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坂井明人は、グルメライターである。
学生時代から全国各地の料理屋をめぐり、大学では地域のフリーペーパーの記者をしていた。柔らかい文体と、読み手の食欲を的確に誘う言葉選びが受け、二十代の頃から女性向けの料理雑誌で連載を持つほどの人気を確立した。無論、グルメライターもニッチな職種ではあるので、人気があるとはいえそこまで表立って、というわけではない。テレビでのコメンテーターのような依頼が入ることもあるが、自分はあくまでもライターだからとコメントを寄せる程度で一切テレビに出ることはない。だからこそ彼は、料理雑誌を愛読する層からは熱い支持を得ながらも、雑誌を読まない人々からすれば
誰?と言われるような、微妙かつ比較的美味しい地位にいた。
グルメライターとして全国各地を飛び回る坂井が長岡と出会ったのは、偶然の産物だった。坂井が新しく連載を持ち出した雑誌の連載コーナーの担当編集と、長岡の担当編集が知り合いだった。それが全てのきっかけだった。坂井はそこまで積極的に小説を読む人間ではなかったが、文筆業の片隅に身を置く立場。売れ筋の作品くらいは念のためチェックをする。担当と打ち合わせの合間の雑談で、偶然話題に上ったのが、長岡もとい宮城泪だった。
「坂井は読んだ?宮城泪。」
「ん?うん、読んだよ。久々に面白いなって思った。黒田くんも読んだんだ?」
「まあな。担当は全然違うけど、うちの今一番の売り出し作家だからな。」
「あ、黒田くんのところだったっけ。全然どこが出してるか見てなかった。」
「見ろよ。一番大事だろ、そこ。」
黒田宏昌、坂井が連載を抱える雑誌の連載コーナーを担当する編集者だ。料理雑誌を担当していると言えば何人かは首を傾げたくなるような粗野な印象を与える、雄々しい風貌。すっきりとした首筋と鎖骨を惜しげもなく晒すような深いVネックのぴったりとしたニットを着た、目鼻立ちのはっきりとしたスタイルのいい男がカフェでケーキを食べる姿は物珍しいらしく、彼は店内の女性の視線を知らずのうちに集めていた。それを坂井は羨ましいとも思わずただ、モテる男は大変だろうなあという月並みな感想を抱きながら彼を眺めていた。
「俺の同期が担当してるんだよ、宮城さん。」
「へええ。」
「面白い子だよ、彼女。」
「ふーん。そっか。」
ようやく運ばれてきたカフェ自慢のふわふわの二段重ねのパンケーキ。ナイフとフォークを手に、さて、どう食べようかとそれを見つめていたせいで、坂井の反応は一瞬遅れた。黒田の発言を流してからたっぷり二秒の沈黙がテーブルに訪れる。流したはずの黒田の言葉に何か引っかかるものを感じて、坂井は思わず手にしたはずのナイフとフォークをテーブルに戻した。
「…って、え!?彼女!?」
「そう。彼女。」
「…誰が?」
「今をときめく宮城泪が。女の子。」
「はあ!?」
まだ宮城の性別が世間に知られる前のこと。カフェの一番奥の席だったからいいものの、黒田の発言は聞く人が聞けば一瞬でインターネット上に拡散されるようなビッグニュースだった。驚いて大声をあげた坂井は、ハッと我に返って声をひそめつつ黒田の方に少し体を寄せる。
「女性なの?てっきり男性だと思ってたんだけど。」
「俺もそう思ってたんだけどさ。同期が森野っていうんだけどな、森野にビックリするからって会わされて。マジでビビった。」
「ていうか、会ったんだ。」
「おう。お前も会う?多分、声かければ大丈夫だと思うぞ。」
「え、」
黒田の言葉に、思わず坂井は考え込む。男性だと思ってた人気作家が実は女性だった。これはスクープだし、ジャンルは違えど記事を書いて生計を立てている身としては純粋に気になる。だが記者としてではなく、一読者としては複雑な気持ちもあった。まだ数作しか読んではいないものの、宮城の作品は坂井の好みで、今日もこの打ち合わせの帰りにまだ持っていない宮城の作品の残りを購入する予定でいる。つまりは、なりたてではあるもののファンなのだ。憧れの作家に会えるかもしれないという期待と、憧れの存在に近づきすぎたくないという二律背反に、坂井は片手で作った拳を軽く眉間に当てた。
「なんだ、即決かと思ってたのに。」
「いや、うん…即決、したいところなんだけどねえ。気になるし。」
でもね、と坂井は黒田に素直な考えを伝えた。それに黒田はなるほど、と頷き、顎に軽く手を添えて考え込むそぶりを見せる。
「まあ、ファンだと気持ち的には複雑になるかもな。憧れは憧れのままでってやつだろ?」
「うん、まあ、そんなところ。」
黒田の言葉にため息まじりに同意して、坂井はようやくパンケーキにナイフを入れた
。少しばかり冷めてしまったようだが、ふわふわの生地はナイフを入れた圧で潰れることなくふんわりと弾力を返してくる。きめの細かい断面に染みるよう、たっぷりとカフェ自慢のメープルシロップをかければ、一気に食欲をそそる甘い香りが漂った。大きめの一口を頬張れば、口の中いっぱいに生地の旨味とバターの風味、それを邪魔しない優しいメープルシロップの味が広がる。最近出来たばかりのカフェだが、これは当たりだと坂井は目を閉じ、うっとりとパンケーキを咀嚼しながら思う。パンケーキを頬張っている瞬間は、それまでの話題は一瞬、意識から飛んでいた。
「…ほんっと美味そうに食うよなあ。」
「そう?」
「おう。」
黒田は分かりやすく男味溢れる色男といった見目をしているが、坂井は坂井で整った容姿をしている。少し長めの前髪がかかる、大きくパッチリとした瞳。中性的な顔立ちに色気を添える泣きぼくろに、細身ながら鍛えているのがうかがえるがっちりとした肩周り。浅黒い肌の黒田とは対照的に色白だからか、若干華奢にも見えるものの、けして貧弱には見えない。おっとりとした口調そのままに穏やかという形容詞が似合う男が、うっとりとした表情でパンケーキを頬張る様はいっそ微笑ましかった。
「…多分、宮城さんとお前、話し合うと思うよ。」
「え?」
「すんごい美味そうに食うんだよ、彼女も。」
「…そうなの?」
黒田のその言葉に坂井は思わず身を乗り出してしまう。会ってみたいと思わせる興味を的確にくすぐられ、途端にそわそわとしだす坂井のわかりやすい様子に、思わず黒田は唇の端で小さく笑った。
「森野に連絡、取ってみるから。」
「…うん。」
かくしてその一週間後、坂井と宮城はそれぞれの担当編集と共に出会うこととなった。会食の場は、無論坂井が選んだ。味はもちろんだが、周りに気を使わず会話も楽しめる店でなくてはならない。そして相手は女性だ。どんなタイプかは想像もつかないが、というより小説のイメージからまず女性作家と思いもよらなかった辺り、作品から好みを探ることも出来ない。だが少なからず女性受けも悪くないだろう店を選ぶ必要がある。悩みに悩んで、知り合いの料理人が出している、こじんまりとしたイタリアンの店をセレクトした。駅から近いため常に繁盛している店だが、奥に貸切用の個室がある。何より知人の店という事で、坂井としては気も楽だ。
食事会の当日、坂井はそわそわと落ち着かない心持で会場の店にいた。少し早めに集合した宮城以外の面々で、一旦挨拶を済ます。宮城の担当であり、黒田の悪友は森野愛といった。女性に多い名前だが、森野はれっきとした男性だ。女みたいでしょ?といたずらっぽく笑う森野は、名前の通りというかなんというか、可愛らしいという表現がぴったりの容姿をしていた。少し長めの前髪をサイドに流して、厚みのあるぽってりとした唇で微笑む姿は、女性ですと言い切られれば納得しかねない色気のようなものも纏っていた。
「あ、ついたみたい。俺、迎えに行ってくんね。」
「おう。」
テーブルの上に投げ出されていた森野のスマートフォンがメッセージの受信を告げる。内容を確認した森野がさっと席を立つと、それを見送ってから黒田は小さくため息をついた。
「お前さあ、緊張しすぎだろ。」
「…しょうがないでしょ。緊張したって。」
「まあ、気持ちはわかんねえでもないけどさ。」
ぽつりぽつりと言葉を吐き出しながら、間をつなぐように坂井はお冷をあおる。そわそわとした雰囲気を隠すことのできていない坂井にもう一度ため息をついて、黒田は手にしていたおしぼりを置いた。そんな二人の耳に、かすかに足音が届く。
「はい、ここだよー。」
「…失礼します。」
ゆるい口調の森野に連れられてきたのは、一人の小柄な女性だった。律儀に下げられた頭と、それによってさらりと揺れる長い黒髪。顔を上げた女性に、坂井は一瞬で目を奪われた。きつい目元というよりかは、猫目がちといったほうがしっくりくる、大きな瞳。日にあまり当たらないのだろう透けるような白い肌と、緊張でかすかに色づく頬。自分より年下なのだろうこの女性こそが、自分のあこがれる作家。そう思えば、坂井の心臓は自然と高鳴った。
「よう、泪ちゃん。元気か?」
「ご無沙汰してます、黒田さん。ええ。変わりありません。」
「なあちゃん、こっちに荷物置けるよ。」
「愛さん、ありがとう。じゃ、これ良いですか?」
「おっけー。」
ほら、と黒田に促され黒田と森野に挟まれる宮城泪に、ようやく坂井は名刺片手に近づく。そんな坂井の姿に気づき、宮城も慌てて坂井のほうに足を進めた。
「えっと、初めまして。グルメライターをやってます、坂井明人です。」
「作家をしてます、宮城泪です。初めまして。」
ぺこり、とお互いに頭を下げる。名刺がないのだという宮城に、一応、と自分の名刺を差し出せば、宮城はそれを大切そうに受け取った。名刺の名前のあたりを、細い指先がなぞる。
「坂井さんって、あの、雑誌で連載されてる、」
名刺から上げられた眼差しは、どこかキラキラとして見えた。自己紹介の際の声よりも、幾分弾んだ声音で問われ、坂井はおや、と思いながら首を縦に振った。まさか自分を彼女は知っているのだろうかと疑問符を浮かべていたのだが、次の瞬間それは肯定される。
「はい、そうです。」
「昨日発売のやつ、読みました。あのお店、私も大好きなので。」
「そうなんですか?結構、マニアックな場所ですよね。」
「行きづらい場所ですよね。でも紹介されてたマフィンのほかに、スコーンが絶品で。」
「ああ!チョコチップのは、俺も頂きました。うまいですよね!」
「あれとあと、キャラメルのがあるの、ご存知ですか?」
「え、それは知らないです。」
「…おーい、お前ら。」
あこがれの人を前にした緊張はどこへやら。自身の連載しているコーナーで取り上げたカフェは、駅から離れており、かつ、駐車場もないという便の悪い立地の知る人ぞ知る一軒だった。それを宮城は知っているという。かつ、自分のまだ食べられていないメニューまで知っている。思わず身を乗り出すように会話を弾ませようとしていた二人だったが、あきれたような黒田の声がそれを制した。
「盛り上がるのはいいんだけどさ。座ろうぜ。」
「そうだよー。ごはん食べよ?」
「あ、そうだね。」
失礼しました、と苦笑いを浮かべて見せれば、宮城は気にした風もなくゆるく微笑み返して首を振った。そのさり気ない微笑みに、坂井は年甲斐もなく胸のうちがときめくのを感じていた。どうにかこうにか全員が着席したタイミングで、坂井の知人であるオーナーが食前酒を運んでくる。アルコールは大丈夫か聞けば、宮城はやはり控えめに微笑みながら好きだと返した。それに安心して、グラスを配る。
「じゃ、乾杯。」
一番の年長者である黒田の音頭に合わせて四人、グラスを合わせる。アルコール度数の低いデザートワインは宮城の口に合ったらしく、一口飲んですぐに、美味しいと頬を緩ませていた。それを何となくソワソワしながら坂井は見守る。やはりグルメライターのプライドというか、自分の選択に自信はあるものの不安は拭えない。とりあえずはと皆で前菜に箸を伸ばす。
いただきます、と言いながら箸を持つ宮城がカルパッチョを口に運ぶのを、最初こそ気がかりで盗み見ていた坂井だったが、いつの間にか盗み見るでなく、目を奪われていた。まず宮城の食べ方が綺麗だったことがあったが、それよりも、食べる姿が何よりも、坂井の目を奪った。一口頬張って、宮城は一瞬、目を丸くし、次の瞬間には破顔する。ふにゃり、と音が聞こえそうなくらいほどけた表情は、言葉にするよりもよほど明確に感想を表していた。
「なあちゃん、美味しい?」
「すごく美味しいです…!」
微笑ましげに隣の席の宮城が食べるのを見ていた森野が優しく問いかける。それに、しみじみといった様子で感想を口にする宮城は、大きめの瞳をキラキラと輝かせていた。出会い頭、そこまで表情豊かなタイプではなさそうだと坂井は感じていたが、そうそうにそれを覆された心持ちだった。
「な?俺の言った通りだったろ。」
「…うん、そうだね。」
向かいの席に座る宮城たちに聞こえないよう、小声で黒田が耳打ちする。美味しそうに食べるとは聞いていたが、ここまで幸せそうに食べるとは思ってもみなかった。一緒に食べている人間まで、思わず笑顔になるような、そんな食べっぷりだった。坂井は自分が選んだ店で美味しいと人が食べる姿を見るのが好きだったが、今はそれ以上に心躍っているのを自覚していた。美味しいと食べてくれる人と、自分が好きな料理を食べること。それが何よりも自分自身幸せな気持ちになる。美味しいという感想を宮城からも聞く前から自分まで笑顔になっていることに、坂井は少しの驚きと、確かな幸福感を抱いていた。
「気に入ってもらえました?」
「はい、とても!」
自分も前菜を口にして、やはり知人の腕は確かだと舌鼓を打ちつつ、宮城に問いかける。すると宮城は、先ほど森野に向けたのと同じ、キラキラとした瞳でにっこりと微笑んで見せた。美味しいと素直に感想を口にして、口だけでなく心から美味しいと思っているのだろうリアクションを見せる宮城が微笑ましくて、坂井はついつい、これも美味しい、あれも美味しいと運ばれてきた料理を甲斐甲斐しく取り分けてやった。その度に宮城はすみませんと恐縮するのだが、一口食べてはやはり破顔して見せて、その表情に坂井だけでなく、黒田と森野も自然と笑みを浮かべていた。
「そういえば黒田くんがわざわざ人を会わせようとするなんて珍しくない?」
食事も進み、だいぶ空気もほぐれた頃。唐突に森野が言葉を投げた。黒田の鶴の一声で集まった今日の食事会だ。確かに気になる質問に森野だけでなく坂井と宮城も興味津々といった目線を向ける。
「あ?あー…なんとなく。」
「なにそれ。黒田くんの気まぐれに付き合わされたってこと?ないわー。」
逡巡するような間の後で言葉を濁した黒田に坂井は一瞬で違和感を覚えたが、自分より付き合いの長い森野が気にしたそぶりを見せないため、特に言葉にはしない。なあちゃんだって忙しいんだからね!とプリプリ怒って見せながら、森野は頬を膨らませている。三十代の男性がやってもそれが似合うのだから、森野の容姿の可愛らしさは末恐ろしい。
「まあまあ。楽しいからいいじゃないですか。」
「なあちゃんは優しいねえ。」
「そんなことないですよ。それに私、機会がないとすぐ引きこもりますし。」
お声がけくださってありがとうございます。それまで両手で抱えていたグラスをテーブルに戻して、宮城は折り目正しく頭をさげる。それに慌てたのは坂井だ。元はと言えば自分が会ってみたいと無理を言ったことから始まった食事会だ。お礼を言うことはあっても、言われることはない。
「いやいや、俺が黒田くんに言われて、会ってみたいって言っただけなんで。そんな、」
「…実は私、坂井さんのファンなんです。」
「え!?」
「あっきーの連載、学生時代から読んでましたから。」
「え…え!?」
「だからお会い出来るって聞いて、嬉しかったんです。」
まさかの宮城の爆弾発言に、坂井は瞬時にフリーズする。え?と声を上げた後驚きすぎたのか固まってしまった坂井に、黒田は堪えきれず腹を抱えて笑った。
あっきー、とは坂井がだいぶ前に使用していたペンネームみたいなものである。女性向けのファッション誌の、今人気の食事店を紹介する小さな連載。人気女性コラムニストたちばかりが連載を持つ中、読者ページの片隅のコーナーとはいえ、男性の名前があるのは違和感があるという編集部の意向だった。坂井の下の名前をもじってつけたあっきーという愛称で坂井はそれから五年ほど連載を担当した。今現在はコーナーの紙面サイズを少し大きくして、本名で連載を続けさせてもらっている。それはひとえに、坂井の文体が人気を博した事や悲喜こもごもがあったのだが、長くなるので割愛する。
とはいえ、そんなあっきー時代を知る人は少ない。インターネットで略歴を調べれば無論出てくる情報ではあるが、それをリアルタイムで読んでいたというのはなかなかにレアなファンだ。多大に照れながら、坂井は頬を掻きつつ小声で礼を言った。頬を染める坂井に宮城は薄く微笑んだままだ。
「なあちゃん、お気に入りの記事はスクラップしてるもんね?」
「…いつの間に見たんですか…。」
森野が茶々を入れるように宮城の脇腹を肘でつつく。それに宮城は、呆れたような遠い目をして迫り来る肘を受け止めた。スクラップという単語がひどく気になったものの、これはチャンス、と坂井は小さく息をつく。照れの残る坂井の姿に吹き出しそうになるのを堪えるように、黒田は盗み見ていた坂井の横顔から視線を逸らしグラスを煽った。
「あの、俺も…宮城さんのファンで。」
「え、」
「あ、て言っても、まだまだにわかなんですけどね。でも、悩んだけど、黒田くんにお願いしてよかった。」
「…ガッカリしませんでしたか?」
「え?なんで?」
自身のファンだという坂井に、宮城は一瞬表情を暗くする。意を決したように一つ息をつくと、静かに問いかけた。その質問の内容が坂井には最初、うまく理解できなかった。きょとん、としてみせる坂井を見て、なぜか森野がにんまりと笑う。ほら、とどこか弾んだ声で宮城の肩を叩く森野の様子に、坂井は小首を傾げた。
「いや、あの…こんな小娘がって、思いませんか?」
「思わないですよ。」
絞り出すように吐露された宮城の不安は、人気作家ともてはやされる故か。デビューして間もないにも関わらず一気に売れたことにより、多少なり居心地の悪い思いをする場面もあるのだろう。キャリアを重視する論評家、作家も中には勿論いる。そうした者たちから宮城の作品は常に辛口な批評を受けていた。中には明らかに嫉妬ややっかみと分かるものもあったが、坂井から見れば宮城はまだ若い。歳若い女性が多くの年長者から酷評されれば萎縮するのも無理はないだろう。もっとも、作品や作品の後書き、つい先日から始まったブログからはそういった姿は一切見えないが。
「俺は、宮城さんの作品の…まだにわかだけど、ファンです。あんなに素敵な作品を書く人はどんな人だろうって思ってた。宮城さんは、確かに作品から受けるイメージで想像してたのとは違ったけれど、すごく素敵な人だと思う。だから、不安になることなんかないよ。」
「坂井、さん…。」
「あっ、なんか偉そうに…すみません。」
宮城の不安を間髪入れず否定した坂井は、強く言葉を紡いだ。心ない外野の声で、宮城が筆を置くのだけは許せないと思ったのだ。そして何より、ファンとしての素直な言葉であると同時に、この少しの時間、会話を通して坂井は宮城に好感を抱いていた。途中で気がついたが、森野も黒田も宮城に対し、ある種庇護欲のようなものを抱いている。それは確かに坂井の胸にも芽生え始めていた。
強く宮城の言葉を否定したものの、我に返った坂井は居た堪れなくなり頬をかいた。坂井は普段そこまで熱くなるタイプではない。珍しく力説してしまったことに気恥ずかしさが今更ながら芽生える。
「…いえ。坂井さん、ありがとうございます。」
ふわり、と。それこそ花が咲いたように宮城は笑った。その笑顔に、一瞬で坂井は目を奪われた。否が応でも胸の内が高鳴るのを感じる。おかしいな、と思わず坂井は一人口には出さず思う。一目惚れなんてするタイプではなかったのに。そんな坂井の些細な変化を隣の席から黒田が、目を細めて見ていた。黒田だけは坂井が恋に落ちたことに気がついていた。
「…そういえばさ、なんでなあちゃんって森野は呼んでんの?」
少しばかりしんみりとした空気を入れ替えるように、黒田が少しばかり明るい声で問いかける。グラスを傾けつつ宮城の方を見やれば、宮城は心得たように笑った。
「私の本名とペンネームと、両方に引っ掛けてるんですよ。」
「へー。ってかペンネームだったの?」
「はい。本名は長岡涙花といいます。長い岡に、涙の花って書くんです。」
「…あ、そういうことか。」
「そういうことです。」
「学生時代からのあだ名らしいよ?」
「はい。中学ではもう、なあさんって言われてたかなあ…。」
苗字の一文字目、涙花という名前もなみだという一文字目がなで始まる。そこからもじって付けられたあだ名だという宮城もとい長岡に、黒田と坂井は、ほう、とリアクションを打つ。とはいえ引っかかったのは、長岡はなあさんと言ったのに対し、森野はなあちゃんと呼んでいる点だ。目線だけで疑問符を訴えると、森野は白い歯を見せて口角を上げて見せた。
「だって、ちゃん付けのほうが可愛いでしょ?」
そんな理由か、とその場にいた全員ががくりと肩を落としたのは言うまでもない。そんな三人には気づかず、というよりも見て見ぬ振りをして、森野は一人マイペースに、ね?などと同意を求めつつ長岡の頭を撫でていた。長岡も慣れた様子で、まあ、だとか、ああ、だとか気の無い返事をしている。
「お二人も呼びやすいように呼んでいただいて大丈夫ですよ。本名の方でも、別に。」
「え、いいの?」
「どうぞどうぞ。」
「…じゃあ、俺もなあちゃんって呼ぶかな。」
宮城に促され、いの一番に身を乗り出したのはやはり黒田だった。森野の呼び方に倣う黒田に、宮城も笑顔で了承してみせる。
「…俺は…宮城さんって呼んでてもいい?まだ。」
「まだ、というと?」
「やっぱりちょっと、緊張するんだよね。って、勝手にタメ口きいてたけど、」
「大丈夫ですよ。むしろかしこまられちゃうと、私も困っちゃいます。」
私だってファンなんですよ?そんな風におどけてみせる長岡にようやく坂井は肩の力を抜く。長岡の纏う空気なのか、純粋に長岡が聞き上手なのか。両方なのかもしれないが、まるで気の置けない友人と話すときのように無意識に坂井の口調は崩れていた。
「てゆーかさあ、もう二人ともなあちゃんと連絡先交換しちゃいなよ。毎回、俺が間になるも面倒だしさ。」
「ああ…そうですね。確かに。」
「え、いいの?」
「良いも何も。勿論ですよ。」
まさに鶴の一声。森野の提案に、三人はすぐに連絡先を交換した。筆不精ですが、と一声添えて連絡先を教えてくれる長岡の横顔に坂井は思わず見惚れてしまう。長い睫毛が頬に落とす影が美しいと素直に思った。
「あ、坂井さんはご本名なんですね。」
「うん、そう。だからあっきーだったの。」
「なるほど。…そういえば黒田さんの下の名前、初めて知りました。」
「あ、言ってなかったもんな。別に下の名前で呼んでくれても良いからな。」
「ふふ、はあい。」
黒田の軽口も長岡は笑顔でかわしてしまう。そんな長岡のソツのない対応に、黒田は唇の端で苦笑する。そんな黒田の表情に、黒田がかなり長岡を気に入っていることを坂井はまざまざと見せつけられた心持ちだった。無論坂井自身、長岡を気にいる、どころか一目惚れをしたようなのだから何も言えないが。
翌日も黒田と森野が揃って仕事だということで、食事会は終電までにかなり時間の余裕を持ってお開きとなった。少し早めの時間から始まったこともあり、十二分に食べ、語ってはいた。それでも店の前で、片手を上げて、じゃあまた、と当たり障りのない言葉で別れてしまうのが惜しいと坂井は心の底から思っていた。そんな坂井の胸中を読んだかのように、森野につられ立ち去りかけた長岡が、くるりと踵を返す。
「坂井さん、絶対また誘ってくださいね。」
「え…あ、勿論!」
「楽しみにしてますね。じゃあ。」
今度こそ森野とともにタクシーに乗って走り去る長岡を見送って、坂井は拳を口元に思わず当てた。それは緩みそうになる口元を隠すためであり、自分でも自覚をせざるを得ないほど頬が熱を持っているのがわかる。坂井に声をかけた後、黒田さんもまた、と声を掛けられていた黒田は黒田で、気恥ずかしげに頬を指先で掻いている。おもむろに黒田は坂井に近づくと、肩を軽く小突いた。
「…な?」
「…うん。」
俺の言った通り、気に入っただろう。そう言わんばかりの黒田の一声に、坂井は小さく頷いた。
別れたばかりなのに、見送ったばかりなのに、もう会いたいと思っている。これは重症もいいところだ。自分自身の心境に誰よりも驚きながら、タクシーを拾うという黒田と別れた坂井は一人、駅までの道を歩く。歩きながら、ふと、先刻長岡と連絡先を交換したばかりのスマートフォンを上着のポケットから出す。新着メッセージ一件の文字が、ディスプレイに浮かんでいた。
慌てて立ち止まり内容を確認すれば差出人はやはり長岡だった。作品やブログで読むのと似たような淡々とした言葉で、長岡から今夜の礼が端的に綴られている。飾り気のない文章だが、長岡自身を知った今、坂井からすればその文章が比較的弾んだ調子で書かれていることが何となく察せる。もう家に着いたという長岡のメッセージに、思わず、指先が滑ったように坂井は無意識に電話をかけてしまっていた。コール音が鳴るのを聞いて、鳴らしたのは自分の癖にびくりと肩を揺らして驚く。
「…もしもし?坂井さんですか?」
「えっと、はい。あの、坂井です。ごめんね、急に。」
「いえいえ。」
三コール目で、長岡は電話に応えた。自分から掛けたもののオロオロと慌てる坂井と対照的に、長岡はゆったりとした調子だ。どうしました?と問う長岡に、迷った末に坂井は、直接礼がもう一度言いたかったのだと素直に口にした。なんとなく、長岡には見栄を張っても意味がないと感じていたのだ。
「今日は本当に、ありがとう。」
「お礼なんていいのに。私もすごく楽しかったですから。」
「うん、そう言ってもらえると、嬉しい。」
「ふふ。」
ようやく駅が坂井の視界に入ってくる。というか、腹ごなしもかねて店からの最寄り駅の一つ先まで歩いていた坂井だが、その間他愛ない話に長岡は当たり前のように応じていた。まるで、以前からよく知った仲のように。お互いに憧れの相手同士がゆえに緊張もあるが、それさえ越えてしまえば坂井にとって長岡は、気負わず話せる空気感をまとっていた。それに甘えるように、するすると会話が続く。
「あの、さ。」
「はい?」
「また、近いうち…会いたい。宮城さんに。」
いつなら空いてるかな?と、性急過ぎることは自覚しつつ、坂井は自然と願いを口にしていた。別れたばかりなのに、もう会いたい。付き合ってもいない、むしろさっき出会ったばかりの女性に言うべきではないワガママじみた願いだとは坂井も重々承知していた。長岡はそんな坂井の質問に、数秒間をおくと、ふわりと、笑った。笑った気配が、電話越しに伝わってくる。
「坂井さんの予定に合わせられますよ。しばらく私、締め切りないので。」
「本当?」
「なので、候補日、教えてください。」
「…うん。そうしたら、遅くなっちゃうけど、後でメールするね。いい?」
「お待ちしてます。」
笑って坂井の誘いに応えた長岡の胸中は、坂井には全く見えない。そもそもまだ、長岡のことを知らなすぎる。それでも坂井は、多分これから先、長岡のことを大切に思う日々が続くだろうと漠然と予感していた。