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HONEY BEAT  作者: 黒乃きぃ
3/8

fAKE

 森野愛は根っからの編集者であると同時に営業としての類稀なるセンスを持っていた。

 自分が読みたいと思う作品がある。こんな話が読みたいと思う。だが森野にはそれを自分の手で形にする力はなかった。それから森野は、ならば別の誰かに形にして貰えばいいと考えた。森野の衝動的な欲望から将来の夢が決まったのは、中学の時だった。その頃にはもう、森野は自分に営業スキルが備わっていることに気がついていた。

「愛さん、次の作品のプロット持ってきました。」

「ん、ありがと。読んでいい?」

「はい。」

 長岡は森野がデビュー当初から手塩にかけている今をときめく人気作家だ。そんな作家を担当できていることを編集として誇りに思うと同時に、今のところ自分が読みたいと心揺さぶられる作品を書けるのは長岡だと森野は確信している。だからこそ、誰に何と言われようと、それこそ編集長から檄を飛ばされようと、長岡を自分の担当作家から手放す気はなかった。

「…んー。」

「何か引っかかりますか?」

「ここの展開さ、いる?」

「ああ。絶対愛さんなら突っ込んでくると思いました。」

「え、何それ。」

「ここは、このシーンの伏線にしたいんですよ。」

「…ああ、こっちの?」

「はい。」

 編集部の端にある打ち合わせスペースで森野と長岡は次回作の打ち合わせをしていた。次はミステリなんてどう?という、森野の緩やかな誘導に乗せられてか、それとも純粋にここ数作は書いていなかったからか、長岡が持参したのはミステリのプロットだった。ロジックが分解して描かれているため、プロットならそこまで複雑には感じないが、これが小説という形を持って長岡が言葉を紡げば、ひどく難解で、それでいて読み応えのある作品になるのだから、森野には毎度不思議だった。

 自分が周りからどう見られているか。比較的おちゃらけて見られることは森野自身自覚している。むしろそれを逆手にとって、やんわりと相手の懐に滑り込んでしまう。それが森野のスタイルだ。不快に思われない程度、けれど傍からみれば近い心的距離感を作り出すこと。昔からそれが自然とできていたため、やんわりと自分の要求を通すことが幼い頃から森野はうまかった。それは自然と仕事でも活きている。

 自分の読みたいと思える作品を作家に作り出させ、それができる環境を編集部内に作る。各書店への営業も、これだけ読みたいと思える作品はなかなかないと言わんばかりに、うまく働きかけられる。営業スキルというよりも場を整える才能かもしれないが、森野はそれを、愛されキャラだからかな、などと茶化してしまう。茶化されても不快にならないのが、森野の凄いところだった。

「いいんじゃない?」

「ほんとですか?」

「うん。ただ、もう少しキャラに肉付けは必要かな。重い話だからこそ、もうちょっとキャラがコミカルでもいいんじゃない?」

「…。」

「真面目にいきたい?」

「…あえてコミカルさを排除したものも、書いてみたいと思ってたんです。」

「…そっかあ。」

 長岡の作品はストーリーの厚みもさることながら、各登場人物のキャラクターが個性的な点も人気の理由だ。ここ数作はそこを意識してキャラクターの個性を掘り下げ、そこから次の展開に持っていく作品が続いていた。それはファンレターの声を反映させようとした編集部の方針であり、森野の指示でもあった。だがもともと長岡はそこまでキャラクター中心で物語を作るタイプではない。そろそろ限界を言う頃だろうと予測もできていたため、森野はそこまで驚くことなく返答した。

「なあちゃん、ここ最近難産だって言ってたもんね。いいよ。なあちゃんの書きたように書いて。」

「!…良いですか?」

「いいよー。だって、宮城泪はなあちゃんなんだから。なあちゃんが面白いと思える話になんなきゃ意味ないでしょ?」

「…大丈夫です。愛さんも納得させますから。」

 長岡は穏やかな気性だが、こと小説のことになると熱くなる。分かりやすく外に見える熱量ではない。猫目がちな瞳が今もキュッと力を強めているのを見て、森野は思わず唇の端で笑った。小説のことだけに限れば、長岡の闘争心を煽るのは容易い。今も森野の言葉は的確に長岡の闘争心をくすぐったらしい。これは面白い作品が期待できそうだと森野は一人微笑む。

「俺が納得するのって、そんなに大事?」

「大事ですよ。だって愛さんは、私が信頼する担当編集なんですから。」

 ふわりと微笑んでみせる長岡に他意はない。警戒心の強いそぶりを見せるくせに、一度懐に招き入れた相手に対してはとことん甘いのが、森野から見た長岡だった。担当になって二作品目に無事重版がかかった頃から、長岡は森野へ信頼を置くようになったらしい。そこからだ、お互いに相性で呼び合うようになった。最初の原稿を拾ったのは森野だが、当初、森野は長岡を担当することが出来なかった。これは売れると自身の元に、森野の上司が抱え込んだ為だ。長岡をデビューさせた森野の前任は今や副編集長の座についているが、長岡は彼には一切懐かなかった。森野が担当の方がのびのびと書けると、編集長の前であっさり言ってのけたほどだ。

「…俺も、なあちゃんのこと信頼してるよ。」

「ふふ、ありがとうございます。」

 森野が長岡に抱く感情は、信頼と呼べる類なのか森野自身理解できていなかった。信頼しているかしていないかと言われれば、間違いなく信頼している。とはいえそれは、どういった意味合いでの信頼かというところだ。自分の読みたいと思えるだけのクオリティを常に作り出してくれるという意味合いでの信頼なのか、それとも純粋に長岡の才能を信頼しているのか。森野にもそれがはっきりしなかった。

「じゃあ、今回はこれで進めよっか。とりあえずスケジュールはこの間打ち合わせした感じで問題なさそう?」

「問題ないです。」

「久々に締め切り余裕あるから、書きたいように書いていいよー。俺も楽しみにしてるから。」

「ありがとうございます。」

「ん、よし。今日はここまでね。また何かあったら連絡するから。」

「はい。」

 打ち合わせスペースを予約していた二時間はあっという間に経っていた。今日の内容を簡単に確認だけして、二人、荷物をまとめる。次に予約している作家たちがそろそろ集まってくる頃だと、急ぎつつスペースを抜けた。スペースを出れば案の定、次にスペースを使用する編集者と作家と思しき二人がすでに控えていたため、軽く会釈してフロア内へ進む。

「あ、どーする?編集長に挨拶してく?」

「ああ、そういえば久しぶりですね。いらっしゃるんですか?」

「んーと、あれ、いない。煙草かなあ。」

「あら。」

 小柄な森野がわざとらしく背伸びをしてぐるりとフロアを見回すが、二人のお目当ての人物は姿を消していた。確かスケジュール上では会議などはなかったはず、脳内で今日の編集部の面々の予定表を森野は思い浮かべる。おそらく次の会議前に一服しに行ったのだろうと編集長の性格から読み取り、残念だったね、談笑しながら今度はまっすぐにエレベーターホールに向かった。

 エレベーターホールに向かう道すがら、長岡には編集部内からの視線が寄せられる。大半の人間は長岡が宮城だと知っているが、中には顔と名前が一致していない者、中途入社で最近編集部に加わった者では一部宮城が女性だということを都市伝説だと思い込んでいる者もいる。森野たちの編集部で担当している作家陣で若い女流作家は人数が多くなく、そのため長岡が編集部を訪れるたびに無遠慮に好奇の視線にさらされる結果に至る。長岡はそれを気にしていない素振りだが、その実こっそりと人知れず、編集部内の態度に溜息をついているのを知っている森野は、ほんの少し歩調を上げた。

「なあちゃん今日は何で来たの?」

「スクーターです。いつも通り。」

「あの、おっきいやつ?」

「はい。気持ちいいですよ。そろそろ暖かくもなってきて。」

「風は気持ちよさそうだよね。」

 淡いカラーのライダースジャケットに、黒いパンツ、レディースにしてはいかつい印象のショートブーツという出で立ちの長岡に、森野は答えの読める質問を投げる。長岡は華奢で小柄だが、大型スクーターを愛用している。初めてそれに乗っている長岡を見た時には色々な意味で驚いた。森野の中で長岡のイメージは、アンバランスだからこそ取れている均整、といったところなのだが、スクーターに乗る長岡を見てその印象を強めた。森野は森野で車好きで、スポーツカーを乗り回しているため、そういった部分で森野と長岡は趣味が合った。気取らない雑談ができること。それも長岡の信頼を得られた要因なのだろうと森野は何と無く想像する。

「事故らないでね。なあちゃんは俺の大事な作家なんだから。」

「安全運転します。」

「うん、そうして。」

 エレベーターを待ちながら、取り留めもない会話を交わす。やがて軽やかな電子音と共にやってきたエレベーターに乗り込むと、長岡はふわりと微笑んで、一つ会釈を寄越して帰って行った。扉が閉まるのを見届けてから、森野は編集部に戻る。その瞬間、微かに森野の雰囲気が変わったことには、誰も気づかない。

「もーりー、あの子が噂の宮城泪?」

「うん、そう。見たことなかったっけ?」

「ねえよ!あんまり編集部で打ち合わせしてなかったじゃん。」

「あー、そうかも。」

 編集部に戻ったと同時に、同僚に絡まれる。へらりと軽薄な笑みを口元に貼り付けて森野はそれに対応していく。誰にも踏み込み過ぎず、踏み込まれず。おちゃらけたキャラクターを生かしてあまり悟られてはいないが、森野は人と一定以上の距離を常に保っていた。それは恐らく、誰に対しても。長岡も例外ではない。

「森野、すっごい優しい顔してたよなー。何々、惚れてんの?」

「うわ、ないわ。」

「え、そこそんなに言い切る!?」

「うん、お前の発想がないわー。」

「ひっでえ!」

 編集部内の空気を気にして、しばらく森野は長岡との打ち合わせを編集部では行わないようにしていた。それが裏目に出たかと、内心で舌打ちをする。もっとも表面上はその苛立ちは見えない。いつも通りのおちゃらけた、軽い印象の森野愛という編集者がいるだけだ。担当作家を結果的に奪われた形の、長岡の前任担当の副編集長に嫌味を飛ばされても、笑顔かそれ以上の嫌味で返してしまう、編集者がいるだけだ。それ以上でもそれ以外でもない。森野は常に、周りにどう見られているか、把握していた。そして仮面をかぶるべき場面では必ず仮面をしっかりと貼り付けていた。演じるのではない。ただ、場面ごとに合わせた笑顔を浮かべるだけだった。

「おちゃらけてるなよ、もーりー。また上になんか言われんぞ。」

「なあちゃんがいい作品を書けるようにサポートするのが俺の仕事ですし?おちゃらけてるつもりないんだけどなあ。」

「まあ、お前はそうだもんなあ…。」

 森野の作家へのサポートの仕方を知っている同僚は、笑ってそれ以上は言わなかった。へらりとしている森野は、視界の端に件の副編集長の姿を捉え、より一層、笑みを深く貼り付けた。女性的と言われる見た目も、有効に使う。にこりと毒なく笑う表情が、相手の戦意を奪うことを知っている森野は、むしろ自分から声を掛けに向かった。同僚たちは、唖然としていたが。

「あ、副編。惜しいなあ、今さっきまでなあちゃん来てたのに。」

 にっこり。純粋に久しぶりに挨拶する機会だったのに、と言っている様子で。その実自分の手から長岡が取り上げられないよう、周囲へ牽制する意味も込めて、森野は敢えて自分から相手へ笑いかけた。そこに一切の毒も敵意も感じられず、相手が戦意を喪失するのは織り込み済みだった。案の定副編集長はぐうの音も出ない様子で、そう、とだけ返事を寄越した。それに森野はまたにこりと笑ってみせる。

「またなあちゃんに来てくれるよう言いますね。あの子、あんまり編集部好きじゃないみたいで。何でかなあ…。」

 後半は、副編集長に対してというより編集部内へ向けられた言葉だった。純粋な疑問符を投げ掛けるようでいて、その実、内容は牽制でしかない。しかし、森野が牽制の為に言葉を選んでいるように周りには一切見えなかった。唇を尖らせて、小首をかしげてみせる。女性的な仕草だが違和感は一切なく、隙なく計算された森野の言動に、先刻までにわかに長岡について野次馬のテンションで盛り上がっていた編集部は静まった。静まった編集部に、あれ?どうかした?等と声をかければそれがトドメになり、今度こそ誰も長岡について口にしなくなった。いつの間にか、副編集長も森野の傍からフェードアウトしている。それに森野は一つ、誰にも気づかれぬよう小さく息を吐いた。これでまたしばらく、安泰は保たれた。

「…なんか、随分大変なんだな。」

「ほんとだよー。もう。俺の仕事多すぎない?俺、キャップでもいいくらいじゃない?」

 週末、別のフロアで残業していた黒田を見つけ出した森野は、無理矢理黒田を引きずって居酒屋に来ていた。翌日はお互いに休日出勤が確定している。だが飲まねばやっていられないと言わんばかりに、二人ともアルコールの量を控えるつもりは毛頭なかった。ビールをジョッキで三杯と、ハイボールを二杯。程よくほろ酔いになったところで、森野は黒田にここ数日の愚痴をぶつけていた。あまり周囲に愚痴をこぼす人間ではなかったのだが、長岡に対する編集部の態度はいい加減目に余るものがあった。事情や長岡自身を知る黒田に対しては自然と口が滑る。

「なあちゃんがうちでデビューしてから何年経ってると思ってんの?何で何年経ってもデビューした時と同じ感じなの?そりゃあなあちゃんだって居心地悪いよ。」

「まぁな。なあちゃんも我慢しそうだから余計気になるよな。」

「そーなの!野郎共がヒソヒソ噂話してるとこ歩かせちゃったんだけどさ、なあちゃん我慢してるの。何なの、もう!」

 何年経っても不躾な視線を寄越し、ヒソヒソと声を潜め、あれが宮城泪かと噂する編集部内の空気。自分が仮に同じような環境に置かれたとすれば、我慢ならないと森野は思う。だからこそそれを我慢する長岡と、編集部内の空気に苛立ちが募っていく。不満を飲み込む長岡を癒すことは容易ではない上に、編集者の野次馬根性をどうにかするのは更に難儀だ。自分の出来うる限界値を、森野は比較的正しく理解している。現状は自分の手に負えるものではない。だが、このまま放置していればいつか長岡が自分の手から離れてしまうのではないか。それが森野には気がかりだった。

「まあ、さ。森野がここでキレたからって、何が変わるわけでもねえだろ?そしたらなあちゃんをサポートしてやるしかないんじゃねえの。」

「…そうなんだけどさ。してるつもりなんだけどさ。」

「けど?」

「でもさ…あの子は頑張り屋で、すぐ無理しちゃうから。だから、どうにかしてあげなきゃって思うんだよね。」

「…そうだな。」

 森野に対し長岡が、心から信頼を置いているのは傍から見てもわかる。無邪気ともいえる長岡のその態度に、心地よさにも似た愉悦と、同じだけの罪悪感を森野は抱いている。森野にとって長岡は、自分が読みたいと思える作品を的確に作り出せる作家、というだけでしかない。いつか長岡が森野にとって読みたいと思える作家でなくなれば、仮に長岡の作品がいつまでも売れ続けたとしても、森野は迷わず手を放すだろう。自分の欲求を満たしてくれる作家を、新しく探すだろう。今はただ、長岡以上に読みたいと思える作家がいないために森野も長岡に執着しているが、長岡以上の作家に出会えば、恐らくはその時も、森野は長岡の担当を外れる選択をとるだろう。

 森野が世間や編集部から長岡を守るのは、ただ、自分の欲求のためだけだ。長岡自身のためではない。だがそれを長岡が知る由もなく、だからこそ森野への信頼を強めていく。いっそ、素直に自分の行動原理を長岡に明かしてしまおうかとすら森野は悩んでいる。黒田は黒田で、森野がなぜ編集者になったかを知っており、森野が今長岡を守るのに躍起になっている理由も、ともすれば当人たちよりも冷静に把握していた。

 黒田からすれば森野が思い悩むのも当然だった。森野は自分の欲求に素直であり、生き方もそれに準じていて分かりやすい。自身の願いをかなえるために的確に動ける人間だが、その一方で非情にはなり切れないタイプの男だ。口では軽薄なことを言ってみせる割に、相手を簡単には切り捨てられない。長岡のように庇護欲をあおるタイプが相手ならなおさらだ。

「…今はまだ、なあちゃんを手放す気はないんだろ?お前。」

「うん。サラサラないよ。」

 店員が新しく運んできたハイボールを一気に半分ほどあおって、若干座った目で森野は黒田を見やる。酔っぱらった森野に苦笑いをこぼしつつ、黒田は今の素直な感想を述べてやった。今の黒田には、これ以上の言葉を森野にかけてやることはできない。

「なら仕方ねえだろ。乗り掛かった舟だ。なあちゃんをサポートしてやれよ。編集部の奴らをどうにかするなんてどうせ無理だ。」

 あいつら基本がバカなんだから。付け加えられたその言葉は吐き捨てるようで、自嘲も含んでいる。自分たちも同じ穴の狢なのだ。編集者たるもの、野次馬根性がなければ、所詮這い上がれない。だからこそ、編集部の人間に働きかけ態度を改めさせるのは、限りなく不可能に近い。むしろそこに時間を割くのであれば、別の方法に力を注ぐべきだ。態度に頭を抱えるのはいっそ仕方がないとあきらめざるを得ない。黒田の言葉に森野は、そうだよねー、と気のない返事をし、グラスの残りをあおる。

「…なあちゃんも俺には懐いてくれてるし。もうちょっと弱音も吐いてもらえればいっか。」

「ガス抜きしてやるしかねえだろ。なんかあれば俺も手伝うから。」

「うん、黒田くんはいらない。」

「おい。散々愚痴っといてそれかよ。」

「はいはい。…ありがとーね。」

「おう。」

 黒田に多少なり愚痴を吐き出したことで、森野の心境はだいぶすっきりしていた。無論、頭を悩ます様々な問題にいらだちは残っているが、自分のやるべきことが決まっただけ心は軽かった。翌日の休日出勤もどうにか乗り切れそうだと、ハイボールのお代わりを店員に頼んだ。店員を呼ぶ森野に対し、飲みすぎじゃないかと黒田は問うのだが、そう言いつつ黒田自身もお代わりを注文している。俺はザルだからいいんだよ、とうそぶきつつグラスの中身を勢いよくあおる黒田と、新しく運ばれてきたアルコールで何に対してというわけではなかったが乾杯をした。

「…頭いったい。」

 翌日、案の定というか自業自得というか、森野は二日酔いに悩まされていた。ガンガンと痛む頭を抱えつつ、ため込んでいた書類たちを処理していく。事務処理も苦手というわけではないのだが、ついつい後回しにしてしまう。そろそろ期限が近づいてきた書類たちを処理してやらねばと、こうしていそいそと人の少ない会社にやってきている。静かなフロア内は確かに仕事ははかどるが、無音状態はかえって気が滅入ってしまう。毎週のごとく出社している黒田は本当に仕事人間なんだろうと、鈍痛のする頭でぼんやりと森野は考える。

「…えっとー?あ、この書類先やんなきゃじゃん。」

 パタパタとノートパソコンのキーボードを打鍵しながら、片手で書類の区分もしていく。提出期限が先のものは基本的に後回しだ。ざっくりと優先順位をつけてから進めてしまえば、窓の外に夕日が沈む頃には、目標としていた分までは処理が終わった。

「よし、俺ってやればできる子じゃんー。終わりー。」

 処理した書類たちの最終チェックまで済ませ、森野は椅子の上、ぐっと背を伸ばす。事務処理に丸めていた背骨が伸び、バキバキと鈍い音がした。デスクの上、ノートパソコンとつないで充電しつつ放置していたスマートフォンを数時間ぶりに手にする。昼休憩をとった際に数度長岡とメールをしていたが、その返信が入っているのと、残りは友人たちからの中身のない雑談メールだった。長岡からのメールはさらっと目を通し、週明けにも必要な参考書籍を送り届けることを連絡し、再度椅子の上で体を伸ばす。背もたれにぐったりともたれかかれば、自然とため息がこぼれた。

「愛さん?」

 目標としていた分まで書類は片づけたしと、森野はそそくさと会社を出る。途中のぞいたフロアでは、黒田が黙々と仕事をしている背中を見かけたが敢えて声はかけなかった。黒田が休日にわざわざ出勤しているのは、集中して仕事を片付けたいためだと知っている。帰る前にコーヒーでも飲んでいこうと、すぐ近くのコーヒーチェーン店に入れば、不意に、聞きなれた声に呼ばれた。慌ててそちらを見やれば、驚いた様子の長岡がトレー片手に森野を見つめていた。

「なあちゃん!」

「愛さん、今日お休みじゃないんですか?」

 お疲れ様です、と頭を下げた長岡に、まあねえ、とどちらともとれる返事をし、森野は曖昧に笑って見せる。とりあえずと森野もコーヒーを買って長岡が先に取っていた席に、自然と相席する流れになった。

「お休みだったんだけどねー。ちょっと仕事溜まってたんだよね。事務処理ってやつ。」

「なるほど。それで今日はメールくださってたんですね。」

「え?」

「愛さん、お休みの日は仕事のメールしないでしょう?だからおかしいなあとは思ってたんです。」

 確かに、と森野は思わず頷いていた。昼休憩の際に長岡にメールをしたのは、ある意味で癖のようなものだった。必要な参考資料はないか、特に新しい作品の書き初めの時期はよく確認を取っている。先日の打ち合わせからすぐに書き始めている長岡に確認の連絡を入れたのは、森野にとって自然なことだったが、基本的に森野は公私を切り分けている。土日は比較的長岡とメールをしたとしてもフランクな、それこそ友人同士のような中身のないものが中心となっていたため、長岡はすぐに気づいたらしい。

「そっかー、…なあちゃんよく気付いたね。」

「いやいや、気付きますよ。それに愛さん、二日酔いですよね。」

「え、それもわかっちゃう!?」

「だって、顔色悪いですもん。」

 くすくすと笑う長岡の表情はリラックスしていて、森野はそれにほっと息を吐いた。編集部内をエレベーターホールまで歩いた時のような、傷ついた表情とは違う。

「なあちゃんは?どうしてここに?」

「ちょっと取材です。この近くで今、美術展やっていて。ほら、愛さんがいらないんじゃ?って言ってたシーン。あのシーンの、」

「ああ、作品の展示とか?」

「そうそう。あんまり美術展も機会がないと行かないですから。それで、行ってきたんです。」

 楽しかったですよ、と言いながら、長岡は嬉々とした表情で買ってきたらしいパンフレットを森野に広げて見せる。楽しげに感想を述べる長岡に、森野は適度に相槌を打ちながら、多少の居心地の悪さを感じていた。

 ここ最近は、常にそうだ。長岡の安心しきった表情を見ていると、無性に居心地が悪くなる。信頼しすぎないでほしいと、懇願してしまいたくなる。長岡が見ている森野愛は、自分であって自分ではないと言ってしまいたい衝動に駆られていた。長岡という作家自身を愛し守る担当ではないのだと、自身の欲求のためだけに担当しているだけなのだと、長岡のまっすぐな瞳に見つめられるたびに、森野は頭を抱えたい思いだった。最も、長岡が森野の内情の一切を理解していないとは毛頭思っていない。長岡は長岡で、洞察力に優れている。森野が多少なり打算をもって長岡を担当していることは長岡も理解しているし、それをお互いに把握はしている。だがそれでも、無償の信頼を寄せられるたびに、森野はどこか息苦しさを覚えていた。信頼はむしろ自身から得られるよう働きかけてきたし、信頼関係がなければ思ったような作品を二人三脚で生み出すことはできない。

「楽しかったみたいだね。」

「はい、とても。愛さんは興味ないですか?」

「んー。仕事でたまに行くけどねー。自分からは行かないかな。」

「なるほど。愛さん、どっちかっていうとアウトドアとか、運動のがお好きでしたもんね。」

「そうそう。フットサルやってるからね。明日は朝からだよー。」

「頑張ってくださいね。」

「うん、ありがと。」

 ふわり、とほほ笑む長岡の表情はだいぶ見慣れたものだ。以前は本当にたまにしか見ることができなかったが、何度もお互いに締め切り前の修羅場を乗り越え、缶詰状態での追い込みを共にしたおかげか、長岡も森野に対しては表情豊かになった。

「…なあちゃん。」

「はい?」

「外野の声なんて、気にしないでいいからね。」

「…。」

 唐突な森野の言葉に長岡は一瞬、目を見開く。猫目がちな目がぱちぱちと瞬きを繰り返すのを見て、森野は思う。いつまでかはわからないが、少なからずまだしばらくは、森野は長岡の担当を離れることはできないだろう。それは、長岡の作品が森野を引き付けるからで、長岡以上の作家に出会う予兆もないからだ。興味を失ったものや人に対し、それまでの執着があるために相手から追いすがられても淡々と切り捨てるのが森野の常だった。そしてきっとそれは、長岡に対しても、いつか、切り捨てる日が来るだろう。そんな日が来ることを長岡は予想もしていないだろうし、森野もまだしばらくは、予想できないでいる。とはいえいつか訪れるであろうその日を、そして森野の行動理念を、先に明かしてしまうほうが長岡にとっては信頼を裏切られたとならず、傷は少ないのではないかと考えたこともある。

「大丈夫です。愛さんが、そう言ってくれるから。」

「…うん。」

「でもどうしてもだめな時は、相談させてください。」

「そうして。いくらでも、なあちゃんの相談なら聞いてあげる。」

「はい。ありがとうございます。」

 ふわりと微笑む長岡は、純粋な目でまっすぐ森野を見つめている。その視線が酷く胸の内を荒らしていくのを感じながら、森野は必死に、長岡と目線を合わせた。守ると決めた作家ならば、いつか手を離すその時まで、守りぬかなければならない。自身の行動理念を無理に明かす必要はない。それらを明かして、不用意に傷つけるくらいならば、いっそ全て飲み込んでしまえばいい。密やかな決意を固めて、森野はにんまりとほほえんだ。

「なあちゃんは、今の俺の全てだから。」

 矛盾した感情と葛藤を抱えながら笑ってみせる森野が仕舞い込んだ感情を、長岡も気づかないわけではない。何か一物抱えていることはずっと気づいている。けれど気づかないふりは簡単だ。森野が隠す何かが自身を思ってのことだということだけは、長岡にもわかる。分かっていたから、長岡はもう一つ、森野の言葉に心からの笑みを返した。

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