Wasabi
「あーもー、うっとうしいな、ったく!」
弥生はイライラと、目の前に突っ伏した青年を怒鳴りつけた。
店じまいをすませた寿司屋のカウンター席。佐藤晴彦はくよくよ、うじうじ、めそめそ、と、ヘコんだ系擬態語の固まりみたいになっていた。
この店は、彼の妹、弥生の修行先だ。繁華街から少し離れた場所柄、下町の寿司屋といった風情で、地元の常連が客の大半を占める。住宅地にもほど近いため、長っ尻の酔客もほとんど居らず、閉店時間はそんなに遅い時間でもない。
そんな次第で、今日も時間にきりよく営業を終わらせ、後かたづけの真っ最中である。にも関わらず、兄は目の前で一番かたづかない物体と化していた。弥生は、手早く洗い物をしながら、容赦なく啖呵を切る。
「店は仕舞いだってンだよ、とっとと帰りやがれ。だいたい、目の前でそんな辛気くさいツラされちゃァ、いくらうちの寿司でもイキが下がるってもんサ、いいかげんにしねェ」
晴彦はほんの少し顔をあげて妹を見上げ、呆れたように呟いた。
「……弥生、お前江戸っ子でもないのに、なんでそんなちゃきちゃきの江戸弁なんだよ…」
「いいじゃないのサ。「あまちゃん」のアキちゃんだって東北育ちじゃないのに訛ってたろ」
「まあ、いいけどさ…」
どうでも。と語尾を濁らせ、彼はまた顔を俯けて突っ伏してしまった。
我が兄ながら、本気でうざったい。箒で掃きだしてやろうか、と、弥生は毛虫でも追い払うような表情で見やった。
晴彦が、くよくよ、うじうじ、めそめその固まりになってしまったのは、どうやら憧れの女性、「珠美さん」とやらに恋人が現れたのが主な要因であるらしい。
閉店間際、暗い顔で現れた晴彦は、いじけた毛虫状態になってカウンターに居座った。気のいい大将は、いつもへらへらと調子のよい晴彦の落ち込んだ様を大いに心配し、挙げ句、「ちッと話聞いて、励ましてやンな」と、弥生に託して帰ってしまった次第である。
弥生にとっては災難としか言いようがない。
だいたいが、ここしばらくの兄のへらへら浮かれ加減だって大概だったのだ。
いわく、珠美さんがどうしたのこうしたの、と、彼女の一挙手一投足にいちいち喜びはしゃぎ、珠美さんかわいい、珠美さんかっこいい、と、まあうるさいことこの上ない。大変甚だしく、尋常じゃなくうっとうしかった。
それでも、現状のこのいじけた有様に比べれば、浮かれているほうがまだましだった。漫画の効果線で言うところのナワアミが取り巻くように、どんよりと淀んだ気配を発してカウンターに突っ伏したままの兄が心底うっとうしい。
弥生は深々とため息を吐く。
しょうがないなあ。
「…うまくいきそうなんじゃなかったの? どうしたってェのサ」
声音を改めて、穏やかに問うと、晴彦はそろりと顔を上げた。しょうがねェから聞くよ、と頷くと、突っ伏していた姿勢からずるずると起きあがる。「お茶くれる?」と言うので「甘えんな」と言い返しながら、それでも仕方なく湯呑みを出した。
熱い番茶をずうずう啜ってから、彼はぼそりとつぶやくように言った。
「今日、珠美さんにゴハン誘われたんだ」
「…よかったじゃない」
なんで行かないの?
怪訝な顔で問い返すと、晴彦は軽く頷いて、続けた。
「初めて誘われたんだ。いつも俺が誘うばっかりだったから、嬉しかった。もちろん、OKです!って応えたら、困った顔で付け足された。紹介したい人がいるんだ、って」
好きな人なんだって。英会話教室で知り合ったらしい。好きな映画や読書のシュミが合うんで意気投合して、付き合うことになった、って。
「…何それ」
「俺も思った。つい言っちゃった。何それ、って」
珠美さんはますます困った顔をした。困らせたくなんかなかったけど、一緒にゴハンなんか行けない。そんなやつ、紹介されたくなんかないし。
「ひどいよ、って断って帰ってきた」
そりゃまあ、落ち込むわなー。と、弥生はさすがに兄に同情した。
「ひどいねェ」
舌打ち混じりにそう吐き出すと、晴彦は軽く横に首を振った。
「その珠美さんって、ずっと兄貴の誘いを断らなかったんだろ。そんな、期待もたせるような態度しといてさ、それァないよ」
彼はなおも首を振る。違うよ、そんなんじゃない。
珠美を庇おうとする兄が歯がゆくて、弥生は言い募った。
「確か、彼女がしんどいときに、兄貴が力になってあげたんだよね。担担麺食いにいった、とか言ってたときのことでしょ? あんときは、我が兄ながらやるじゃん、って思ってたよ。オットコ前ー!って」
江戸弁が抜けて、素に戻った口調で続けた。
「だからって、兄貴の気持ちに応えなきゃならないって訳でもないけどさ。あれから、1年以上経つよね? ずっと、兄貴に気ィ持たせ続けてるってことだろ。いくらなんでも甘えすぎなんじゃないの」
前園珠美さんは、前につきあっていた人にこっぴどく振られ、落ち込んでいたらしい。それを兄が慰めた。
普段は毅然としてクールな彼女が弱いところを見せたギャップにグッときて、晴彦はそれからも彼女を誘った。
珠美さんは、さすがに失恋の痛手が尾を引いて、しばらく恋愛は無理、と断ったそうな。
晴彦は笑って「長期戦で粘るよ」と、気のいい男友達ポジションをキープし続けたのだけれど。
「なんだかルーズで印象悪いな。はっきりしない態度って好かないよ」
吐き捨てるように言い切った弥生に、晴彦は「違うんだ」と挟んだ。
「でも…」
「違うんだって!」
晴彦にしては珍しく、鋭い声音で妹を遮った。
珠美さんは、はっきり断ってたんだ。ていうか、断ろうとしてた。
俺が言わせなかった。言わせないように、ごまかしてたんだ。彼女が何か言おうとすると、話をそらしたり、関係ない話をべらべらしゃべり続けて言わせなかった。
「いいじゃん。そんなに真面目に考えなくってもさ」
「友達とゴハン行くのと同じ感覚でいいだろ」
そういうの得意だからさ。いくらでも適当なことを言えた。
珠美さんも、しばらくはそれでいいかな、って思ってたんだろうな。誰ともつきあう気なかったみたいだから。
それで、ここ1年ぐらいは普通にゴハンとか飲み友達してた。それだって、誰か別の友達を呼んだり、ふたりっきりになることはあんまりなかった。
「珠美さん」って名前呼びだって、本当は彼女、困ってるんだ。俺がふざけて、辛さ30倍の担担麺を食いきったら「珠美さん」って呼ぶ!って勝手に賭けて、勝手に呼んでるだけで。
いっぺん、うっかりしたふりして会社で名前呼びしたら、困った顔して、それから1週間、業務以外で口きいてくれなかった。そういうとこ、すごく頑固なんだ。
「それでもさ。それでも、いつかは応えてくれるかな、って。ひょっとしたら、情にほだされて俺のこと受け容れてくれるんじゃないかな、って、期待してたんだ」
傍にいられさえすれば。そう思ってた。
でもな。恋愛って結局、出会うか出会わないか、なんだよな。
「出会っちゃったんだ。珠美さんは、彼に」
俺じゃない、彼に。
そいつの話はいっぺんだけ聞いたかな。英会話教室の同じクラスで、イギリス英語の発音がめちゃめちゃうまい人がいる、って。映画の、くまのパディントンの物真似がすっごい笑えるんだって。
そのとき、あれ?って思った。にこにこ笑ってて、なんだか、すごくかわいかった。そのときは暢気に、珠美さん楽しそうでいいなー、とか思ってたよ。
「そのパディントンが、珠美さんの好きな人」
ぽつり、と、ほつれるように言葉に出して、それから晴彦は、黙って番茶を飲んだ。
弥生はなんと声をかけていいかわからず、間が持たずに困って、手にしていた布巾であちこち拭いたりした。
沈黙が重い。番茶はすっかり冷めていて、啜ったりしなくても熱くないのに、彼はずびすびと音を立てて啜る。ふざけてるつもりらしいけれど、ちっとも笑えない。
晴彦は湯呑みを空にすると、それからまたカウンターに突っ伏してしまった。
「俺が悪いんだ…」
腕を組んだところに頭をつっこむように突っ伏して、もぞもぞと歯切れ悪く呟いた。
「俺が、ちゃんとふられてあげないから」
だから、珠美さんは悪くない。
弥生はその日何度目かになるため息を、深々と吐いた。
なるほど。それでこの阿呆な兄貴は私のところに来た訳か。
「晴彦」
カウンターから身を乗り出し、いじけて突っ伏した毛虫状態の兄に、ちゃきちゃきモードで声をかける。
「起きねェか! いいかげん、シャキっとしやがれ!」
伝法な口調と声量に晴彦は思わず起き直り、弥生はさらにキリキリと重ねた。壁の掛け時計を確かめてから、
「その、珠美さんとパディントンが今どこにいるのか、場所はわかるンだな? 今からでも間に合うだろ? とっとと行きな。行って、潔くふられてきなよ」
顎をしゃくって店の外を促した。
「…弥生」
「待っててやるから。弥生さん特製の握りを用意して、待っててやるよ」
だから、気張ってこいよ。男だろ。
晴彦は世にも情けない顔で妹を見上げ、それから、なにやら覚悟を決めたのか、重々しく頷いた。
珠美さんとその恋人は、地下鉄でふた駅先の洋食屋で食事してるらしかった。
晴彦が寿司屋を飛び出していった後、弥生は米櫃から米を計って研ぎ始めた。いつもは店の残りのシャリを使って握りの練習をするのだけれど、不肖の兄のために新しく炊いてやろう。
おお、なんと愛情深い妹だ。(ていうか店を私物化しとるがな)(大将、すんません、見逃して)
それから2時間くらい経った頃。
時計の針が垂直に重なってちょっと過ぎたくらいに、そろりと店の引き戸が開いた。
「…ただいまー」
へらっ、と締まりのない声音はいつも通りの兄だ。いつもなら「お前んちじゃねェわ」と憎まれ口を返すところ、
「おかえり」
と、やけに素直に口をついて出た。
厨房とカウンター以外の店の明かりはすっかり落としてあったから、晴彦がどんな顔をしてるかわからない。でも、そのほうがいいのかもしれない。
「寿司食う?」
「食う。腹減った」
「はいよ。座ンな」
弥生は、10貫ほどの握りを据えた皿を兄の前に出した。大将はまだ客に出すのを許してくれないが、我ながら今日は会心の出来だ。
晴彦は小皿に醤油を差して食べ始めた。
「…うまい」
兄を待つ間、弥生は、ネタを醤油に漬けたり、昆布で締めたり炙ったり、いろいろと凝った仕事を施した。その甲斐あってか、晴彦はひとくちごとに「うまい」と感嘆のため息をもらす。
もくもくと口を動かす様子にちょっと安心して、吸い物でもつくってやるかと厨房に向かおうとしたら、
「ありがとな」
ぽそりと呟く声がした。
「パディントン、いい奴そうだったよ」
珠美さんはやっぱりかっこよかった。すごくきれいで、かわいかった。あんなかわいい珠美さん、初めて見た。
「……そっか」
阿呆な兄貴の割にはよくがんばったな。とか、茶化してやろうかと思ったけれど、それ以上何も言えない。
冗談めかしてごまかそうとしたのは晴彦で、
「俺じゃダメだったなー…」
と、いつもの調子でへらっと笑おうとした。けれど、語尾が震える。
そして、声を詰まらせ、安定しない語調のまま、
「弥生、これ、ワサビききすぎ」
目頭を押さえて大げさなくらいに悶えた。
くーっ、鼻にクる。
やれやれ。辛いもん好きなくせに、ワサビはダメなんだよね。弥生は半笑いで肩をすくめる。
「まあまあ、いま吸い物つくってやっから待ちねェ」
いつも通り、無駄にちゃきちゃきの江戸弁で応えて、厨房に向かった。
兄の嗜好をよくよく知っているデキた妹は、もちろんちゃんとサビ抜きで握ったし、もちろんちゃんとごまかされてあげたのだった。