第96話 夜の影
深夜の暗闇の中を、十人ほどの人影が移動していた。
今日は月が出ていないので、周囲は真っ暗だった。その闇の中を、彼らは音を殺しつつ、可能な限り素早く移動する。
先頭の人影が、サッと右手を横に上げて停止した。
止まれの合図だった。
後ろに続いていた者たちも、その場で止まって身をかがめた。
彼らは全員が黒い衣装を身につけていた。そして露出している肌も黒い。全員がダークエルフだった。
目標の屋敷まで百メートルといったところか。
リーダーらしき先頭のダークエルフが、暗闇にぼんやりと浮かび上がる屋敷までの距離を見積もる。
ここからは慎重に行かなければならない。
「ガー太様はどこだ?」
「右方向です。眠っておられるようです」
ダークエルフの問いに別のダークエルフが答える。
彼は言われた通りに屋敷の右方向を見た。
いた。屋敷から少し離れた所で一羽のガーガーが丸くなって寝ている。ガー太様に違いない。
彼はガー太のカンが鋭いことをよく知っていたので、すぐに視線を動かした。ジッと見ていると気付かれる恐れがあった。
風向きを調べ、こちらが風下であることを確認する。
ついていると思った。
あれだけの距離があれば、回り込んで屋敷に近付いていけば、ガー太様といえど、こちらに気付かないだろう――彼はそう判断して、向かって左側に移動しながら屋敷へと近付いていく。
屋敷の近くには温泉が湧き出していて、しかもそれが滝となって流れ落ちている。
それほど大きな音ではないが、静かな夜は滝の音がよく響き、彼らの足音を消すのに役立ってくれた。
目的の屋敷には塀などはない。時間をかけて移動した彼らは、誰にも気付かれることなく、屋敷の一階にある窓の下までたどり着いた。
ここまでは順調だったが、ここから先も気が抜けない。
屋敷の中には多数のダークエルフがいる。しかも特にやっかいなのが一人。細心の注意を払って行動しなければならない。
ここの窓は両開きの木の窓だったが、鍵はかかっていなかった。それをダークエルフの一人が、音を立てないように開く。
手慣れた動きは、これまでの訓練の賜物だった。
リーダーのダークエルフが、手を動かして指示する。
彼らは無言で行動できるように、簡単な指示を伝える手信号も訓練していた。
今回の指示は「まずお前が中に入って、周囲の安全を確認しろ」だった。
指名された一人が、窓からスルリと建物の中に入った。
入った場所は廊下だった。左右に人影がないことを確認し、仲間を招き入れる。
中に入った彼らは、一団となって廊下を進む。
屋敷の間取りは頭に入っていた。
今回の目的は、屋敷の一室に置かれている、とある物を盗み出すことだ。
この先の角を右に曲がればあと少し――そう思ったところで、その角の影から小柄な人影がふらりと現れた。
相手の気配に全く気付かなかったことに驚きつつも、彼らは素早く動いていた。
正面から一人、左右から一人ずつの合計三人が、その小柄な人影を無力化しようと襲いかかった。
だが相手もまた動いていた。
小柄な人影は、正面からきた相手に、自分から突っ込んでいった。
体当たりは単純だが回避しづらい。
そのまま両者は激突し、はじき飛ばされたのはダークエルフの方だった。
その勢いは強く、後ろにいた一人が抱き止めようとしたが止めきれず、慌ててもう一人が支えに入った。
正面の一人がやられても、まだ左右の二人が残っていた。
彼らは横からその人影に飛びつき、それぞれが左右の腕をとって押さえ込もうとしたのが、相手は逆に彼らの服をつかむと、力任せに腕を振った。
まず右腕で一人を壁に向かって投げ飛ばし、次に左腕でつかんだ相手も壁に向かって投げつける。
片腕だというのにものすごい力で、腕をつかんでいたダークエルフ二人は簡単に投げられてしまった。
壁に激突した二人が、ウッといううめき声を上げて崩れ落ちる。
小柄な人影は、さらに残ったダークエルフたちに襲いかかろうとしたが、
「待て赤い目! ここまでだ」
ダークエルフたちのリーダーが、右手を上げて制止した。
「えー」
小柄な人影――カエデは不満そうな声を上げつつも、ピタリと動きを止めた。
屋敷の中は暗いので、ダークエルフたちにもカエデの顔は見えない。だが片手で大人のダークエルフを投げ飛ばすなど、そんなことができるのは赤い目であるカエデだけだった。
「もう戦わないの?」
「今晩の訓練はここまでだ」
ダークエルフたちは、倒れた仲間を助け起こして、この場から立ち去ろうとしたが、最後に足を止めてカエデに聞いた。
「どうして我々が入ってきたことに気付いた?」
カエデがいつも領主様と一緒に寝ているのは知っていた。だがその部屋はここから遠い、というかできるだけ離れた場所にある窓を選んで侵入したのだ。いくらなんでも物音は聞こえないはずだった。
「んー、なんとなく?」
カエデの答えを聞いて、リーダーのダークエルフは嘆息した。
理屈抜きのカンというわけだ。そしてそういうものこそやっかいなのだ。
ダークエルフたちは入ってきた窓から出て行き、カエデもレンの部屋に戻ってもう一度寝ることにした。
全ては短い間の出来事で、他に気付いた者はいなかった。
翌朝。レンのところに一人のダークエルフが報告にやってきた。
「申し訳ありません領主様。昨夜の訓練に失敗しました」
報告にやってきたのは、レンの見知った相手、ゼルドだった。
ベテランの狩人であり、商隊のリーダーを務めていた彼は、今は別の仕事に就いていた。
「昨日の夜に来たんですよね? 僕は全然気付きませんでした」
昨夜屋敷に侵入したダークエルフたち、そのリーダーがゼルドだった。
「ですが赤い目に気付かれました。訓練は失敗です」
「でもガー太には気付かれなかったんですよね? 着実に技量は向上してると思いますけど」
「そう言っていただけると助かります」
彼らが屋敷に忍び込もうとしたのは昨夜が初めてではなかった。
すでに昨夜で八回目だった。
五回目まではガー太に見つかって、屋敷までたどり着けなかった。
レンがガー太に、
「夜に屋敷に近付こうとするダークエルフの集団がいたら、追い払ってくれ」
と頼んでいたら、見事に追い払ってくれた。
六回目で初めて屋敷にたどり着いたが、その時もカエデに気付かれ失敗。
七回目はまたもガー太に気付かれ失敗し、昨夜の八回目はカエデに気付かれて失敗した。
「もしガー太もカエデもいなかったら、とっくに成功してるんじゃないですか?」
「そうかもしれませんが、ガー太様と赤い目がいる状態で成功させろ、と命じられていますので」
ガー太もカエデも、気配を察知する能力は尋常ではない。
ゼルドはベテランの狩人だから、気配を消して獲物に近付くのには慣れていた。他の者たちも、ちゃんと気配を消しているのだが、それでもあっさりと気付かれてしまう。
だがゼルドたちにも有利な点があった。それはガー太やカエデが、特に敵意や殺意に敏感だったことだ。ゼルドたちは別に悪意を持って忍び込もうとしているわけではないので、気付かれにくくなっている。
もしレンに悪意を抱いて近付いたなら、きっとガー太はその接近を見逃さないだろう。
彼らがガー太に気付かれることなく、屋敷の中に入れたのは昨夜で二回目だ。
ガー太はいつも屋敷の近くで適当に寝ているのだが、昨夜も、前回に成功したときも、ガー太は屋敷から少し離れた所で寝ていた。だから彼らは気付かれず屋敷まで近づけた。
ガー太がどこで寝るかは運になるが、どれぐらい離れていれば気付かれないか、ゼルドたちにもわかるようになってきた。
問題はカエデの方だった。
レンはガー太と同じように、カエデにも、
「もし夜に屋敷に忍び込んでくるダークエルフに気付いたら、屋敷から追い出してほしい。でも練習だから、武器を使っちゃダメだよ」
と頼んでおいた。
昨夜もカエデはぐっすり寝ていたはずだが、侵入者に気付いて起きると、レンの頼み事をちゃんと果たしてくれた。
一緒に寝ていたレンは、彼女が起きて戻ってきたことに全然気付かなかったが。
この一羽と一人に気付かれないように、屋敷に忍び込むというのはかなりの難易度だが、それでこそ訓練になるのでは? と提案したのは、他でもないレンだった。
「まあシャドウズが作られて、まだ三ヶ月ぐらいですよね? まだまだこれからだと思うんで、もっと訓練していきましょう」
「はい。もっと技量を向上させるように努力します」
シャドウズ。
それが昨夜、レンの屋敷に侵入しようとしたダークエルフたちの部隊名だった。
シャドウズはダークエルフによる特殊部隊だった。創設を提案したのはレンというか、レンの思い付きから始まったのだが、言い出したレンも特殊部隊について詳しいわけではなかった。
ゲームやアニメといったオタク向けの作品には、実在するものや架空のものなど、様々な特殊部隊が登場するので、名前だけは色々と知っていた。だが軍オタというわけではなかったので、本物の特殊部隊の詳しい定義や作戦内容などは知らない。
人質奪還などの、特殊な任務を行う精鋭部隊、というのがレンがイメージする特殊部隊で、そのイメージで特殊部隊という言葉を使っている。
シャドウズという名前をつけたのもレンだった。
言葉はそのまま元の世界の英語で、ダークエルフたちには遠い異国の言葉で、影たち、あるいは影の軍団だという意味だと説明した。もちろんその名前の有名時代劇は知っていた。
ちなみに元の世界には、そのまんまシャドウズというバンドもあったのだが、そちらについては全く知らなかった。
本人はちょっと中二病っぽいかなとも思っていたが、それがいいと思っていた。どうせこの世界には、元の世界の言葉をわかる者などいないのだから。
シャドウズ創設の発端は三ヶ月ほど前。レンがターベラス王国から戻ってきた直後のことだった。