Air
グルメライターである坂井は、常に全国各地を飛び回っている。そんな坂井だが、珍しく数日取材の予定がないという。それを聞いた長岡がとった行動は、まず自分のスケジュールと原稿の進捗確認だった。基本的に長岡は書く速度が速い。余裕を持って動きたいという希望から緩めのスケジュールを常に森野と共に組んでいるが、ちょうど今取り掛かっている作品が、以前書いた長編のスピンオフだった。作品の世界観も、キャラクターも固まっていることから普段以上に筆が進み、長岡としてもノっていると言い切れるほど順調だった。そんな自分の状況を鑑み、長岡は自主的に休みを取ることに決めた。ワーカホリック気質のため休むよりも仕事をしている方が性に合っていると豪語する長岡も、今回ばかりは迷いがなかった。
「これ、」
「衝動買い。だったんだけど、うん、やっぱり似合う。」
今日と明日は書きません。そんなメールを長岡が森野にメールを送ってから数時間。原稿作業中の長岡に差し入れと言って坂井が持ち込んだお菓子やら紅茶の茶葉やら酒やらと、雑多ながら長岡に暗に食事を取れと言わんばかりの荷物を一通り広げてからのこと。坂井がおもむろに取り出したのは一着のワンピースだった。ドレスワンピースとまではいかないが、品のいいデザインと生地の上質さから値の張るものであろうことは一目でわかる。突然のことで驚きに言葉を失う長岡の肩にワンピースを合わせ、坂井は満足げに頷いてみせた。
「こないだショッピングモールで取材しててね。空き時間に歩いてたら見つけたんだよね。ルイちゃんに似合いそうだなって思って、うっかり買ってきちゃった。」
「こんな素敵な…、」
オロオロと動揺を隠せないでいる長岡に、坂井は唇の端で小さく笑う。驚くだろうことは織り込み済みだ。けれどそのリアクションを置いておいても、どうしても坂井は長岡にそのワンピースを着せたかった。それを着て自分の隣で微笑む長岡の姿が一目で浮かんだのだ。予想外のプレゼントにリアクションを返せずにいる長岡を見つめて、坂井はふわりと微笑む。
「気に入らなかった?」
「そんなこと!そんなことないです!…ただ、」
「気に入ったなら、受け取ってほしい。俺さ、これ着てるルイちゃんと行ってみたいお店があるんだ。一目見て思ったの。これはルイちゃんに絶対似合うって。」
どう?と顔を覗き込む坂井に逃げ道を全て塞がれて、長岡は思わずといったように顔を両手で覆った。だが嫌がっているわけではない。その証拠に、長岡の両耳が赤く染まっているのが髪の隙間から覗いていた。
「考えてみたらさ、形に残るプレゼントってなかなかあげられてないなって気づいたちゃって。」
言いながら、坂井はそっと長岡の白い手を取る。夏も近いというのに原稿作業で引きこもっている長岡の肌は日焼けも知らないように透き通る白さだ。あまり装飾品をつけない長岡だが、その細い指には一本だけ指輪がはまっている。付き合いだしてすぐの頃、坂井が長岡に贈ったものだ。お互い仕事が大切で、かつ、不規則な生活を送っている。付き合うことになってもなかなか時間は取りづらいだろうことに思い至った坂井が、それでも繋がりが欲しいと坂井自身若干女々しいと思いながら長岡に贈った最初のプレゼント。思い起こせばそれを渡した時も、長岡はオロオロと照れていたことをふっと思い出す。
「この指輪くらいだよね。だから、ルイちゃんが身につけられるもので何かないかなって思っててさ。そしたら見つけたから、これだ!って。」
細い指にはまる指輪を撫でる坂井の指にも、同じデザインの指輪がはまっている。プレゼントしてからしばらくして、お揃いだと気づいた長岡は恥ずかしそうに、それでも至極嬉しそうに頬を緩めていた。訥々と突然のプレゼントの理由を話しながら指輪を撫でる坂井の指に、長岡はそっと指を絡める。驚いて坂井が指輪に落としていた視線を上げる。目が合った長岡は、まるで指輪を贈ったときのように柔らかく微笑んでいた。
「…嬉しい。」
ぽつりと溢れた囁きは、長岡の心からのものである証拠のように、甘い響きを伴っていた。絡ませた指に、きゅっと力を込めながら、お互いの指輪に視線を落とす長岡の頬には、長い睫毛が影を作っている。微笑んで愛しげな視線を指輪に向ける長岡の表情に坂井は胸の内がぐっと熱くなるのを感じた。いい加減付き合いだして三年近く経つが、時折長岡が見せる、愛情を包み隠さない表情に坂井は慣れずにいた。普段が甘い空気一つで照れてしまうほどの初心な長岡が相手だからかもしれない。
「…良かった。」
「え?」
「喜んでくれて良かった。」
「…ふふ、喜ぶに決まってるじゃないですか。」
指を絡ませたまま、二人はお互いの肩にもたれかかる。坂井が行きたいという店にいつ行こうか予定を立てるものの、予約が必須の店なために、近日中とはいかなそうだった。それはそれで、お互いに締め切り明けのご褒美にちょうどいいかと気持ちを切り替え、長岡の締め切り明けの日程を見繕ってすぐさま予約を入れた。しばらく先の予約ではあるものの、楽しみが先にあるというのはそれだけで普段のモチベーションが変わる。二人は顔を見合わせて、笑いあった。
そんな幸せな時間からひと月ほど経った頃。坂井と長岡はまたしてもなかなか連絡がとりづらい状況に陥っていた。締め切り目前のラストスパートと息巻いていたところで、長岡が体調を崩し、数日寝込んでしまったのだ。ちょうど原稿の進捗をやり取りしていた森野によって病院に担ぎ込まれた長岡は、単なる風邪ではあったものの疲労が祟り点滴を受けることになった。自業自得といえばそこまでだが、デビュー以来一度も体調を崩したことがなかったことがいかに快挙であったかがうかがえた。
「…愛さん、すみません。」
「んー?大丈夫だよ。なあちゃんは頑張りすぎなんだから。ちょっと休みなよ。」
「でも、締め切り。」
「まだ日はあるでしょ?大丈夫。むしろしっかり休まないと本当に原稿落としちゃうよ。」
「…はい。」
ベテラン編集者の一言は重い。今多少無理をしてでも原稿を進めたいという作家の気持ちは、勿論森野も重々理解している。だが完治していない状態で原稿を進めても効率は悪く、また、体調不良を結果的に引きずることになる。それでは意味がない。今はゆっくり休んで、とベッドに沈み込む長岡の髪を森野は優しく梳いてやった。他人の体温が心地よいのか、長岡はふっと目を細めて森野の指先を甘受する。
「あ、坂井くんには言ったの?連絡する?」
森野からすればごく自然な提案だった。自分よりも長岡の傍に付いているべき人間がいる。ならば連絡を取らねばとスマートフォンをポケットから取り出そうとしたのだが、意外なことに長岡によってそれは阻まれた。少しだけ切羽詰まったような声音で。
「坂井さんには、言わないでください。」
「…どうして?」
「…どうしても。お願いします。」
長岡は決して理由を言わなかった。男の目線から見れば、そして坂井の性格を鑑みれば伝えたほうがいいのは一目瞭然だった。だが長岡が伝えて欲しくない理由を明かさない以上、森野も勝手には動けない。わかった、言わないでおく。そう約束してやれば、長岡はやっと安心したように微笑んだ。
「じゃあ、帰るけど。なあちゃんはしっかり休むんだよ。わかった?」
「はい。分かりました。」
森野の言葉が正論だと飲み込んで、長岡はおとなしく睡眠をとることに決めたらしい。肩までしっかりと布団にくるまる長岡を見て、安心して森野は長岡のマンションを出る。長岡が体調を崩したことを坂井に伝えないと約束してしまった以上、編集部や黒田にも伝えてはいけない。もっとも編集部には長岡が入院という騒ぎにでもならない限りは伝えないつもりでいたため問題はなかった。
「…心配だなあ。」
はあ、と重たく吐き出されたため息は、長岡の体調に対してだけではなかった。森野はまるで面倒ごとから逃れるようにそそくさと長岡のマンションを後にした。
森野が帰った後、長岡は数日ぶりに泥のように眠った。点滴や処方された薬が効いたのか、目が覚めた時には倒れる前とは比べ物にならないほど体はすっきりしていた。時計を見れば半日以上眠りこけていたらしい。こんなに長く寝ることも珍しいと思いつつ、乾いた喉を潤しにキッチンへ向かう。冷蔵庫には森野が置いていったレトルトのお粥などがずらりと並んでいた。その光景にひとつ笑って、水のペットボトル片手に寝室に戻る。一気に半分近く飲みきったところで、ベッドサイドに放置していたスマートフォンがチカチカとランプを点滅させていることに気付いた。
「…あ、」
メールと、電話と。数件の履歴が残っていた。うち一通は森野から無理をするなと念押しのメールだったが、残りは全て、坂井からのものだった。きゅっと胸が軋むような感覚がして、長岡は思わず部屋着の胸の辺りを握り込んだ。
連絡が嬉しくない訳では無い。むしろ嬉しい。だが今はどうしても、坂井にだけは体調を崩していることを知られたくなかった。社会人のくせに体調管理もできないのかと自分自身落ち込んだのだが、それ以上にそんな情けない姿を坂井に見せるのが長岡にとっては何より怖かった。ないとは分かっているがもしも幻滅でもされでもしたら。それに何より、今の状況を知れば坂井は確実に長岡の元に駆けつける。駆けつけた坂井に甘えてしまう事は分かりきっていて、それではいけないと長岡は瞼をきつく閉じる。深く息を吐いて、常より回らない頭で必死にメールを返した。
仕事が忙しいこと、会えないこと、しばらく来ないで欲しいこと。今までにも何度か追い込みの、所謂修羅場の時期に来ないで欲しいと伝えたことはある。それほど不自然ではないはずと自分に言い聞かせるように打ち込んだ文章をしっかり読み返してから、長岡はそのメールを坂井に送った。すぐに、分かったと返信が来る。添えられた、無理はしないでね、その一言に胸の奥がしくりと痛んだ。倒れたことを言えば恐らく坂井はひどく傷ついた顔をして、それから心配してくれるだろう。そんな坂井の表情は見たくなかった。これでいい、とおおよそ初めて坂井に対して吐いた嘘を無理矢理肯定して、長岡はもう一度ベッドに沈み込んだ。
「…坂井さん、」
会いたい。本心は言葉にならなかった。声になる前に長岡はその思いをグッと飲み込んで、またきつく瞼を閉じた。締め切りを無事乗り切れば、約束したデートが待っている。約束した日の幸せな感情と、隣で笑う坂井の笑顔がまぶたに蘇った。
「なあちゃーん。進行どんな感じ?」
寝込むこと丸五日。森野の差し入れた味気ないレトルト粥を胃に流し込んでひたすら寝込んだ長岡は本調子とは言いがたいものの回復していた。ガタガタと荒々しい音を立てながら、寝込んだ分を挽回するようにキーボードを打鍵する。様子を見に来た森野が声を張って呼びかければ、集中するためにか耳に突っ込まれていたイヤホンを乱暴に抜き取って、けれど視線はパソコンから上げずに長岡は声を張るようにして返事をした。
「どうにか。大丈夫です、落としません。」
「あー…ご飯食べてる?」
「流石に。」
「…ならいっかあ。」
荒れてるなあ、と諦めたように呟く森野の声は長岡に届かない。長い髪をきつく一本に結わえ、長岡は一心不乱に執筆に打ち込んでいた。とりあえずとキリのいいタイミングで珈琲を取りにキッチンへ向かいがてら進行状況だけを森野に投げて寄越す。それに目を通しながら勝手に淹れた自分の分の紅茶を飲みつつ、森野はそっと息を吐く。まるで生き急ぐように仕事をするだけある。復活してから三日、寝込んでいた五日分をきっちり挽回して書き進める長岡の勢いには流石の森野も舌を巻いた。
「あんまり無理しないでね。スケジュール、まだ余裕あるんだから。」
「…分かってます。」
耳が痛いと言わんばかりにそっと眉をひそめた長岡に、森野は苦笑いを浮かべるしかできない。そんな森野の様子に、仕事机に戻らずリビングのソファーにそっと長岡は腰を下ろす。すみません、と小さく呟かれた謝罪に、大丈夫だよ、と笑って返してやる。
「そういえば、最近坂井くんは?連絡取ってる?」
「……いえ。」
「うん、だろうと思った。」
叱られた子供のように小さくなる長岡に、だよねえ、と森野は声を上げて笑う。ピリピリとした空気をまとう長岡の姿は森野からすれば見慣れたものではあったが、それでもここしばらく見ていない懐かしい姿ですらあった。坂井と出会ってからの長岡はやはり生き急いでいるように見える危うさはあるものの、それ以前に比べ執筆中も比較的穏やかだったのだ。
「なあちゃん、眉間のシワすごいんだもん。わかりやすいって。」
「…そんなに、ですか。」
「うん。…連絡取ってあげなよ。寂しがってるんじゃない?」
「…はい。」
寂しがっているのは、本当は長岡自身だ。無論坂井も寂しがってはいるのだが。長岡の仕事がそんなに厳しい状況なのか、やんわり問いかけるメールを長岡にではなく森野に送ってくる程度には坂井も長岡を気にかけている。もっともそれを長岡に伝えるのは両者にとって酷なので流石の森野も口にはしないが、とはいえ間に挟まれている身としてはさっさと連絡を取り合えよという話である。手のかかる担当作家の恋路に、人間関係までは仕事の範疇を超えていると思いつつ、それでも面倒を見てしまうのは付き合いの長さ故だった。
「なあちゃんも、多分一回落ち着いた方が残り頑張れるでしょ?こん詰めないでね。」
「はい。」
マグカップを両手で持ちながら、長岡は思案げにこくりと首を縦に振った。素直に頷いただけでも進歩したものだと森野はぼんやりと思う。
「じゃ、資料も渡したし帰るね。」
「ありがとうございました。また、進捗連絡します。」
「うん、よろしくね。」
急遽長岡に頼まれた資料を運びに来ただけのはずが、うっかり紅茶まで頂いた森野は、じゃあ、と軽やかに玄関まで向かう。慌ててそれを追いかけ、長岡は玄関口で森野に頭を下げた。人に会ったことで張り詰めていた気持ちが少し解け、憑き物が落ちたような心持ちだった。
パタン、と音を立てて閉じた扉の向こうでニッコリと笑った森野を見送って、長岡は一つ息を吐く。リビングに戻り放置していたスマートフォンを手にする。慣れた手つきでアドレス帳から坂井の名前を呼び出すも、そこで指先の動きは止まってしまった。一週間強連絡を一切取り合わなかったのは恐らく出会ってから始めてのことだった。長岡は筆まめなタイプではないが、割合に坂井は連絡をこまめに取る。仕事に没頭していても、集中が途切れた頃には坂井からのメールが入っていて、それにどうにかこうにか返信をするような付き合いが続いていたのだ。修羅場だと連絡したものの、ここまでピタリと連絡が途絶えたのは初めてで、そのきっかけを作ったのは自分自身だというのに指が微かに震えた。
修羅場のピークは過ぎました。唸ること三十分、やっとの思いで打った簡素なメールを坂井に送る。今度は嘘ではない。体調を崩していたことを伏せているだけで、序盤に立てたスケジュール上、今のペースで書き進められれば十分に締め切りに余裕をもって間に合う状態まで進捗を立て直した。重たいため息を一つ吐いて、長岡はソファーに脱力する。はあ、ともう一つ溜め息を吐いたところで、握りしめたままだったスマートフォンが振動した。
「もしもし、」
「ルイちゃん?いま平気?」
「はい。」
メールを送って五分も経っていない。電話の主は坂井だった。少しばかり慌てたような声音でこちらの状況を伺う坂井に、気圧されるように頷く。
「…修羅場、お疲れ様。」
「ありがとうございます。あと、ごめんなさい。」
「え?」
「気遣わせてしまいました。でも、おかげでこのままいけば締め切りちゃんと間に合いそうです。」
「…それなら何よりだよ。だから、謝らないで。」
「…はい。」
ぽつりぽつりと言葉を交わせば、耳元の端末越しに聞こえる相手の声に、ぽっかりと胸に空いていた虚無感が薄れていくのを長岡は感じていた。と、同時に、小さな嘘をついた罪悪感と、気付かれなかったことに対する安堵も芽生える。作品から意識が離れて、長岡自身の感情に意識がシフトする。一気に自身の感情が胸の内で溢れ出して、それに長岡はきつく瞼を閉じて耐えた。
「…会いたい、です。」
「うん、俺も。早く会いたい。原稿上がったらすぐ連絡して。会いに行くから。」
「じゃあ、一番に連絡しますね。」
「一番は森野くんじゃないの?」
「愛さんには、坂井さんに連絡してからにします。」
「ふふ、それ嬉しいな。」
電話口の坂井は冗談だと思い笑っている様子だったが、長岡は至って本気だった。恐らく坂井に先に連絡をしたとしても森野も何も言わないであろうことは織り込み済みである。
「じゃあ、締め切りまでもうひと踏ん張り。無理しないでがんばってね。」
「はい。坂井さんも、無理はしないでくださいね。」
「うん。また電話するね。」
「はい。」
久方ぶりの雑談をしばらく楽しんだあと、名残惜しみながら電話は切れた。ツーツーと電子音を鳴らすスマートフォンをぼんやりと眺めながら、長岡は電話前と同じようにもう一度ソファーの上で脱力した。目を閉じて、その上でにスマートフォンを握りしめたままの右腕を乗せる。
「…坂井さん、」
素直に、自然と会いたいと気持ちが溢れていた。普段それを言おうものなら照れてしまってなかなか口に出せない長岡から、するりとその言葉が出たことに、電話口の坂井も少なからず驚いている様子ではあった。だがそんなことも今の長岡には些細なことだった。声を聞けばやはり気持ちは高ぶってしまうのだ。愛しい、会いたい、寂しい。自分のせいで途絶えた連絡に、思っていた以上にダメージを受けていたらしい。森野の、落ち着いて仕事ができるという言葉もあながち外れてはいなかった。もっとも、寂しさが一気に込み上げてきた長岡が、再度原稿に向き合えるようになるまで三十分近くかかるのだが、それでも坂井と連絡を取り合ったことで長岡はようやく調子を取り戻したのだった。
二週間後、長岡は自分からは珍しくメールではなく電話を掛けていた。相手は勿論坂井だ。午後三時を回った頃合い。ともすれば坂井も取材中の可能性が高かったが、今はメールよりも声が聴きたかった。五コール過ぎてでなければ諦める、と小さく決めて発信ボタンを押した。
「…もしもし?」
三コール目で坂井は電話を取った。訝しげな声は、いつも通り相手を確認せずに電話に出たからだろう。長岡が名乗れば、にわかに慌てたような声音で、ルイちゃん!?と確認するように声を上げる。スマートフォンを急いで持ち直す気配を電話越しに感じて、いつも通りのリアクションながら長岡はおもわず笑ってしまう。
「原稿、上がりました。これから愛さんに連絡します。」
「…え、」
「最初に連絡するって、言いましたから。」
ふふ、と長岡が笑ったのに対し、坂井は長岡の言葉の真意を探るように黙り込んでしまう。唐突に訪れた沈黙に、長岡は慌てて坂井の名前を呼ぶ。
「坂井さん?あの、」
「…そっち、行ってもいい?」
「え、あ、はい。」
「すぐに行くから。」
常より少し低い声で、坂井は待っていてとだけ告げると電話を切ってしまう。何があったのかと目を瞬かせながら、長岡は慌てて森野に連絡を取った。原稿が書きあがった旨を伝え、メールでデータを送りつつ、これから坂井が仕事場に来ることも添えておく。メールデータのチェックよりも長岡と森野は、原稿が書き上がるたびにすぐに読み合わせをして内容をざっくりと確認し合うのが常だった。そこに坂井も加わるとなれば報告が必要なはずだ。森野から返ってきた連絡は、坂井がいようと一旦は顔を出すといった内容だった。二人を待ちながら、長岡はお湯を沸かしながらそわそわと落ち着かない気持ちを持て余していた。
「なあちゃん、お疲れ様!」
「愛さんも。校了までまたここからよろしくお願いします。」
「うん、任せて。」
先に部屋を訪れたのは森野だった。原稿が上がったとはいえ、まだまだここから先は長い。坂井を待ちながら、長岡はとりあえずと森野の分の紅茶を淹れる。二人してカップを傾けひと息ついたタイミングでチャイムが鳴った。
「はーい。」
合鍵を持っているとはいえ、原稿中以外、坂井は基本的にそれを使わない。タイミング的にも坂井だろうと踏んで、長岡は心持ち足取りも軽やかに玄関へと向かった。インタホーンのモニターで坂井を確認して、急いで鍵を開ける。扉を開けようとした瞬間、その扉が外から勢いよく開けられた。いきなりの事にバランスを崩しかけた長岡の体を、ぐっと力強い腕が引っ張り上げた。
「坂井さん…?」
「…うん。」
ぎゅう、と強く抱きしめられる。困惑も露わに名前を呼べば、ようやく坂井はそこで声を発した。とはいえ、何も返事にはなっておらず、ただ声を返しただけではあった。
「えっと、とりあえず中に、」
「…うん。」
ぎゅうぎゅうと力を込めてくる腕に軽く手を添えて、玄関ではなんだからと促すと、少なからず落ち着いた声音が返ってくる。そっと腕は解かれ、黙々と坂井は部屋に入っていく。なんとも珍しい坂井の姿に首をひねりつつ、長岡も坂井の背中を追ってリビングへと戻った。
「あ、坂井くんだ。久しぶりー。」
「森野くん、久しぶり。お疲れ様。」
「坂井くんも!てゆーかあれだね、酷い顔だね。そんなになあちゃんに会いたかったの?」
「え、」
「愛さん!?」
んふふ、と嫌な笑い声を上げながら、森野はにやにやと坂井の顔を覗き込む。掛けられた言葉に目を見開いて固まる坂井の様子は、明らかに図星そのものだった。だが背中しか見えていない、表情の窺えない長岡にそれは伝わらない。何をからかっているのだと慌てて森野をたしなめるが、それすら坂井をもやもとした感情に突き落とすには十分だったらしい。少しばかり険しい表情になる坂井を視界に収めつつ長岡の相手をしていた森野は、からかってごめんね、と比較的素直にあっさりと非を認めて見せた。
「でもさあ、二人とももっと素直になったら?二人して会いたい会いたいって顔に書いてあるし、俺に連絡くるし。俺はキューピッドじゃないんだからね!」
確かに名前は愛なんだけどさあ、とぼやく森野は、二人を焚きつけつつも深刻にならぬよう絶妙に冗談を挟んでいた。逆にそれが長岡と坂井をいたたまれない気持ちにさせる。二人して肩をしょんぼりと落としているのに気がついて、森野は、ほらもう!とわざとらしくプリプリと怒って見せた。
「とりあえず二人とも素直になること。特になあちゃん!いい?じゃあ、俺帰るからね。原稿データ貰ってるし。今日は帰る!」
「え、あの、愛さん!?」
「赤ペン先生は夜にでもメールで送るね。なあちゃん、ちゃんと素直になるんだよ!」
「ちょ、え!?」
森野は一体何をしにきたというのか。恒例の読み合せとチェックすらせず嵐のように去っていった森野を見送って、引き止めようと伸ばしたままだった腕を静かに下ろしつつ、長岡は隣に立つ坂井に目線をやった。気まずそうに目線を逸らされて、長岡は一つ息を吐く。大人になると無駄なまでに素直になることが難しくなるらしい。
「…坂井さん、」
おずおずと坂井の服の裾を指でつまみ、肩口にこつんと額を預ける。自分から抱きしめるにはまだ少し勇気が足りない。それでも長岡は今の自分ができる精一杯で坂井に触れた。寄せられた体温に一瞬驚いた仕草を見せた坂井だったが、すぐに擦り寄る長岡をそっと抱きしめてやる。それは玄関先で力任せに抱きしめたのとは明らかに違うものだった。込められた力は同じ、強すぎるくらいで痛いほどではあったが、それでも長岡は胸の内が満たされていく感覚がした。
「…お疲れ様、ルイちゃん。」
「ありがとうございます。やっと終わりました。」
「大変だった?」
「…はい。でも、」
「楽しい?」
「はい。」
抱きしめ合ったままずるずるとカーペットを敷いた床に座り込む。頑張ったね、と坂井は一つ、長岡の額に口付けを落とす。それに一瞬目を瞬かせた長岡だったが、次の瞬間には頬を緩ませてふわりと解けた表情を浮かべた。その表情に、ここしばらく長岡と連絡を取り合うこともままならなかった事により少しばかり荒んでいた坂井の胸の内が凪いでいく。
「無理しなかった?大丈夫?」
「…。」
「…ルイちゃん?」
優しい坂井の問いかけに、長岡は思わず言葉に詰まる。それを見逃す坂井ではない。どうしたの?と問いかけながら長岡の頬を両手で包んで目線をしっかりと合わせる。言い訳は聞かないと言わんばかりの坂井の表情に、さすがに面と向かって誤魔化すこともできず、長岡は実は、とぽつりぽつりと倒れていたことを明かした。
「…何で俺に言ってくれなかったの。」
「…。」
「ルイちゃん。」
そんなに頼りない?そう問いかける坂井の声音は苛立ちを孕んでいて、長岡は思わず肩を震わせてしまう。呆れられたくない、嫌われたくない。そんな一心で隠したはずだったのに、その選択のせいで今、刺々しい坂井の声を浴びている。
「…ねえ、黙ってたんじゃ何にもわかんないよ。」
怯えた様子でぎゅ、と目を瞑る長岡に掛けられた坂井の声は、確かに苛立ちも含んでいたが、それよりも途方にくれるような響きが強かった。ねえ、ともう一度声をかけ、そっと長岡の肩に触れる。瞬間、ぴくりと長岡の体が微かに震えた。自分に対する拒絶のようにも見え一瞬苛立ちが坂井の胸中でぶり返したが、そっと息を吐いて坂井はそれを霧散させるように心掛けた。恐らく、坂井が硬い声音でいる限り長岡は泣き出しそうな表情のまま変わらないだろうことをなんとなく察したからだ。
「…ぃで、くださ…、」
「ん?」
「嫌いに、ならないで…。」
はらり、長岡の頬を涙が伝った。ぽろぽろと音もなく涙を流しながら、長岡はおずおずといった様子で坂井の服の裾を指先でつまんだ。頼りない力なのに縋るような涙を湛えた長岡の姿に、坂井は二の句が告げなくなる。
「…嫌われたく、なくて、それで、」
「何で嫌うの?」
「だって、体調管理すらできないなんて、呆れられそうで…。」
「…それで俺が呆れると思ったの?」
「…いいえ。でも、怖くて。」
時折嗚咽を漏らすものの、長岡は詰まらないよう必死に言葉を紡いだ。その姿に、一瞬でも苛立ちを長岡に向けたことを坂井は猛烈に後悔した。苛立ちを向けるべきは、むしろ長岡の妙に気をつかう長岡の性格を鑑みて、体調不良も恐らく隠すであろう部分を見抜ききれなかった自分自身の甘さだと、唇を噛む。
「…俺は、どんな時でもルイちゃんの傍にいたいし、どんなルイちゃんでも好きだよ。」
だから、俺を頼ってよ。そっと長岡を抱き寄せて、耳元に声を落とす。本格的に泣き出した長岡はただ頷くのだけで精一杯な様子で、泣きながら坂井の背中に腕を回した。
一度泣き出してしまうとなかなか止まらないものらしい。ようやっと涙は落ち着くつつあるが、まだグズグズと目元を擦っている長岡を膝の上に横抱きにして、坂井はソファーに腰掛けていた。弱った姿を見せるのは、確かに抵抗があるものだ。泣き続ける長岡を宥めるように背中を撫でてやりながら坂井はぼんやりと思う。仮に自分だったとしても、恐らくすぐには長岡に連絡を取らないだろう。長岡のように誤魔化してしまうかもしれない。頼りたい気持ちも、甘えたい気持ちも、ある。だがそれはきっと、弱り切った時には抑えがきかないものだろうし、だからこそ、会いたいけれど会いたくない。心細いけれど、それでもその一線を越えるのには勇気がいる。特に、大人になると余計だ。相手を信頼していないわけではない。むしろその逆で、心ごと預けきってしまっているから恐れるのだろう。
「…ルイちゃん、」
未だ涙の止まる様子のない長岡は、一体どれだけの不安を抱えているのだろう。恋人同士になって、出会ってから数えても数年経つが、長岡はその心の内を簡単には明かさない。ネガティブな感情だけは只管に飲み込んでどうにか自身で消化しようとしている節がある。恐らく何かしらの感情にとらわれているのだろうと坂井は慮ることはできても、その胸の内までは計り知れない。今も恐らく、堰を切ったように泣いている裏側で、涙と一緒に吐き出した感情以外に、嗚咽と共に飲み込んだ感情があるはずだ。堪らなくなって、長岡の名前を呼ぶ。顔を上げた長岡の頬は涙に濡れていて、それをそっと指先で拭いながら坂井はそっと口づけを落とした。繰り返しキスをしながら、強く長岡を抱き締める。戸惑うように坂井の胸元に添えられた手は、いつしか縋るように服を握り込んでいた。
「…ねえ、ルイちゃん。」
「はい…?」
キスでぼんやりとした表情をしている長岡が、泣きはらした顔で坂井を見上げる。頬にかかった髪を指先で避けてやって、そのまま坂井は長岡の頬を両手で包み込んだ。しっかりと目を合わせる。
「不安とか、そういうの。もっと俺に話してほしい。何もできないかもしれない。でも、せめて俺は、ルイちゃんのマイナスの感情もできるだけ知って傍にいたいし、ルイちゃんの弱い部分も全部預けてほしいと思ってる。」
「…坂井、さん。」
「言われないでも気づけるくらいになれたらいいんだけどさ…不安とかって、見えないし、見せないようにしちゃうのも、分かるから。だからお願い。俺にもっと、教えてほしい。」
「…。」
「俺、多分ルイちゃんが思ってるよりルイちゃんのこと好きだからね。」
しっかりと目を合わせて話せば、次第に長岡の瞳にまた薄っすらと涙の膜が張っていく。けれどそれを何度かの瞬きで破き、長岡もそっと坂井の頬に手を伸ばした。
「私だって、坂井さんのこと、きっと思ってるより、好きです。」
「ふふ、じゃあ、もっと教えて?俺ももっともっと、好きだって伝えるから。」
ね?そう小さく小首をかしげながら坂井はそっと小指を差し出してみせる。長岡は少しだけ意外そうに目を瞬かせ、それからふわりと笑って自分の小指を坂井のそれに絡めた。
「…坂井さんがいなきゃ、私、ダメかもしれないです。」
「…それ、殺文句過ぎるよね…。」
指切りをした後、ぽつりと長岡が呟く。恋人同士の甘い空気が苦手だったはずの長岡が、まさかそんなセリフを言うとは予想もできなかったらしい。照れてしまった坂井は、思わずといったように片手で顔を覆った。
「でも、そうだね。俺もそうかも。」
そっと長岡を抱き寄せて、坂井はその髪に顔を埋めた。シャンプーの甘い香りが肺を満たす。腕の中に長岡がいることが何よりも幸せで、どうやらしばらく連絡が取れなかった期間に、思いの外弱っていたらしいことを今更ながら自覚する。それと同時に、何でも抱え込もうとする長岡の心の奥底を知りたいと思うのならば、言葉を砕いて伝えていくしかないと改めて感じていた。
察してほしい、なんて驕りでしかない。別々の人間なのだ。分かるはずがない、気持ちが目に全て見えるわけではない。けれど別々の人間だから触れたいと思う、抱きしめたいと思うし、不安に震えるなら抱きしめてやりたいと、出来うる限りその不安を消してやりたいと思うのだ。ただ守りたいのではない。一方的に守りたいのではない。お互いに伝え合って、分かり合っていきたいのだ。
久方ぶりに抱きしめあった二人の心境は、奇しくも同じだった。ただ、傍にいたいと。愛おしいと、ただその一心に尽きた。