表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
HONEY BEAT  作者: 黒乃きぃ
4/8

POISON PEACH

 黒田宏昌はモテる男だった。学生時代から言い寄ってくる女はあとを絶えず、アラフォーと呼ばれる年齢になった今でもそれは変わらない。大手出版社の女性向け雑誌の編集部の副編集長ともくれば、役職的にも箔がつき、今では見合いの話も多い。とはいえ黒田自身は副編集長になってからも管理業務以外の仕事もこなし、社畜と言われれば何食わぬ顔で、そうだけど?と返すなど、仕事が恋人といった体裁である。幼少期からモテたためか、もしくは色恋に熱を上げるタイプではないためか、本気の恋愛の経験はない。誰かにとことんのめり込むことも、執着することもなかったので、結婚願望も今のところ、ない。

 女の影が途切れない割に、自分からまともに恋をしたこともないのだが、自分でも珍しくうっかりと一人に惚れ込んでしまったものだと、黒田は小さく嘆息する。癖のない長い髪も、きりりとした印象を与える澄んだ瞳も、華奢な肩も。どれもが黒田の胸の内をざわつかせる。

「あれ、なあちゃん。何してんの?」

「黒田さん。」

 黒田の生活は多忙という言葉が相応しい。作家たちに比べれば何のことはないと黒田自身は思っているが、本来会社が定めている休日の土日の大半を会社で過ごしている。そんな黒田が珍しく会社に行かず、かといって疲労の溜まった体を目一杯休めるために惰眠をむさぼるでもなく、街を歩いているのはひどく珍しいことだった。

 珍しい日には珍しいことがつきものらしい。ふと立ち寄ろうとしたオープンカフェのテラス席に、見知った姿を見つけ、黒田は思わず声をかける。すると思った通りの人物、長岡が驚いたように目を丸くしてこちらを見上げた。

「相席、いい?」

「どうぞ。」

 荷物の置いてある長岡の向かいの席を指し示せば、さっとそれは退けられる。水を片手に近寄ってきたウェイターに、エスプレッソを頼むと、黒田は勝手知ったるようにそこに腰掛けた。すらりとした足を組んで椅子に腰掛ける黒田を、スタイルのいい男は何をしても様になるものだと、長岡は一種の感動を覚えながら眺めていた。

「珍しいですね、黒田さんとバッタリ会うなんて。」

「俺が日中にのんびり散歩してるのが珍しいからかな。」

「ああ、なるほど。」

「なあちゃんは?仕事?」

「はい。気晴らししつつ。」

 テーブルの上には、中身が半分程度まで減ったカフェラテのグラスと、長岡が仕事用に使っているノートパソコン、革表紙の手帳に万年筆が広げられている。家に閉じこもって仕事をする事の多い長岡だが、聞けばカフェの方が捗ることもあるらしい。今がまさにそうで、執筆中の章が書き終わるまではカフェをハシゴする予定だそうだ。

「…俺、邪魔?」

「そんな事ないですよ。」

 仕事中なら、とにわかに慌てた黒田だったが、長岡はやんわりと引き止める。パタン、と閉じられたノートパソコンに、長岡は手帳を重ねてテーブルの脇に寄せてしまう。本当に仕事を一時中断したのだと示す長岡の行動に、それなら、と黒田は改めて腰を落ち着けた。

「ここ、よく来んの?」

「時々。たまに散歩して、新しいお店見つけては入っていて、その一つです。」

「ああ、散歩好きなんだっけ。」

「はい。美味しいお店見つけると、テンション上がりますし。」

「…何駅分くらい歩いてんの?いっつも。」

「二、三駅は歩いてますね。まあ、元々が引きこもりなので…。」

 中身のない会話をぽつりぽつりと交わす。そうこうしているうちに黒田の頼んだエスプレッソと、長岡と顔なじみの店員が気を利かして持ってきたフルーツタルトがテーブルには並んだ。いいの?なんて店員に改めて問う長岡は柔らかい表情をしていて、この穏やかな様子が恐らくは長岡という女の素の表情なのだろうと黒田は確信する。淡々とした文体からは想像もつかない、柔らかそうな頬のラインを、思わずじっと見つめる。

「…何か、ついてます?」

「ん?ああ、いや。何も。」

 そうですか?とはにかんで微笑む長岡を、黒田は素直に欲しいと思った。今まで自分に群がっていた女たちと、長岡は違う。だからこそ気にかかるのかもしれない。自分に視線が向けられれば胸の内で甘く鼓動が高鳴るし、自分の名前を呼ばれるだけで幸福感が生まれる。すっかり惚れ込んでいるのだが、何の因果か長岡は既に他の男のものだ。それも、自分が心底信頼を置く男の。思うだけ自分自身を奈落に突き落としていくだけなのは分かっている。だがそれでも、ほぼ初めてかと思われる二人きりというシュチュエーションに、黒田は自身の欲が鎌首を上げるのを感じていた。

「…坂井とは、順調?」

「っ!」

「おいおい!大丈夫か?」

「…っけほ、突然何を…!」

 唐突な黒田の言葉に、ちょうどカフェラテを口に含んだところだった長岡は思わずといった様子で咳き込む。慌てすぎて気管に入ったらしい。げほげほと落ち着かない咳に、タイミングを見誤ったかと黒田は素直に反省する。反省はするが、質問の答えが気になるのでニヤニヤと口元が緩むのは隠さない。突然の質問に頬を真っ赤に染め上げた長岡は、ようやっと呼吸を整えるとふっと顔を逸らした。目一杯の抵抗らしい。

「いいじゃん、教えてよ。俺、一応二人の仲取り持っただろ?」

「…まあ、そうですが、」

 出会いのきっかけを作ったのは他の誰でもない黒田だ。それを言われれば黙らざるを得ないらしく、長岡はぐっと言葉に詰まって見せた。

「気になるんだって。なあちゃんはうちの会社では今一番の人気作家だろ。坂井は俺の方で一番の人気ライターだしさ。」

「…順調です、よ。」

「お!デートとかしてんの?」

「…はい。」

「いいねえ、いいねえ。」

「…恥ずかしい…。」

 普段の口調が淡々としているからか、あまり長岡はたじろぐことがない。それが今はどうだ。黒田の軽口にどうにかこうにか応えている。親しい友人でもなかなか見ることのないだろう長岡の様子に、黒田は満足していた。例えどう足掻いても自分のものにならないとしても、彼女の珍しい表情を引き出しているのは、間違いなく自分だ。恋人である坂井や、担当編集の森野も、それぞれにそれぞれしか引き出すことのできない長岡の表情を知っているのだろう。だが、その二人が引き出せない表情を、黒田は黒田で知っている。そのことが細やかな優越感を黒田にもたらした。

「…流石、黒田さん。」

「は?」

「あ、いえ、愛さんとかから聞いてても、今こうしてお話ししてても、モテるんだろうなと。」

「…まあ、否定はしねえけどさ。」

 長岡の言葉は密やかに黒田の心に傷をつける。それは引っかき傷程度の小さなものではあったが、黒田にはその、触れればピリと突き刺すような痛みが、何より堪えた。モテるだろう、とは傍目からの評価でしかなく、長岡が黒田と未だ一線を引いていることを黒田に突き付けた。

「モテてもさ、惚れた女からモてなきゃ意味ねえよな。」

「…黒田さん、」

 自嘲的な笑みが黒田の口元に浮かぶ。同情を誘うような言葉を選んだのはなぜだろう。長岡は坂井と結ばれている。純粋に欲しいと思っても、叶わないことなど百も承知で、欲しいと思うからこそ長岡には末長く坂井と幸せであって欲しいと黒田は心の底から思っている。だというのに、黒田の言葉は本人でも戸惑うほどに、自分の感情とかけ離れたものだった。

「…黒田さんは、私と似ている気がします。」

「…は?」

 長岡がこぼした言葉は、黒田が予想していたどんな言葉とも合わなかった。考えるようにたっぷりと間をとってから呟かれた言葉。しかも相手は作家だ。予想もしない方向から切り込まれることに、黒田は思わず身構えた。

「自分がどう周りから見られているか分かっていて、それを無意識に演じている。違いますか?」

 図星だった。幼い時から自分がどう見られ、どう評価されているか察する力があった。だから周りが思う自分自身というキャラクターを作り、演じていた。演じるというよりも、呼吸をするのと同じくらい自然に仮面をかぶっていたというところか。どう接し、どんな表情を浮かべれば女が歓声を上げるか。自分に惚れ込んだ女が、どんな男の虚像を黒田に対し抱いているか。それを無意識に嗅ぎ分け、演じ分けてきた。無遠慮にも一番脆い部分を突かれて、黒田の眉間にシワが寄る。それを見て、長岡はふわりと笑った。

「私もそうだから。似てます。」

「…坂井の前でも、演じてんの?」

「いいえ。…初めて会った時から、坂井さんの前では、演じない自分でいられたんです。」

 坂井の前では、誰と一緒にいるよりも呼吸が楽なのだと長岡は微笑んだ。それは自分一人でいるよりも、肩の荷が下りたように自然な自分でいられるのだと。

「…黒田さんも心当たり、あるんじゃないですか?」

「…そうかもな。」

 坂井は不思議な男だ。彼の笑顔の前では、無意味に虚栄を張るのが馬鹿馬鹿しくなる。何をするでもないのに、坂井は相手の張り詰めた部分を和らげる力を持っていた。それは坂井の纏う穏やかな空気が成せるものかもしれない。

「…なあちゃん、人のこと良く見てるよな。ほんと。」

「それが仕事の一環ですから。」

「…そっか、そうだよな。」

 触れて、甘やかな肌に噛み跡を残してみたい。そんな欲求すら、長岡に抱いていた。言ってしまえば一目惚れだったのだ。坂井と引き合わせた日から、長岡は自分のものにならないと黒田はどこか確信を持っていた。それが現実のものとなっても、ヤケにならない、理由。それをピタリと言い当てられた心持ちだった。

 惹かれたのは、まるで長岡が黒田にとって合わせ鏡のような存在だったからだ。だから坂井が自分にとってある種、唯一自分をさらけ出せる存在であることも、同じだった。同じだったからこそ惹かれたし、同じだったからこそ、叶わなくても良いと思い続けていられるのかもしれない。

「あーあ、坂井が羨ましいな!」

「え?」

「だってさ、こんな美人で性格もいい彼女がいて、二人して才能がある。そりゃ羨ましくもなるって。」

「…。」

 にかり、と歯並びの良い白い歯を見せて黒田は笑ってみせる。その言葉はおどけてはいたが、少なからず黒田の本音も込められていた。無論、一から十までではない。自分に自信がないわけではない。むしろ、ある方だとは思う。だが無い物ねだりをしたいだけだ。

「…やっぱり、黒田さんは私に似てます。」

 心はすでに、長岡を諦めている。ぽつりと呟きながらカップに視線を落とす長岡の長い睫毛を、黒田はただ見つめていた。綺麗だ、そう思いながら。

「ん。かもしんねーな。」

 けれど徹底的に違う部分がある、と黒田は胸の内で呟く。長岡が求めたのは合わせ鏡ではない、纏った仮面を自然と解いてくれる相手だった。それが坂井だった。黒田が求めたのは、心を解く相手ではない。自分の、合わせ鏡が欲しかったのだ。合わせ鏡であれば、自分と似た人間であれば、気負わずに仮面を外せる。だからこそ一目見た時から、長岡に焦がれていたのかもしれない。ロマンチックな表現をしてしまえば出会うべき運命だったとでも呼べるが、長岡の仮面の下を、黒田では暴くことができない。分かりきったその事実に、叫び出したい気持ちだった。

「なあちゃんは、」

「はい?」

「…いや、なんでもねーわ。」

 言いかけて、黒田はやめる。その言葉は身を滅ぼすだけだ。曖昧に笑って誤魔化すと、長岡はもの言いたげな表情はしたものの、それ以上は何も追及しなかった。触れたいと欲が渦巻いて、指先がピクリと震える。それを押さえ込んで黒田はふっと笑った。きっと長岡が、合わせ鏡のような存在でなくこれまで黒田の周りに群がっていた女と同じであれば頬を簡単に染めたような、雄々しさを感じさせる表情。それに一切浮ついた反応を返さない長岡が心底愛おしく感じた。

「似た者同士、また会おうぜ。坂井の情報、横流しするから。」

 坂井が遠方に行っている間は、自分が何なら用心棒にでもなってやる。冗談めかして黒田が言えば、今度こそ長岡は笑った。

「ふふ、ぜひ。」

「おう。」

 それから他愛ない会話を続けていれば、あっという間に陽が落ちる。長居し過ぎたと帰り支度をしたところで、ああ、と不意に思い出したように長岡が声を上げた。

「そういえば、今月号読みましたよ。」

「お!ありがとう。そっか、なあちゃん読んでくれてるんだったな。」

「はい。で、黒田さんが担当してた巻頭特集ページ。一番面白かったです。」

「え、」

「そうそう、それ言いたかったの、うっかり忘れていました。」

 ふわりと笑う長岡に、黒田は呟くように礼を返す。礼を言いながら、ああ、と思った。これだけいい女が、自分の手に落ちてくるわけがなかった。だけれど今だけは、何も知らない長岡をそっと見つめているくらいは許して欲しいと、胸の内で坂井に詫びる。手出しはできない。すれば傷つけるだけなのを分かっているし、傷つけてしまうより、手に入らなくても長くその笑顔を眺めていたいと思った。

 仕事の時間を奪ったからと半ば強引に会計を二人分済ませながら、黒田は人知れず苦笑した。自分で思っていた以上に、どうやら長岡に惚れ込んでいるらしい。ぼんやりと考える黒田の後ろ、扉の脇に所在なさげに立つ長岡を横目に見ながら財布から札を取り出す。

「あの、」

「はい?」

「あの、なあさんとはどういう関係なんですか?最近できた恋人って、」

「ああ、俺じゃないですよ。」

 レジで会計を担当してくれたのは、長岡の顔なじみだというケーキをサービスで運んできてくれた若い女性店員だった。興奮したかのようにかすかに頬を赤らめながら食い気味に質問され、黒田は思わず笑ってそれを否定した。おかしくてたまらなかった。自分よりも余程長岡の隣に立つのが似合う男を、黒田は知っている。

「俺はなあちゃんの恋人の友達。で、そいつが仕事でいない間の用心棒ってとこ。」

「なんだー。なあさん、やっと彼氏連れてきてくれたのかと思ったのに!」

「多分そのうち連れてくるんじゃないの?ケーキ美味しかったし。ああ、そうだ。サービスありがとう。」

「え!あ、いや、あの、どういたしまして…。」

 心底がっかりしたような店員に、にこりと笑いかけてやる。するとみるみるうちに店員の頬は赤く染まった。恥じらうように少し俯いて、もじもじとしてみせる店員の様子は黒田からしてみれば割合見慣れたもので、けれど先刻まで長岡と相対していたからか少しばかり新鮮にも感じられた。

「あの、」

「ん?」

 釣り銭を渡しながら、未だ赤い頬で店員は意を決したように黒田を呼ぶ。レシートごと財布に突っ込みながら店員にちらりと視線を投げれば、ばちりと視線が合ってしまい、店員は慌てて視線を逸らす。逸らしながらも、呟かれた言葉に、黒田は唇の端で笑いながらしっかりと頷いてみせた。

「なあさんの用心棒、よろしくお願いします。私たち、なあさんのこと大好きなんです。」

「…勿論。任せといてくれよ。」

 儚さというよりもどことなく危うげな印象を相手に与える長岡に対してだからこその言葉だろう。店員の言葉は、いい意味で黒田の予想を外れていた。頬を赤く染め上げていたから、うっかりナンパでもされるのかと思えばとんでもない。ふわりと微笑んで、長岡をよろしくと言われた。無論、用心棒としてだが。それでも長岡がそれだけ自分とリラックスして話してくれていたからこそ見ず知らずの男によろしくと伝えるのだと黒田は解釈した。初対面の、しかも客に対して別の客を大好きだと言い切れる年若い店員のまっすぐさが黒田には少しばかり眩しかった。同時に少しばかり嬉しくもあって、そんな浮ついた気持ちそのままに、じゃあな、と軽く店員に手を上げて長岡の方へ踵を返す。

「お待たせ。」

「いえ。あの、ありがとうございます。ご馳走様でした。」

「いいって。仕事の途中に割り込んだのはこっちなんだから。」

 長岡と黒田は頭一つ分以上身長差がある。ちょうどよく自分より低い位置にある長岡の頭を、ひとつぽんと撫でて黒田はさっと歩き出した。それに慌てた様子で長岡が続く。今日は愛用している大型スクーターは家で留守番をしているらしい。引きこもりがちだからたまには目一杯歩かなければと思い立っては歩いているという長岡は、歩くといった割には高めのヒールを履いていて、黒田はその足元を危なっかしく思いながら見守っていた。

「なあちゃん、転ぶなよ。」

「ふふ。大丈夫ですよ。ありがとうございます。」

 同じことをよく坂井にも言われると笑いながら長岡はサクサクと歩く。自宅まで約二駅分だというカフェから、歩いて帰るつもりだという長岡に、それならば付き合おうと黒田が提案して二人は夕日が赤く路面を照らす中のんびりと歩いていた。コツコツと長岡のヒールが鳴らす靴音が黒田の耳に軽く届いた。

「すみません、付き合っていただいてしまって。」

「いや、俺が付き合うって言ったんだからなあちゃんは気にすんなよ。俺もたまには歩かなきゃだしさ。」

「私と違って、黒田さんは運動されてるんじゃないですか?」

「たまにな。でもやっぱり仕事詰まってくるとサボるし。それ言うなら坂井がめちゃくちゃ鍛えてる。」

「ああ、たまにジム行ってますもんね…。」

「あんだけ食べるからなあ。動かないと消化できねえよな。」

「そうですね。」

 長岡との会話は自然と、坂井のことになる。車道側を自分が歩きながら黒田はぼんやりと、先ほどの会話がすぐさま実現したものだと不意に感慨にふけった。坂井の情報を横流しするといった。坂井がいない間の用心棒だとも言った。まさしくそれだ。坂井が遠方での取材を終えて戻って来れば、こうして隣を歩き車道側から長岡をかばって歩くのも無論坂井の役目になる。役目を譲るのは惜しいと思う半面、坂井がここにいないことでそこはかとなく物足りなさを感じるのだから黒田は自分の胸中がよくわからなくなった。欲しいと思うのに奪いたくない。自分自身でがんじがらめに縛られているようだ。

「なあちゃん。」

「はい?」

「ないだろうけどさ、もし坂井に泣かされたりしたら、俺のとこに一番に来いよ。」

「…え?」

「…いや、なんでもないわ。忘れて。」

「え、あの、黒田さん?」

 ぽろりと溢れた言葉には、隠せない欲が紛れていた。長岡に対する色恋としての好意をこれまで黒田は一切長岡に対して見せてこなかった。だからこそ長岡は戸惑った表情を浮かべているのだが、黒田は話はここまでと言わんばかりににこりと笑ってみせる。気づけば、あとひとつ角を曲がれば長岡のマンションに着くところまで二人は歩いてきていた。

「じゃあな。今日はありがとう。なあちゃんのお陰で久々に休みらしい休みになったよ。」

「それは良かったです。こちらこそありがとうございました。」

 折り目正しく頭を下げる長岡に、黒田はひとつ笑ってみせる。それじゃあ、と踵を返しマンションへの帰路を辿る長岡の背中を見送って、自分は駅へと進路を変える黒田の表情は、少しだけ寂しげで、一方でどこか満ち足りたものだった。その胸の内で何を思っていたのかは、黒田しか知りえなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ