「黴臭い女は要らない」と婚約破棄されたので、洞のチーズ二百四十玉はあなたの付けたお値段で頂戴します
「黴臭い女は要らない」
ゲオルク・ハルデン様がそうおっしゃったのは、洞の入口で、わたくしが塩水の桶を提げて出てきたところでした。
両手がふさがっている時を選ぶあたり、殿方なりにお考えにはなったのでしょう。もっとも、鼻をつまんでおいでのあなたさまも、片手はふさがっておりましたけれど。
隣には、淡い水色のドレスの令嬢が立っておられます。コルデリア・ロッシュ様。王都の布商ロッシュ商会のお嬢様で、裾が山の土に触れないよう、従者に敷き布を敷かせておいででした。
「婚約は今日で破棄する。俺の妻になるのはコルデリアだ。三年も穴蔵にこもって、髪まで黴の匂いをさせている女ではない」
その穴蔵に三年通えとおっしゃったのは、十七のわたくしに婚約の印を押させた、あなたさまのお父上でしたのに。
「五十日後は王女殿下のご婚礼だ。祝宴の卓には我がハルデン家の玉が並ぶ。前金だけで金貨二百枚だぞ。黴臭い女を連れて王宮に上がれるものか」
前金二百枚のご契約に何と書いてあるのか、わたくしは存じません。見せていただいたことがございませんので。
「かしこまりました。では、お預けした持参金の金貨三百枚を、お返しくださいませ」
ゲオルク様の眉が跳ねました。
「金はない。新しい蔵を建てた。白壁に硝子窓の、王都風の蔵だ。お前の持参金はそこに入っている」
入っている、とは便利なお言葉ですこと。使い込んだ、と申すのですわ。
「代わりに、洞の中の黴びた屑をくれてやる。全部で何玉だ」
「二百四十玉でございます。三年ものが六十、二年ものが八十、一年ものが百」
「年などどうでもいい。古いものより新しいものが良いに決まっている。屑は屑だ」
ゲオルク様は従者に紙と筆を出させ、樽の蓋を机にして、ご自分でお書きになりました。声に出して読み上げながら。
「洞のチーズ二百四十玉。一玉、金貨一枚と銀貨五枚。計三百枚にて、持参金三百枚と相殺する。以後、互いに一切を請求せず」
銀貨二十枚で金貨一枚。一玉が金貨一枚と四分の一で、二百四十玉でちょうど三百枚。
割り算から先にお済ませになったことが、よく分かる端数でございます。
立会人は、麓の教会からお呼びしたベネディクト司祭様です。司祭様は証書を目の高さに持ち上げ、一行ずつ指でなぞられました。
「ハルデン殿。この査定は、どなたの付けたものですかな」
「俺だ。見れば分かるだろう」
「査定はハルデン殿ご自身の筆ですな。玉も棚も、洞の中のものは今日よりベルナーの娘のもの。よろしいか」
「くどい。屑を引き取ってくれるなら礼を言いたいくらいだ」
署名、そして子爵家の印。朱がまだ濡れています。
わたくしは桶を置き、手を前掛けで拭いてから、同じ紙に名を書きました。
「かしこまりました。そのお値段で、たしかに」
「まあ、良かったですわね、ゲオルク様」
コルデリア様が扇の陰で笑われました。
「あんな汚いもの、新しい蔵には一つも入れたくありませんもの。あちらの玉は全部きれいに洗いますわ。皮なんて真っ白になるまで。汚いものは全部洗ってしまいましょう」
皮を、洗う。
……いえ、何も申しません。お尋ねではございませんもの。
「それに、その前掛け。王都では下働きでも、もう少しましなものを着けますわよ」
塩水を扱う前掛けを絹にすれば、三日で穴があきますわ。これも、お尋ねではございませんけれど。
お二人の馬車が坂を下りていくと、薪小屋の陰からヨナスが出てきました。洞の入口で薪と塩を世話してくれている、七十過ぎのお爺さんです。
「お嬢。あんな値でいいのか」
「ええ。あの方がお付けになった値ですもの。わたくしが付けたのではございませんわ。それより今日は返しの日です、ヨナス。塩を一升お願いします」
「こんな日でもか」
「こんな日でも、玉は待ってくれませんの」
洞に入ると、いつもの冷気が頬に当たります。夏でも吐く息が白く、石灰岩の壁は濡れて、樅の棚板からは湿った木と、茸と、古いチーズの匂いがいたします。黴臭い、とおっしゃるなら、たしかにそのとおりの匂いです。
棚は七段。奥の三年ものから順に、一玉ずつ両手で抱えて裏返します。週に二度。底に回っていた面を上にして、同じ場所へ戻す。これを怠ると、水気が片側に寄って、玉は下から崩れます。
三日に一度は塩水です。桶一杯の水に塩を二握り、布をかたく絞って、皮を円く拭く。拭いた皮は、白でも青でもなく、濡れた煉瓦のような色に落ち着いていきます。
月に一度は、棚の上下を入れ替えます。上の段は乾きやすく、下の段は湿りやすい。置きっぱなしにすれば、同じ年の玉でも出来が割れてしまいますから。
壁の濡れ布が乾きかけていれば水を足し、風穴の板戸は指二本分だけ開ける。
それから帳面に、今日の日付と「返し、二百四十」と書きました。
屑、でございますか。
金貨一枚と銀貨五枚の屑を、今日は二百四十玉、たしかに返しました。
◇
十二日目の朝、ヨナスが洞の入口から呼びました。
「お嬢、客だ。馬が良い。王都の馬だ」
前掛けのまま出てみますと、旅装の殿方が一人、馬の手綱を自分で持って立っておられました。二十五、六でしょうか。外套の襟に、小さな銀の匙の徽章が留めてあります。
「ルーカス・エーベルトと申します。王宮の厨房で、買い付けを任されている者です。マルグリット・ベルナー様でいらっしゃいますか」
「さようでございます。あいにく、手が塩水で」
「どうぞそのままで。お仕事の途中にお邪魔したのはこちらです」
殿方は鞍袋から布包みを出し、開いて見せました。くさび形に切ったチーズが一切れ。雪のように白く、皮がなく、切り口はまだ水っぽく光っています。
「ハルデン子爵家の新しい蔵から、見本として届いたものです。契約では『三年熟成四十玉』となっているのですが、わたしの舌には、どうしても三年に思えません」
三年どころか、三月もたっておりませんわね、それは。
「以前に納められていたハルデンの玉は、この山の洞で熟れたものだと聞きました。それで、確かめに参りました。……洞に、入ってもよろしいですか」
わたくしは少々驚きました。
この三年、洞に入る前に許しを求めた方は、一人もいらっしゃいませんでしたので。入った方も、ほとんどいらっしゃいませんでしたけれど。
「どうぞ。外套はそのままで。中は冷えますわ」
ルーカス様は入口で靴の泥を落とし、棚の前で立ち止まって、手を後ろに組まれました。
「玉に触れてもよろしいですか」
「三年ものは奥の六十玉でございます。どれでも、お好きなものを」
「では、こちらで選ばせてください。あなたに選んでいただくと、試しになりませんから」
ごもっともです。わたくしが選べば、いちばん良いものを出したと言われますもの。
ルーカス様は上の段の左端、中の段の奥、いちばん下の段の右端と、わざと離れた三玉を指されました。そして腰の袋から小さな木槌を出し、また、こちらをご覧になります。
「叩いても」
「よろしゅうございます」
こん、こん、と、三玉とも同じ高さの、詰まった音が返りました。中に割れがあれば音は濁り、空洞があれば太鼓のように響きます。耳のある方なら、どなたが叩いても同じに聞こえる音です。
「芯を抜いてもよろしいですか。穴は、抜いた皮で塞ぎます」
「どうぞ。芯抜きはお持ちですのね」
「商売道具ですので」
細い鉄の筒が皮を割って入り、小指ほどの芯が抜かれました。蜜色で、白い粒が散っていて、指で折ると、ぽくりと割れます。ルーカス様は半分を口に入れ、残りの半分を、わたくしに差し出されました。
「あなたの玉です。あなたも」
三玉とも、同じ味がいたしました。炒った木の実と、煮詰めた乳と、最後に舌の横へ残る甘み。
抜いた穴には皮の栓を戻し、指で脂をなじませて、元どおりに塞いでいかれます。三玉とも。
「……見本とは、別の食べ物です。それに、揃っている。上の段も下の段も、同じに熟れている。どうすれば、こうなるのですか」
「月に一度、棚の上下を入れ替えますの」
「返しは」
「週に二度でございます。三年で、一玉あたりおよそ三百十二回」
「塩水は」
「三日に一度。桶一杯に塩二握り。舐めて、涙より少し辛いくらいに」
「洞の湿りは、どのように」
「壁に濡れ布を六枚掛けております。乾いたら水を足し、玉が汗をかいたら、風穴の板戸を指二本から三本に」
問われた分だけ、お答えしました。問われないことは申しません。
ルーカス様は帳面を出して、わたくしの答えを一つずつ書き留めておいででした。三百十二、のところで筆が止まります。
「六十玉で」
「一万八千七百二十回。二年ものと一年ものを合わせますと、四万五千七百六十回になりますかしら」
入口で薪を割っていたヨナスが、斧を止めずに言いました。
「この娘は三年、雪の日も来た。腰まで積もった朝は、わしが橇で引いて来た。来なかった日は、わしの数えた限り一日もねえ」
「ヨナス。数えていたのですか」
「薪小屋の柱に刻みを入れとる。塩を出した日は全部だ」
存じませんでした。あの柱が傷だらけなのは、鼠のせいだとばかり。
ルーカス様は筆を置かれました。
「もう一つ、伺ってもよろしいですか。この洞の玉は、今、どなたのものでしょう」
わたくしは帳面の間から、証書の写しを出しました。ルーカス様は最後の行まで読み、査定のところをもう一度読んで、しばらく紙から目を上げませんでした。
「一玉、金貨一枚と銀貨五枚」
「はい」
「……ハルデン殿ご自身の筆で」
「司祭様が、そうお確かめくださいました」
ルーカス様はその足で麓の教会へ下り、ベネディクト司祭様に原本を見せていただいたそうです。夕方、戻っていらして、洞の外から声を掛けられました。
「証書は有効でした。玉はたしかに、あなたのものです。今日はこれで帰ります。王宮に諮ってから、もう一度伺ってもよろしいですか」
「返しの日でなければ、いつでも」
「返しの日は」
「月の日と木の日ですわ」
「では、それ以外の日に」
それも帳面に書いていかれました。妙な方です。
◇
二十日目。水の日でした。
ルーカス様は、ベネディクト司祭様と、王宮の書記を一人伴っていらっしゃいました。洞の入口の、あの樽の蓋の上に、今度は羊皮紙が二枚広げられます。
「マルグリット様。三年ものを四十玉、売っていただけますか。値は、わたしが決めるものではありません。市の値で」
「市の値、と申しますと」
「王都の市で、三年ものに今付いている値です。一玉、金貨十五枚。四十玉で、金貨六百枚になります」
六百枚。
持参金の、ちょうど二倍でございます。あら、勘定の合うこと。
「王女殿下のご婚礼の卓にお出しします。ただし、お断りになっても構いません。あなたの玉です。秋の市までお待ちになる手もある。そこは、あなたがお決めください」
「子爵家のご契約は、どうなりますの」
「あちらはあちらで、納期まで生きています。三年熟成四十玉を納めてくだされば、王宮は両方買い取るだけのことです」
納めてくだされば、でございますね。
わたくしは羊皮紙を二枚とも、最後の行まで読みました。品、数、値、引渡しの日、運びの責は買い手。それから筆を取りました。
どなたに言われたのでもなく、わたくしの手で、わたくしの名を。
「かしこまりました。四十玉、金貨六百枚で、お売りいたします」
司祭様が立会人の欄に署名なさり、書記が日付を読み上げました。破棄の日から数えて、二十日目。
そのころ麓の新蔵では、とヨナスが後で聞いてきたところによりますと、真っ白に洗い上げられた若玉九十玉の肌に、蜘蛛の巣のようなひびが走りはじめていたそうです。
皮を落とした玉は、鎧を脱いだも同じですもの。水気は抜け、割れ目から要らぬものが入り、白壁の蔵は硝子窓の日差しで昼には温室になります。蔵番が窓を開けるたび、村の犬が寄ってきたとか。
わたくしは、何もしておりません。洗えとも、洗うなとも、申しておりませんわ。
◇
四十三日目。納期の七日前です。
その日は王都へ発つ荷の検品で、洞の前に王宮の荷馬車が二台着いておりました。ルーカス様が一玉ずつ木槌で叩き、わたくしが藁を巻き、ベネディクト司祭様が引渡しの数を帳面に付けておられます。
「三十七。……詰まっています。よろしいですか、次を」
「どうぞ」
三十八玉目に藁を巻いたところで、坂の下から馬車の音が上がってまいりました。車輪の音が荒うございます。御者が鞭を使いすぎておりますわね。
降りてきたゲオルク様は、四十三日前より頬がこけ、上着の袖口に白い染みを付けておいででした。あとからコルデリア様が、鼻に手巾を当てて降りてこられます。その手巾がいま防いでいるのは、洞の匂いではなく、お二人の馬車に染みついた新蔵の匂いのほうだと存じますけれど。
「マルグリット。話がある」
「ごきげんよう、ハルデン様。ただいま手が藁だらけでございますので、このままで失礼いたします」
「あの屑を四十玉、買い戻してやる」
ゲオルク様は懐から小袋を出し、樽の蓋に放られました。
「一玉、金貨一枚と銀貨五枚。四十玉で計五十枚だ。お前には過ぎた金だろう」
買い戻して、やる。
お困りになって山を登っていらした方のお言葉とは、とても思えません。ご立派です。
「あいにくでございますが、三年ものの四十玉は、もう買い手が決まっておりますの」
「買い手だと。こんな山の中に誰が来る。まあいい、現物を見せろ」
ゲオルク様は洞の入口へ大股に歩かれました。ヨナスが斧を提げたまま、黙って戸口の前に立ちます。
「どけ、爺」
「ハルデン様。洞は四十三日前から、わたくしのものでございます。お入りになるのでしたら、まず、お許しをお求めくださいませ」
「許しだと? 俺が、お前に?」
「はい。王宮の方も、そうなさいましたので」
ゲオルク様はそこでようやく、荷馬車の幌に描かれた王宮の紋と、木槌を手にしたルーカス様に気づかれたようでした。
「……エーベルト殿。なぜ貴殿がここに」
「買い付けです、ハルデン殿。新蔵の玉は、その後いかがですか」
お答えがありません。代わりに、コルデリア様が甲高い声を上げられました。
「全部駄目になりましたわ! 九十玉、全部! 割れて、ぬるぬるして、ひどい匂いで! わたくし、きれいにしてさしあげただけですのに!」
きれいに、なさったからでございますわ。
「蔵番が無能だったんだ」
ゲオルク様が吐き捨てます。
「窓を開けろと言えば開け、閉めろと言えば閉める。あんな連中に任せたのが間違いだ。新しい蔵が悪いわけがない。古いものより新しいものが良いに決まっている」
言われたとおりに開け閉めした方々を、無能とお呼びになる。では、お言いつけになった方は何とお呼びすればよろしいのでしょう。
「この人のせいよ、ゲオルク様。黴臭い女が呪ったのよ。捨てられた腹いせに、山の上から新しい蔵を呪ったんですわ!」
「呪い、でございますか」
わたくしは藁の束を置きました。
「わたくしにできますのは、玉を返すことと、塩水で拭くことだけでございます。この四十三日、わたくしは山を一度も下りておりません。ヨナスの柱に刻みがございますわ」
「あの日からの分は新しい柱だ。四十三本。数えるか」
ヨナスが薪小屋を顎で指しました。コルデリア様は、数えようとはなさいませんでした。
ゲオルク様が樽の蓋を叩かれます。
「理屈はいい! 元は我が家の乳だ。我が家の牛から搾った乳で作った玉だ。返せ。五十枚も払うと言っているんだぞ!」
「ハルデン殿」
ベネディクト司祭様が、帳面を閉じて一歩前に出られました。
「四十三日前、この樽の上であなたの書かれた証書の原本は、教会の櫃に納めてあります。洞のチーズ二百四十玉、一玉につき金貨一枚と銀貨五枚、計三百枚にて持参金と相殺。以後、互いに一切を請求せず。査定も、署名も、印も、あなたのものです。立会人として申します。証書は有効です。玉は一玉残らず、ベルナーの娘のものです」
「あれは、屑だと思ったから」
「屑だとお思いになったものに、あなたが値を付けられた。それだけのことですな」
ゲオルク様はルーカス様のほうへ向き直りました。声の調子が、急に商人めいて柔らかくなります。
「エーベルト殿。では話は早い。その四十玉を、当家の納品として受け取ってくれればいい。元はハルデンの乳だ。ハルデンの玉として卓に出して、何の不都合がある」
「不都合は、三つございます」
ルーカス様は木槌を腰に戻し、書類挟みを開かれました。声は、洞に入る許しを求められた時と少しも変わりません。
「一つ。この四十玉は、破棄の日から数えて二十日目の日付で、王宮がマルグリット・ベルナー様から買い取っています。一玉金貨十五枚、四十玉で金貨六百枚。ハルデン殿の査定の、十二倍にあたります」
「じゅ、十五枚……?」
コルデリア様の手巾が落ちました。
「二つ。ハルデン子爵家と王宮の契約を読み上げます。『ハルデン子爵家は、王女殿下ご婚礼の祝宴に、自家の蔵にて三年熟成せるチーズ四十玉を納める。前金、金貨二百枚。納期に品を納めざるときは、違約として前金の倍、金貨四百枚を返すものとする』。自家の蔵の三年熟成は、いま一玉もおありにならない」
「待て」
「三つ。末尾に連帯の印がございます。『ロッシュ商会は右の債務につき、ハルデン子爵家と連帯してその責めを負う』。印は、ロッシュ商会のご当主のものです」
「お父様の……? うそ、あれはただのお祝いの判だって、ゲオルク様が」
まあ。お読みにならずに押されたのは、お一人ではなかったようでございますね。
ゲオルク様のお顔が、洗った若玉のように白くなり、それから赤くなりました。
「たかがチーズだ! 三年など、金を積めばどうにでもなる。倍出す。一玉に金貨三枚出してやる。それで足りなければ――」
「三年は、金貨では買えませんの」
自分でも意外なほど、普段どおりの声が出ました。
「週に二度の返しが三百十二回。三日に一度の塩水が三百六十五回。それを六十玉。今日からお始めになれば、三年後の今日に熟れますわ。七日では、どなたがいくらお積みになっても」
ゲオルク様の口が開いて、閉じました。
わたくしは樽の蓋の上の小袋を取り、藁くずを払って、ゲオルク様の手の届くところへ置き直しました。
「一玉、金貨一枚と銀貨五枚。お値段をお決めになったのは、あなたさまでしたわね。本日の値は、市がお決めになります」
「……っ、覚えていろ! 黴臭い洞ごと、いずれ買い叩いてやる!」
「かしこまりました。その折は、市の値でお越しくださいませ」
「あなたのせいよ! 全部、黴臭い女のせいなんだから!」
お二人の馬車は、来た時より荒い音で坂を下りていきました。小袋はお忘れにはなりませんでした。さすがに、五十枚は惜しゅうございましたのでしょう。
ルーカス様が木槌を取り直されます。
「続けても、よろしいですか」
「ええ。三十九玉目からでございます」
こん、と詰まった音がいたしました。
◇
五十日目。王女殿下のご婚礼の日、わたくしは洞で二年ものを塩水で拭いておりました。三日に一度の日でしたので。
祝宴の様子は、秋の市の前の日に届いたルーカス様の手紙で知りました。卓には山の洞の三年ものが四十玉、切り口を上にして並んだこと。王女殿下が二切れ目を所望されたこと。そして、ハルデン子爵家からは、とうとう一玉も届かなかったこと。
手紙の二枚目は、数字だけでした。
違約の倍返し、金貨四百枚。うち、ハルデン子爵家が払えたのは百五十枚。残る二百五十枚は、連帯の印を押したロッシュ商会が肩代わり。
ロッシュ商会はただちに二百五十枚の返還を子爵家に求め、同じ書状で婚約を破談にしたそうです。コルデリア様は王都へ連れ戻される馬車の窓から、「黴臭い女のせいよ、わたくしは洗っただけ」と叫び続けておいでだったと、麓の宿の女将がヨナスに話しました。
洗っただけ、で九十玉。お見事な「だけ」でございます。
◇
五十八日目は、秋の市でした。
わたくしは残りの三年もの二十玉を荷車に積み、ヨナスと麓の広場に売り台を出しました。台の端には、もう一年寝かせるつもりのない二年ものを一玉、半分に割って切り口を見せておきます。値札は付けません。競りですから。
王女殿下の卓に載った洞の玉だと、噂は先に下りていたようです。王都の料理屋、隣領の伯爵家の家令、修道院の賄い方。売り台の前に人垣ができました。
その人垣の後ろから、ゲオルク様が手を伸ばされました。
「それは俺の乳だ。一玉、金貨二枚で全部寄越せ。払いは来月だ」
「金貨十四枚」
料理屋の主人が、ゲオルク様の肩越しに言いました。
「十五」
「十六。即金で」
競り人の槌が鳴るたびに、ゲオルク様の手は宙で行き場をなくしました。来月払いの二枚では、どなたも振り向きません。来月、あの方に払えるものが残っているかどうかも、広場の皆様はもうご存じでしたから。
わたくしは、売り台の後ろに立っておりました。何も申しません。玉を渡し、金貨を数え、帳面に付けるだけです。
二十玉は昼前に売り切れました。ゲオルク様は一玉も買えず、割って見せていた半玉の切り口を、しばらく睨んでおいででした。蜜色に白い粒の散りはじめた、ご自分が屑とお呼びになった切り口を。
片付けのあと、空の荷車の横で、ルーカス様が帽子を取られました。
「マルグリット様。一つ、申し上げてもよろしいですか」
「どうぞ」
「あなたに、求婚したいのです。王宮の買い付けとしてではなく、わたし個人として。三玉を叩いたあの日から、洞に通う口実ばかり探していました」
道理で、返しの日の覚えがお早いと思いましたわ。
「返事は急ぎません。ひと月でも、三年でも。断ってくださっても、王宮の買い付けは変わりません。あなたが決めてください」
「……少々、お時間をいただきます。玉と同じで、わたくしも急かされると割れますの」
「待ちます。伺うのは、返しの日以外に」
◇
六十日目。月の日、返しの日です。
朝のうちに、麓から知らせが二つ上がってまいりました。
一つ。ハルデン子爵家が二十八年のあいだ掲げてきた王宮御用達の鑑札が、本日付けで取り消されたこと。通達は広場の掲示板に貼られたそうです。
二つ。新蔵を建てた借金、金貨百八十枚の取り立てのため、子爵家の乳牛六十二頭のうち四十八頭が競売にかけられること。残るのは十四頭。白壁に硝子窓の蔵には、もう入れる玉がありません。
「十四頭じゃ、蔵番も雇えねえな」
ヨナスが言い、柱に六十本目の刻みを入れました。
わたくしは帳面に今日の日付を書き、「返し、百七十九」と記しました。三年ものの棚が、すっかり空いております。
昼過ぎ、ルーカス様がいらっしゃいました。入口で靴の泥を落とし、いつものとおり、そこで足を止められます。
「返しの日に伺ってしまいました。出直しましょうか」
「いいえ。今朝ヨナスに言伝を頼んだのは、わたくしですもの。どうぞお入りくださいませ」
奥の棚の前に、今日仕込んだばかりの玉が一つ、布に包んで置いてあります。麓のヨナスの甥の牛の乳で、わたくしが自分で固め、自分で型に詰めた、白くて柔らかい玉です。
「先日のお返事を申し上げます。その前に、条件が一つ」
「伺います」
「わたくしは洞を離れません。王都のお屋敷にも、伯爵家の領地にも参りません。週に二度の返しと、三日に一度の塩水がございますので。それでもよろしければ」
ルーカス様は少しのあいだ黙り、それから、空いた棚を見上げて笑われました。
「では、わたしが山に通います。買い付けで年に四度は山を越えますし、残りの日は、馬がありますから。……返しの仕事を、教えていただいてもよろしいですか。お邪魔でなければ」
「お教えいたします。お尋ねくださいましたので」
わたくしは布を解き、新しい玉を両手で抱えて、三年ものの棚のいちばん奥、空いたばかりの板の上に置きました。帳面には今日の日付と、「一玉、仕込み」。
「……手を、取ってもよろしいですか」
塩水で荒れた、黴の匂いのする手です。
わたくしのほうから、差し出しました。
「返しは三百十二回、お手伝いいただきますわ。三年後、この玉をご一緒に切りましょう。わたくしが、そう決めました」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。三年かけた玉の味が少しでも伝わりましたら、下の★で評価をいただけると次の一本の励みになります。作者ページには完結済みの長編もございますので、よろしければそちらもお楽しみください。
新しいお話を書いたときにお知らせが届きますので、よろしければ作者をお気に入りユーザに登録していただけると嬉しいです。




