Lookin'the world
宮城泪という作家がいる。デビューはミステリで、期待の若手作家と銘打って各書店で平積みされ売り出され、作品は無名の新人作家にしては好調に売れた。巧妙なトリックと掘り下げられ人間味ある登場人物、何よりテンポの良い文体がウケた。作者は若いらしいがなかなかに重厚感ある内容から、若年層はもちろん年配まで幅広い読者を獲得した作家、さて次回作はどんな作品かと世間が期待していれば、なんと次に出版されたのはミステリではなくSFものだった。発売当初はかなりのブーイングを浴びたが、ひと月もする頃には作品を絶賛する声がブーイングを押さえ付けた。そしてその後も、宮城は歴史物、ファンタジー、ホラーとジャンルを問わず作品を次々と執筆した。ただ、恋愛モノだけは一切書かなかった。宮城の作品には恋愛要素は少なく、多少恋愛的な表現があったとしてもそれはかなり希少なもの。一方で登場人物の心理描写は緻密に描かれており、恋愛小説を好むような若い女性層のファンも数は少ないものの確実にいた。
恋愛小説だけは書かない気鋭の新人作家を、世間は男性と見ていた。それは淡々とした文体や、登場人物のうち特に男性の心理描写が細やかだったこと、あっさりとした後書きや出版社に勧められて渋々始めたというブログによるイメージ形成だった。だが作家も出版社も共に、宮城泪は男性だと明言は一切していなかったのである。
イメージが覆されたのは、とあるラジオ番組の一幕だった。宮城と交流があると以前から公表していた人気声優が、宮城を姉さんと呼んだ。実の姉というわけではなくあだ名としての呼び名だが、それが芸能ニュースに比べあまり作家の事など取り上げない一部ワイドショーなどで、人気作家が実は女性だった、などの報道が流れるきっかけとなった。これを受けてようやく宮城は自身のブログにて女性である事を告白した。告白とはいっても、本人は特に隠していたつもりも隠すつもりもなかったらしい。曰く、性別などわざわざ公表するほどのものでもないだろうと。また性別が判明してからの売れ行きについてワイドショーで語られているのを知った際には、性別で作品の売れ行きが変わるならその程度だったと割り切る他ないと、これまた淡々と語った。そのブログ投稿以降、彼女はファンの間でも姉さんと呼ばれるようになる。
「なあ姉さーん!!」
カフェの窓際のソファー席に座りノートPCを睨みつけていた女は、不意に自分を呼ぶ大声に目線を上げる。黒縁眼鏡の奥の猫目がちな瞳が、ぶんぶんと手を振る青年を見つけ、微かに和らぐ。
「お疲れ、よっちゃん。」
「姉さんも!お疲れ様です!」
「よっちゃんもなんか買っておいで。」
「イイっすか!?じゃ、行ってきます!」
バタバタと駆け寄ってきた青年は、恐らく女を待たさぬようにといの一番に席までやってきたらしい。それを見て女は青年に注文を促した。コートと荷物は邪魔だろうから置いていっていいと、それまで青年のために席を確保していた荷物を避けてやれば、青年はにっこりと笑って財布だけを持ってカウンターへ向かっていった。少しばかり騒がしいが、そんか青年を女は微笑ましく眺める。先刻まで睨みつけていた画面上の文字列を保存して、ノートPCを鞄へと片付ける。そして青年が満面の笑顔で帰ってくる頃には、女は女でリラックスした面持ちに切り替わっていた。
「なあ姉さん、これ食べます?」
「クッキー?」
「旨そうだなって思ったんすけど、多分俺食いきれねえなって。」
「こら。」
ローテーブルの真ん中にクッキーの入ったカップを置く青年の額を女が軽く小突く。それすらも青年は楽しそうに受け止める。冗談を言い合いながら、青年と女はコーヒー片手に雑談に興じた。
青年になあ姉さんと呼ばれた女こそ、今や新刊が発売一週間以内に毎回重版がかかる人気作家、宮城泪その人である。本名、長岡涙花。宮城泪はペンネームで、決めた理由はデビューの電話を受けたのが丁度仙台を旅行中だったからで、あとは本名から何かしらもじりたかったからという安直なものだ。今年で二十七歳、そろそろアラサーと呼ばれる年齢ではあるものの、実年齢より多少若く見える。猫目なためキリッとした印象を持たれやすい事と、比較的シンプルな男性的な服装を好む事以外、比較的見た目は整っているといえた。今日も今日とて、Vネックのカットソーにロングカーディガン、スキニーパンツというシンプルな格好だが、それが長岡の華奢な体型を助長して見せている。胸元まで伸びた長い髪は、長岡が笑う度にサラリと揺れた。
一方の青年は、宮城をラジオで姉さんと呼んだ人気声優だ。オンラインゲームの声優を担当したところ人気になり、アニメ作品を中心に活動している。見た目はまあまあといったところだが、活発な少年のような自身のキャラクターからファンも多い。石川快一、宮城もとい長岡からはよっちゃんと呼ばれている。二人は大学時代の先輩後輩の関係であり、石川が一方的と言えるほど長岡に懐いている。もっとも、絆されたのか最早長岡もあまり石川の暴走は気にもとめなくなった様子だ。
基本的に家に閉じこもり仕事をしている長岡を、石川がオフの日にはよく呼び出してはカフェでお茶をしていた。というのも、作家になって以降人に誘われなければ自分からはなかなか外に出なくなったという長岡の発言を危惧して石川がお節介を焼いているのだが、長岡としても理由がなければ外に出る気にもならないため好意として受け取り成立している。今日も思えば出版社に赴いた日以来、二週間ぶりにまともに日差しを浴びて、長岡はカフェから窓の外を眩しそうに何度も眺めていた。
「姉さん、今度はどんなの書くんですか?」
「ん?内緒。」
「教えてくださいよー。俺、姉さんの大ファンなんだから!」
「ファンなら尚更、完成品を楽しみにしててね。」
「…はーい。」
まるで人懐こい大型犬のような石川を軽くいなして、長岡はのんびりとコーヒーを啜る。二週間前に新作の校了を終わらせて、今は長岡にとって多少なり落ち着いた生活のできる貴重な期間だ。ワーカホリック気質な事も相まって、既に次回作の取材を進めてはいるが、それを石川に明かすつもりは微塵もない。石川以外にも一切言うつもりはなかった。そしてそれは今に始まった事ではなく、会う度に次回作の内容を聞きせがむ石川を一蹴するのがある種お決まりの流れになりつつあった。
「そーいえば!姉さん知ってます?あのね、」
今日も今日とて、お決まりの会話のあとは主に石川がノンストップで話し続ける実のない話になだれ込んだ。二十代も半ばの割に落ち着きのない石川の話は騒がしく聞こえるものの、長岡はそれを比較的好ましく見ていた。それはまるで母親のような見守る体の眼差しなのだが、長岡にその自覚はない。一方の石川はそれに気付きつつも、後輩として可愛がってもらえているならと嫌悪感を抱くどころかそれを契機にますます長岡に甘えるようになっていた。その甘えが表層化したのが、姉さんという長岡に付けられたあだ名だった。
あくる日の夜、長岡の自宅マンションのインターホンが来客を告げた。室内の照明は付いているのだが、そのインターホンに反応する気配は一切ない。来訪者はそんな様子にも慣れた様子でキーケースから合鍵を取り出し、家主の了承を諦めた上で玄関の扉を開いた。室内はあらかた片付いてはいるものの、どこか乱雑な印象は否めなかった。とはいえ来訪者からすればそれも見慣れた光景で、今回はまだ片付いているほうだと口元に苦笑いを浮かべつつ部屋の奥に進む。一番奥の一室の扉を開けば、PCデスクにどことなく窮屈そうに足を押し込んでノートPCに向かう長岡の丸まった背中があった。カタカタと小気味いいタイピング音が室内には響いている。
「ルイちゃん?」
「あー…、ごめんなさい。気付きませんでした。」
薄暗い部屋にリビングからの光が差し込む。驚かさないように、と柔らかく長岡を呼べば、ノートPCから顔を上げることはないものの長岡は申し訳なさそうな声を出した。そして、今切りが悪いからもう少し待って、と懇願する。最初からそう言われては仕方ない、と来訪者は一つ頷いて仕事部屋の扉を静かに閉めた。本当は無理矢理にでも作業を止めさせて休ませたいところなのだが、過去一度だけそれをして長岡に泣かれたことがある。切りがいいところまで、と宣言された時にはある程度で作業の手を止めるのも確かなのでそれ以降はその言葉には素直に従う事にしていた。何より、長岡は普段ほとんど弱みを見せるタイプではないため、そんな彼女に泣かれるのは心臓に悪い。仕事部屋を出てから来訪者は道すがら買ってきた食材を冷蔵庫に仕舞い、コーヒーを入れソファーで寛ぐことに決め込んだ。
「…坂井さん、」
三十分ほど経った頃、仕事部屋の扉が静かに開いた。おずおずと顔を覗かせる長岡に、来訪者もとい坂井明人はにこりと笑みを浮かべて見せた。お疲れ様、と労いつつソファーの隣を叩き暗に隣に座るよう指し示せば長岡はそろそろとそちらに向かう。拳二つ分ほど距離を開けて長岡が遠慮がちに隣に腰掛ければ、坂井は気に食わないと言わんばかりに眉間にシワを寄せた。
「遠くない?」
「普通です。」
「…遠いよ。」
「え、わ!」
目線を泳がせてしらを切る長岡の腰を強引に引いて、坂井はその身を密着させる。途端、長岡の頬が分かりやすく赤く染まった。いたたまれないと言わんばかりに俯く。耳にかけられていた長い髪が肩からサラリと落ちるものの、耳まで赤く染まった横顔を完全に隠すには至らなかった。何度こうして坂井が触れても、長岡はスキンシップに慣れる素振りを一切見せない。俯いて身を縮こまらせている長岡だが、嫌がっているのではなくただ照れているのだということを坂井はよく理解していた。だから頬の赤さを指摘することもしなかったが、長岡の腰に回した腕を解く気も一切なかった。
「もう次の書いてるの?」
「はい。プロット、オッケー出たので…。」
腰を抱き寄せるだけでは足りなくて、坂井はそっともう片方の腕も伸ばして長岡を抱き締めてしまう。驚いたように一瞬長岡の肩が跳ねるがダメ押しとばかりに髪を撫でてやれば、長岡はそっと息を吐いてようやく肩の力を抜いた。遠慮がちに自身の胸に寄りかかる長岡を坂井は労わるような眼差しで見詰める。
「…少しくらい休めばいいのに。」
「心外な。休みましたよ。」
「取材してたら休んだって言わないの。」
集中すれば寝食も忘れて執筆に打ち込む長岡の姿を知っているだけに、坂井の言葉には心底といった響きが含まれていた。新作の執筆まで二週間空いたということは長岡本人からしてみれば比較的間が空いた感覚なのだが、傍で見ている側からすれば短いことは否めない。平気な顔をして一ヶ月ほどの缶詰も黙々とこなしてしまう長岡だとは分かっているのだが、そこはやはり心配にもなる。長岡は割合料理も好きだったはずだが、先程見た冷蔵庫には缶チューハイとチョコレートしか入っていなかった。甘いものとアルコールが好きな長岡らしいといえばそうだが、冷蔵庫が過疎化し出すのは決まって執筆期間に入るか入らないか辺りからのため坂井はかなり危惧していた。
「あ、そうだ。冷蔵庫勝手に借りてるよ。お腹は?減ってる?」
「…聞かれたら減ってるような気がします。」
「ん、じゃあなんか作るよ。台所借りるね?」
「私も、」
「ルイちゃんは休憩してて。仕事も一旦お休みしとくこと。」
「…はーい。」
名残惜しげに長岡を腕の中から開放した坂井は、薄手のニットの袖をまくりつつキッチンへと向かった。来る途中のスーパーで買い込んだ食材で手際よく料理を始める。長岡の好きなオムライスを作りつつ、ちらと横目でリビングを確認すれば、大人しくクッションを抱きかかえてぼんやりとする長岡がいた。その姿に満足して、坂井は料理に集中する。オムライスとスープを作り、長岡に声をかけつつリビングに皿を持って戻れば、いつの間にか長岡は抱えたクッションに頬を埋めてうたた寝をしていた。せっかく作ったのに、という不満など一切見せず、坂井はそんな長岡の寝顔を見詰める。リラックスした様子の長岡に思わず笑みを浮かべていれば、不意に長岡のまつ毛が細かく揺れた。そして、ゆっくりと目が開けられる。
「…あ…、」
「おはよう。食べる?」
「…たべます。」
眠気からトロンとした目をごしごしと擦りつつ長岡は坂井に向き直る。ほぼほぼ落ちかかった瞼を必死に押し上げようとする長岡に一つ笑いを零して、坂井はまだ湯気の立つオムライスをテーブルに並べた。飲み物を取ってくる、と長岡の髪にポンと触れれば、やはり寝惚けているらしい長岡の、オムライスだ、というわずかに舌っ足らずな独り言が聞こえた。
冷えた麦茶と運び忘れていたスプーンを届ければ、起き抜けよりは多少なり目が開いたらしい長岡が、やはり弾んだ声音で食べていいか坂井に問いかける。それに勿論と返せば、長岡はいそいそとスプーンを手にした。
「…ん!美味しい…。」
「良かった。」
一口頬張った瞬間、長岡は目を丸くしてそれからすぐに破顔した。幸せと言わんばかりのとろけた表情でもぐもぐとオムライスを食べる長岡の姿は、料理をした人間の心を満たして有り余るものがあった。そんな長岡の姿に、知らず坂井も笑顔になる。長岡の久々のまともな食事も終わり、洗い物だけでもやると申し出た長岡の主張を却下した坂井がリビングに戻れば、再び長岡はうとうとと眠たげな表情を浮かべていた。
「...眠い?」
「ん…でも久々に会えましたし。」
眠るなんて勿体無い、と目をこすりながら話す長岡に、知らず坂井の口角が上がる。自分の前でだけ無意識に少しばかり口調こそ大きく変わらないものの、声音が柔らかくなる長岡が心底愛おしかった。自分に対しては気持ちを開いている証拠だと坂井は思っているが、そこに至るまで数年掛かったのだから可愛い可愛いと猫可愛がりしたくなる心境も仕方ないのかもしれない。
「…こっち、おいで?」
「え、」
「ほら、」
ぐい、と無理矢理腕を引いて、ソファーに座る自分の足の間に長岡を抱き寄せる。長岡が寝付けない夜や仕事に追われている時ベッド代わりにもできるように買われた、一人暮らしにしてはかなり大きめなソファーは、二人分の体重を軽々と受け止めた。背中から抱き締められた長岡は耳まで赤く染めながら、それでも久方ぶりに触れる温もりを拒む様子は一切なかった。緩く背中から自分を抱き締める坂井の腕に、そっと長岡が触れる。かすかに胸板に寄りかかる華奢な体を坂井は愛おしげな眼差しで見下ろした。
「…やっと触れた。」
「え?」
「俺も仕事で地方行ってたし、ちょっと前は帰ってきたらルイちゃんは修羅場だったしさ。こうしてるの、久しぶりじゃない?」
「あ…確かに。」
甘えるように肩口に額を預ける坂井にくすぐったそうにしつつ、長岡はハッと目を瞬かせる。確かにそうだ。つい数週間前書き上げた作品は思っていたよりも締め切りが早く設定され、担当編集が申し訳ないと頭を下げてきたのだった。頼られれば限界でも超えてみせると、ほぼほぼ徹夜を続け、缶詰状態で一気に原稿を書き上げたのがすでに懐かしく感じられる。時折掲載している文学雑誌向けの短編小説だったからこそのスケジュールではあったのだが、ちょうどそれを受けたタイミングで坂井の地方での仕事が終わったため、お互いの予定が合わずにいた。
「…寂しかった。会いたかった。」
ぎゅう、と抱き締める腕の力が強くなる。痛みは感じない程度に加減されているはずなのに、その体温に胸が締め付けられるように痛んだ。切なげな声で自分を呼ぶ坂井同様、長岡も坂井に焦がれていたのだとそこでようやく自覚する。忙しさにかまけて、見ないふりをしていた自分の感情に気付いて、長岡は一つ息を吐いた。
「私だって、会いたかったです。」
回された腕を取って、指を絡める。自分より一回りほど大きな坂井の手。男性の割に色白な坂井の手は美しく、時折長岡はそれに嫉妬を覚えるのだが、今はその手に触れられることが何よりも重要だった。ぎゅ、と絡めた指に力を込めれば、指を絡めていない方の腕の力が強くなる。ぐい、と片腕で体の向きが変えられ、気付けば長岡は坂井の膝の上に横抱きの格好で座らされていた。それを恥ずかしいと拒否しようとするのだが、それよりも早く、頬に手が添えられる。逸らせないほど、強い眼差しで射抜かれる。
「本当に?」
「嘘ついてどうするんですか。…だから仕事、頑張ってたんですよ。」
寂しさなど覚える隙がないように、仕事にのめり込んでいた。暗に、そうまでしなければ寂しくてどうしようもなかったのだと伝えれば、途端、坂井は照れたように微笑んでみせる。いつの間にか絡まっていた指先は解けていた。片腕で長岡の体を抱きしめつつ、坂井はもう片方の手でそっと長岡の頬を撫でる。徹夜や食事を抜いて仕事に集中してみせたりとかなりの不摂生な生活を送っているにもかかわらず、滑らかな肌。唇を爪先でなぞれば、小さく肩が跳ねた。
「…さかい、さん。」
「ん?」
「…やっぱり恥ずかしいです…!」
頬を真っ赤に、耳まで染めて、耐えきれないと言いたげに目を瞑り長岡は顔を背ける。名前を呼ばれて、ありったけの甘い声で答えた坂井は、そんな長岡の、いつまで経っても慣れることなく照れる仕草に、思わずそれまでの艶を孕んだ空気を破って、小さく吹き出した。
「照れすぎだよ、ルイちゃん。」
「…だって、」
坂井と付き合いだしてもうすぐ半年が経つ。友人としての関係も長かった二人だが、なかなか恋人同士の甘い空気に浸ることはない。むしろ今夜は甘い方だったか、と坂井は長岡に気付かれぬよう小さく息を吐いた。
宮城泪が、恋愛小説を書かない理由。書かないのではない、書けないのだ。竹を割ったような性格が仇となってか、もしくは色恋沙汰にあまりに興味のなかったためか。長岡はもういい加減いい年齢にさしかかろうと言うにもかかわらず、甘い空気感で一瞬のうちに頬を染める程度には初心だった。最もそれを知る人間は、坂井を筆頭にほんの数える程度しかいなかったが。
「んー…まあ、そこがルイちゃんの可愛いところだから仕方ないね。」
「…可愛くないです。」
「はいはい。」
男として勿論残念に思う気持ちは大分あるものの、照れながらも自分の腕を振り払わなくなった長岡を坂井はまるで眩しいものでも見るように目を細めて見詰めた。恥ずかしいと言いながらも、それでも逃げていかないのは少なからず長岡も自分と触れ合う時間を自分同様恋しく思っていたのだろう。可愛いと褒めれば拗ねたような声が返されるのはいつものことで、それを受け流すのも最早慣れたものだった。
「今度の締め切りは?多少はゆっくりできそう?」
「結構ゆとり、ありますよ。ここ最近、締め切り早い短編ばかりだったので。」
ひとしきり照れたことで眠気がだいぶ収まったらしい長岡の髪を撫でながら、そういえば、と坂井は一番気になっていたことを質問する。返答を少しばかりそわそわと待つ坂井の様子には気づかないまま、長岡はうーんと唸りつつスケジュールを思い起こす。ここ数ヶ月、短編を数作立て続けに執筆していた。常に締め切りに追われるようなピリピリとした期間を乗り越え、長岡と同じくぐったりと疲弊した担当編集が、少なくとも次は長編をいい加減出そうと編集長に談判していた姿がすでに懐かしい。
短編も長編も特に苦手も何もないのだが、そろそろじっくりと長編を書きたい気持ちになってきていたのは事実だった。長編用にと走り書きしたプロットも数作ある。次回作は書き溜めていたプロットの中から選考が済んでいて、あとは必要な取材をして書き始めるだけといった状況だ。それに、ここしばらくの締め切りに追われていたため、一度ゆっくりと気持ちを落ち着ける時間が必要だと長岡は考えていた。書き始めてしまえばいくらでも集中してしまうが、一旦筆を止めていればしばらくはスケジュール自体かなりのゆとりがあった。
「…ちなみに明日の予定は?」
「空いてますよ?」
「じゃあ、明日は俺に頂戴。」
「え、」
それまでと何ら変わらないトーンで坂井は長岡の予定を押さえる。それに驚いた声をあげたのは長岡だ。え、と声をあげた後、目を丸くして坂井を見上げる。丸く見開かれた瞳には、本当に?とでも聞きたげな色がありありと浮かんでいて、坂井は思わず吹き出してしまう。俺もしばらく、ゆっくりできるんだよね。そうゆっくりと言葉をつづければ、それを聞いた長岡がゆるゆると笑顔になっていく。はにかんだような笑みを浮かべて、長岡は思わずというように坂井の手を取った。
「嬉しいです。久しぶりですね、休みが被るなんて。」
「そうだね。俺もすっごく嬉しい。」
未だ膝の上に座らせたままだった長岡に、覆いかぶさるように抱きついて坂井はもう一度呟いた。ほんと、嬉しい。その声が聞こえたのか、控えめな力でか細い腕が坂井の背中に回される。ぎゅう、と長岡としては目一杯の力を込めて坂井を抱きしめ返す。
「…だから今日、来てくれたんですか?」
「うん。やっと休みになったんだよね。先月はほぼほぼ九州にいたでしょ?帰ってきて、一番にルイちゃんに会いたかったんだ。」
「嬉しい、」
真っ先に自分に会いに来たと告げられて、嬉しくないはずがない。坂井に抱き込まれている今は顔も見えないはずと、長岡は先刻よりも坂井を抱きしめ返す腕に力を込める。ここしばらくの仕事で荒みかけていた気持ちが一気に凪いでいくのを感じていた。気恥ずかしいながら、愛されているなあ、と長岡は坂井の腕の中でぼんやりと思う。
「明日、行きたいところとかありますか?」
「んー。ルイちゃんは?」
「私ですか?」
質問を質問で返され、長岡は一瞬悩むように視線を泳がせた。行きたいところ、と問われ浮かんだ場所は幾つかある。最近お気に入りのカフェや、新しく駅前にできた喫茶店、デート場所としてはベタなものの水族館やプラネタリウム。浮かびはしたが、そのどれもがしっくりこなかった。
「坂井さんと居られれば、どこでもいいです。」
場所云々よりも、何よりも。久しぶりに二人で過ごせる休日という事実が何よりも嬉しくて、幸せで、欲していたものなのだろうと長岡は思う。その考えに行き当たったと同時に、気持ちはストンと落ち着いて、自然と笑みがこぼれた。そのはにかんだ笑みに、坂井は思わずといった様子で片手で口元を覆う。
「ルイちゃんさあ…、」
「はい?」
「これ以上俺を惚れさせてどうするの。」
「え?んっ、」
かすかに頬を赤く染めて、坂井は唐突に長岡を自分の方にグッと引き寄せる。角度をつけて唇を塞げば、驚いた様子の長岡の体はびくりと固まるが、少しして力が抜けた。自分に身を委ねる長岡の様子に、くらりとくる。
「…明日のことは、後で考えよっか。」
もう限界。耳元で甘く囁けば、長岡は今度こそ顔を赤く染めて小さくなってしまう。長い睫毛が縁取る眦に薄っすらと涙が滲んでいるのが目について、どくりと心臓が大きく鼓動を打つ。その鼓動に押されるように喉が鳴った。
「坂井、さん…。」
「ん?」
「…すき、です。」
熱に浮かされたような、夢現つとでも言わんばかりに蕩けた瞳で、長岡がポツリと呟く。
「俺も、ルイちゃんがすきだよ。」
坂井の言葉に、長岡の頬を涙が一つ、ぽろりところげた。それを指先で拭って、長岡の頬をそのまま手のひらで包み込んんでやる。頬に添えられた坂井の手に自分のそれを重ねて、長岡はふわりと微笑んだ。微笑んで、坂井を呼ぶ。それに応えるように、長岡の額に一つ、キスを落とした。
「ごめんね、寂しい思いさせたね。」
「…大丈夫です。それを言ったらお互い様ですから。」
「…うん、そうだね。」
もう一度、今度は頬にキスをして、坂井は長岡を抱き上げる。甘い空気が苦手な長岡も今度ばかりは静かになって、坂井の腕に身を任せた。
気づけば時計の針は日付を跨ごうとしていた。窓の外で星がきらめている。明かりを落とした二人だけの空間で、長岡はそっと息を吐く。時が止まればいいのにとは文学作品で使い古されたような表現だが、まさしくそれだと思った。自分を抱き上げて見つめる坂井を見上げながら、その腕にそっと自分の手を添えた。自分への愛情を隠すことなく注ぐ坂井の腕の中で、この腕の中が今の自分の全てだと思いながら、もう一度、キスをねだった。