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HONEY BEAT  作者: 黒乃きぃ
5/8

Maybe

 深夜の書斎にはカタカタとキーボードを打鍵する音だけが響く。壁に申し訳程度に飾られた時計は、午前三時を指していた。夕方からパソコンに向かい続けているために、室内は暗く、パソコンのディスプレイが放つ青白い光だけが室内を照らしていた。

「っあー…。」

 エンターのキーを強く叩くと同時に、長岡はグッと体を伸ばし椅子の上で脱力した。バキバキというよりも、ミシ、と軋むような音が自身の体から聞こえた気がしたが、知らないふりをする。

「…三時、か。」

 脱力した体勢で数分停止していた長岡だが、ようやくといった様子で、のろのろと体を起こす。ディスプレイの端に表示されている時刻を確認して、さすがに目も霞むわけだと目を閉じ、眉間に拳を軽く当てた。目の前には、章の途中まで書かれた文章が青白い画面に踊っている。とりあえず、とそれを保存すると、長岡はゆっくりと椅子から立ち上がり、リビングへ向かった。

 次の作品の締め切りにはまだしばらく日はあったが、ここ数日、長岡は自宅兼仕事場に引きこもって生活していた。夕方、書斎にこもる前に少し早い時間だったが雨戸は閉めてある。おかげで真っ暗になってしまったリビングに明かりをつけて、そっと息を吐いた。同じく暗いキッチンへそのまま足を向け、冷蔵庫を覗く。中には申し訳程度に水とアルコール、チョコレートだけが入っていた。まともな食事になりそうなものは一切ない。ここ数日、寝食もそこそこに仕事に集中していた長岡だったが、さすがに体が限界を訴えていた。休息が足りなかったのか、手に若干、力が入りにくくなっている。

 それでもないものは仕方がないと、チョコレートとペットボトルの水だけを取って、リビングへ逆戻りした。今はアルコールを飲んではいけないとぼんやりとしている頭でもわかる。一人暮らし用にしては大きいソファーに体を投げ出して、長岡は深く息を吐いた。深呼吸のようでもあり、溜息ともとれる。その実、深呼吸でもあったし、溜息でもあった。

「…メール、は、ないか。」

 執筆中投げ出していたスマートフォンを数時間ぶりに手にする。担当編集である森野からの事務連絡諸々と、石川からを筆頭に、友人らからの雑談メールと数件のメールマガジンが受信フォルダには並んでいる。そこに、長岡が求める文字列はなく、分かっていたことながら長岡は今度こそ溜息を吐いた。手にしていたスマートフォンは溜め息と一緒にソファーに放り投げられた。

 長岡が焦がれる相手、坂井は、一週間前から海外へ出張へ出ている。二週間程度のそこそこ長い旅になるからと、出発前には長岡にお土産はないがいいかと聞きまくっていた。なかなか海外取材の機会もないからと、今回はかなり強行スケジュールを取る予定だと、事前に坂井から聞かされていた。そのため、連絡が少ないことも仕方がないと思っている。長岡自身、忙しい時に無理をしてまで連絡を取る必要はないと思っている。だがやはり、寂しいことだけは事実だった。

「…坂井さん、」

 ぽつり、名前を呼べば虚無感が一気に長岡を包む。まるで自分自身を削り取るように削り出した自身を量り売りでもするかのように、仕事に打ち込んでいる長岡はピリピリと危うく、生き急いでいるような風体だ。仕事に没頭しすぎた余波か、それとも甘えられる体温を見つけてしまったが故か、坂井と長く連絡が取れないことに言いようのない寂しさを長岡は抱えていた。

 寂しい、と一言連絡を入れられる性格であったなら違ったのかもしれない。けれど普段、あまり素直に好意を口にするのも照れてしまう長岡は、どうにもその一言が坂井には伝えられずにいた。伝えることで負担になってしまうのではないか、重くはないか。これまで比較的淡白な色恋しか経験してこなかった長岡は、自分が誰かにこんなにも焦がれる日が来るなどと、思ってもみなかった。だからこそ余計に悩み、自分を自分で無意味に追い詰めてしまう。

 考えても埒があかないと、長岡は一つ大きく息を吐くと、ペットボトルの水を一気に飲み干して立ち上がった。最寄り駅前のスーパーマーケットは深夜一時で閉店だが、二つ先の駅まで足を伸ばせば二十四時間営業の店舗がある。無論電車はない時間帯だが、車通りも少ない時分、スクーターで行けばあっという間だ。ついでに軽く走ればモヤモヤとした気持ちも吹き飛ばせるのではないかと思った。引きこもって仕事に勤しんでいるとはいえ、シャワーは書斎にこもる前に浴びたから問題は無い。軽く化粧をして出掛けるのに最低限問題ない格好に着替えると、長岡はサクサクと出掛ける支度を整えた。

 凄まじく寝不足という訳でも、凄まじく空腹という訳でもない。とはいえ両方とも自覚症状がないだけであって、本来運転するには躊躇う程度のコンディションである事は自覚していた。いかつい風体の大型のスクーターだが、今日ばかりは安全運転と、他に車の走らない深夜の道を長岡は愛車に跨り走り出す。エンジンを掛けた瞬間、体を揺さぶる振動が心地よかった。ヘルメットをしているため顔は風から守られているが、首から下には風が一気に吹き付ける。ライダースジャケットを着ているためそこまで寒くはなかったし、何より今夜は安全運転故に普段ほどではないが、風を切る感覚が気持ちいい。駅前も住宅地だけあって繁華街ではないから、ポツポツと街頭と夜ふかしをしているのだろう家々の明かりだけが浮かんでいる夜の中を、夜独特の静寂をマフラー音が必要以上に壊すことないよう長岡は愛車で慎重に進んだ。

 アシがあるのは非常に便利だ。凡そ一人暮らしの女性が一度に買うにしては多すぎる量の買い物をした自覚が長岡にもあった。両手にビニールがきつくくい込む程に膨れ上がった買い物袋をメットインスペースに押し込んで、帰路についた。問題はマンションの自室に上がるまでだ。さすがに買いすぎたと、ヨロヨロと危なっかしい足取りでマンションの中階層の自宅にたどり着く。米を炊くにもそれを待つ時間が惜しいと、手っ取り早くパスタを作ることにする。パスタを茹で、ほうれん草とベーコン、醤油ベースのパスタオイルを和えてざっと炒めれば、手抜きである事は否めないがここ数日で久方ぶりのまともな食事になった。

 食事を終えて、ようやく一息つく。クラクラとしていた思考も多少戻ってきた感がある。寝食をないがしろにしがちな自覚はもちろん長岡にもあったが、もう少し気を配ったほうがいいのかもしれないと、作家になってからこれで何度目になるかわからない反省をした。食器をキッチンへと運びリビングへ戻れば、家を出る前にメールをチェックして以降一切触っていなかったスマートフォンが、チカチカとライトを点滅させていることに気がつく。慌てて開けば、着信とメールが一件ずつ増えていた。無論、相手は坂井だ。

 着信はスクーターを走らせている最中に入っていたらしい。電話が通じないことでメールが入ったようだ。メールは、もう寝てるかな?という長岡を気遣う文面から始まっている。液晶の中に踊る坂井からの言葉に、長岡はぎゅっと胸の内が締め付けられるような痛みを感じた。そして躊躇わずに電話をかける。メールを受信したのは三十分ほど前だ。よほどタイミングが悪くなければ繋がるはず。期待がこもる。

「…もしもし?」

「…長岡、です。」

「え、ルイちゃん?」

 着信相手を見ないで電話にでる癖のある坂井の第一声は、少しばかり訝しげなものだった。だが、長岡が名乗った途端、スマートフォンを慌てて握り直したような気配が感じられた。もう寝てたんじゃないの?と慌てたような声だが、そこには喜色が隠しきれず浮かんでいる。

「ごめんね、起こしちゃった?」

「いえ、ご飯食べてたんです。それで、気づかなくて。ごめんなさい。」

「ううん、大丈夫。…え、今ご飯食べてたの?時差あるよね…そっち、何時?」

 申し訳なさそうだった声が、長岡を嗜めるものに変わっていく。だからごめんなさいって最初に言ったじゃないですか。長岡が拗ねた声を出せば、まあご飯食べてくれてるだけいいかあ、と譲歩するようなため息交じりの声が長岡の耳元で響いた。

「ごめんね、全然連絡もできなくて。本当はもっと早く連絡するつもりだったんだ。」

 なんて、言い訳だね。自嘲気味な坂井の言葉を長岡はすぐさま否定した。連絡は、私からもできたから、と。それをしなかったのは長岡の臆病さだったが、坂井はそんな長岡の自分を自分で追い込んでしまうのではないかと危うく思えるほどの臆病さも長岡の性格だと理解していた。長岡が自分から連絡を取るのが苦手で、筆不精なことは知っている。ならばそれをお互いに気にしなくて良いほど、自分から連絡を取ればいい。自分自身の決意にも似た思いを破った結果、長岡の声から張りを奪うような思いをさせたことを坂井は電話越し悔いていた。けれどそれはおくびにも出さない。まだ出張は数日続く。こうして電話でも話せるのは貴重な時間だった。

「美味しいもの、ありました?」

「うん、いっぱい食べたよ。ああ、そう。ルイちゃんにお土産も買ったから。楽しみにしててね。」

「ふふ。嬉しい。今から楽しみです。何ですか?」

「なんだろうね。まあ、帰ってからのお楽しみで。」

「いじわる。気になるじゃないですか。」

「いいでしょ、たまには。このくらいのいじわる、可愛いもんじゃない。」

「…まあ、そうですけど。」

 気を取り直しての雑談は、うっかり一時間以上話し込んでしまうほどに盛り上がった。長岡の返答が段々とゆっくりしたペースになり、少しばかり舌足らずな話し方になってきたことに坂井が気付く。そろそろ長岡の部屋の外では空も白み出す頃合いで、ここ数日仮眠だけで生活していた長岡の体は限界突破していたのだ。坂井の声を久方ぶりに聞けたことで気持ちが高ぶり、一時的に眠気も吹き飛んだが、話し込めばこむほど、今度は坂井の声を聞けていることに安堵し、気が緩み出す。気が緩んだことで、執筆で張り詰めていた緊張感も解け、一気に睡魔が襲ってきたのだ。

「ルイちゃん、眠い?」

「ん…だいじょうぶ、です。」

「ほんと?」

「はい…あ、でも、そうだ。坂井さん、おしごと…。」

「うん、俺はまだもう少し大丈夫。でもルイちゃんはまた寝てないんでしょ?」

「…でも、まだ、」

「ルイちゃんが寝付くまで話しててあげるから。寝な?」

「…ん…。」

 ゴシゴシと目元をこすり、無理やりに意識を起こそうとするが、それでも睡魔はしっかりと長岡の元にやってくる。眠気を助長するように、坂井がことさら優しい声音で繰り返し長岡の名前を呼ぶものだから、長岡にはどうしようもない。睡魔にあっけなく負けてしまう自分を悔しく思いながら、一方でこうも優しく眠りへと誘う坂井の声をただ一人聞けることの幸福感も感じつつ、長岡の瞼は確実に重くなってく。それでも、と、もう言葉になっているかも危うかったが、長岡は坂井にどうしても言いたかった言葉を最後に紡いだ。

「さかいさ…おしごと、がんばってくださ…ね、」

 すう、とひときわ大きく呼吸する音が聞こえて、それから電話越しの坂井の元には静かな長岡の寝息だけが聞こえた。寝落ちしたな、と小さく溢れる笑いを隠しもせず、どうにか届いた長岡の言葉に坂井はにっこりと笑って答えた。

「うん。ありがとう。ルイちゃんも、ほどほどにね。」

 んう、と言葉になっていない声が返されて、坂井は堪えきれず噴き出しながら電話を切る。名前を呼ばれたことに反応したのかもしれないが、それでも坂井にはしっかりとリアクションを返す長岡が愛おしくてたまらなかった。

「…近くにいたら、抱きしめるんだけど。」

 生憎、坂井がいるのは長岡から遠く離れた異国の地だ。帰ったら目一杯抱きしめて目一杯甘やかしてやろうと心に誓って、坂井は仕事モードに気持ちを切り替える。愛しい愛しい彼女が、意識のほとんどが夢の中だというのに頑張って仕事を応援してくれたのだ。頑張らなければ男が廃る。出張の日程もようやく折り返し地点を越えた。たまの海外、しかも仕事といえど好きなものをひたすら食べる旅だ。楽しさが何より勝るが、ふとした瞬間に長岡の顔がよぎる。声を聞けたお陰で、今日はしっかり仕事に集中できるはず、と坂井は気合いを入れて目の前に広げられた書きかけのメモの続きに取り掛かった。

 数日後、ようやく帰国した坂井は荷物を置くためだけに帰宅し、すぐさま長岡の家に向かった。長岡には帰国直前に、これから帰国する旨を連絡していた。すぐにでも会いに行きたいと甘えた言葉を添えれば、珍しく素直に、私も会いたいと長岡からの返信があった。普段あまり甘えず、甘い空気も苦手な恋人からそんなことを言われて浮かれないわけが無かった。はやる気持ちと共に坂井は長岡の家を目指す。元々は森野が原稿を取りに来るときのために借りられた長岡のマンションの駐車場は、今や森野公認でほぼほぼ坂井が使用している。愛車を止め、両手いっぱいに長岡へのお土産を抱えて、坂井は長岡の部屋へ向かった。

「ルイちゃん。」

「坂井さん…っ!」

 恐らく反応はないだろうと踏みながら鳴らしたチャイムは、珍しくその役目を果たした。俺だよ、と坂井が告げれば、すぐに鍵は開けられた。会いた扉の向こうにいる恋人に、いつも通り微笑んで見せれば、その笑顔を向けられた長岡は、一瞬泣きそうに顔を歪めた後、ふわりと満面の笑顔を浮かべて見せた。

「ただいま、ルイちゃん。」

「お帰りなさい。」

 いつまでも廊下に出ているわけにもいかないととりあえず部屋に入ったのだが、坂井は玄関先に荷物を手放して、すぐに長岡を抱き寄せた。ぎゅう、と力を込めて抱きしめれば。小柄な長岡は坂井の腕の中にすっぽりとはまり込む。いつもなら恥ずかしいと若干抵抗を見せるはずの長岡が、今日ばかりは珍しく自分から坂井に腕を回した。縋るように坂井の服をきゅ、と指先で握る。微かに込められた力が何より愛おしくて、坂井は知らず破顔していた。

「…寂しかった、です。」

「ルイちゃん、」

「…会いたかった。」

 会いたかった、寂しかった。素直な感情をストレートに人に向けるのが長岡は何より苦手だった。心ごと寄りかかるように自分をさらけ出すことが苦手で、ならば全て見えないように隠してしまえばいいと、そうやって生きてきた。けれど坂井の前でだけはダメだった。ふわりと微笑む坂井の笑顔に、まるで縮こまるように押し殺していた自分自身を緩く解かれていく。今も、優しく自分の名前を呼ぶ坂井の声にたまらない気持ちになっていた。思わず素直な感情が唇から溢れる。

「…俺も。ルイちゃんを抱きしめたくてたまらなかった。」

「…ん。」

 坂井の甘い声が耳元で囁く。普段ならそれにどうしようもなく恥ずかしくなって腕を振りほどきたくなるほどの衝動にかられるのだが、今日の長岡はそうしなかった。むしろ自分から坂井の胸に少しだけ体重をかける。珍しいこともあるものだと坂井は若干驚きつつも、滅多にない恋人の姿に腕に込める力を少し強めた。

「ルイちゃん、仕事は?」

「…締め切りまでまだあるので、多少融通ききます。」

「そっか。じゃあ…今日と明日くらいは、俺にくれる?」

「…はい。」

 素直な感情を口にした途端、嬉しそうに頬を緩ませる坂井を見て、長岡はこれまでの自分の価値観が少しずつ変わっていくのを感じていた。甘えることが必ずしも相手の負荷になるわけではない。現に愛しさを全面に出来うる限り表現してみれば、こんなにも恋人は幸せそうに目を細めてこちらを見やるのだ。

 言葉で、声で、目で、触れる指先で、体温で。好きだと全身で伝えてくれる坂井に、長岡は心の内で小さく抱えていた不安が溶け出していくのを感じていた。自分だけが好きなのではないか。不意に浮かぶ根拠も何もない不安が溶け出して、ただ目の前の体温が愛しくて堪らなくなる。淡白な色恋しか体験してこなかった。だからこそ坂井が作り出す甘い空気に耐えられずにいた。だがしかし一度自身の感情をさらけ出してしまえば後は簡単だった。恥ずかしさは多少なりとも残る。急に消えるものではない。だが先刻より強くなる腕の力に体を預ければ、これまでより深くお互いの感情を注ぎ込める気がした。

 何をするでもなく、ただ、抱きしめ合って。お互いの体温を確認し合うように、二人はしばらくの間そこに立ち尽くしていた。

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