局、その情報を信じて手持ちの商品を全て売ることにした。
もし情報が本当だったなら、取り返しのつかないことになると思ったからだ。
そしてそれから半月ほどして、ロッシュの街の大勝利は、驚きのニュースとしてグラウデン王国にも伝わってきた。
それを聞いてマルコは胸をなで下ろした。
勝利の一報が入ると、それまで高騰していた輸入品の価格が、一気に暴落したからだ。
つまりバブルがはじけたのである。
長期化を予想し、品物を高値で買い集めていた商人の中には、大損して破産する者もいた。グラウデン王国だけでなく、その周辺国も含めて、被害を受けた商人は多かった。
一方、マルコはその事態に備えていた。
商品の価格は暴落したが、その中には通常の相場よりも安くなった物も多かった。パニックになって投げ売りした結果、適正価格よりも安くなったのだ。
マルコはそんな商品を底値で買いあさった。
落ち着きを取り戻せば、元の価格に戻るだろう、との読みだった。
その読みは正しく、やがて価格が元に戻った頃、マルコはそれらを売ってさらに儲けることになる。
予定を早めることができそうだ、とマルコは思った。
マルコはレンと話し合い、新しい仕事の準備を進めていた。今回の事件で、マルコの利益はかなりの額になったが、それを次の仕事の元手に使うつもりだった。