高田馬場に馬がいた
高田馬場に馬がいた。
駅前のロータリーでもなく、早稲田通りの真ん中でもない。
さかえ通りの入口にあるコンビニの前で、馬は静かに立っていた。
茶色い、大きな馬だった。
鞍もついていない。手綱もない。
ただ、そこにいた。
「……馬だ」
僕は言った。
隣を歩いていた大学生らしい男が、スマホから顔を上げた。
「馬ですね」
それだけ言って、またスマホを見た。
いや、馬ですね、じゃないだろう。
ここは高田馬場だ。
名前に馬場とついているからといって、馬がいていい場所ではない。
駅前では学生たちが待ち合わせをしている。外国人観光客が地図を見ている。ラーメン屋の前には行列ができている。
その中で、馬だけが妙に落ち着いていた。
むしろ、人間のほうがここにいることを許可されているような顔をしている。
僕はコンビニに入った。
店員に聞いてみた。
「すみません。外に馬がいるんですけど」
ネパール人らしい店員は、一度外を見た。
「ああ」
知っているらしい。
「いつからいるんですか」
「朝からです」
「警察とか呼ばないんですか」
店員は少し考えた。
「でも、何もしてないです」
確かに何もしていない。
暴れているわけでもない。
商品を盗んでいるわけでもない。
駐車違反ですらない。
ただ立っている。
「草とか食べるんですかね」
僕が聞くと、店員は首を傾げた。
「高田馬場、草ないです」
その通りだった。
僕は水を一本買った。
外に出ると、馬の周りには少しだけ人だかりができていた。
みんな写真を撮っている。
「高田馬場に馬いたw」
そんな文章と一緒に、おそらく今ごろ大量の馬の写真がSNSに流れているのだろう。
馬はそんなことなど気にも留めない。
僕は少し離れたところから眺めた。
すると、馬がこちらを見た。
目が合った。
妙な感じがした。
動物と目が合った、という感じではなかった。
人間と目が合ったときに近かった。
馬が、一歩こちらへ近づいた。
僕もなぜか逃げなかった。
さらに一歩。
大きい。
近くで見ると、本当に大きい。
鼻息が聞こえる。
馬は僕の目の前まで来ると、顔を寄せた。
そして――
「おい」
と言った。
僕は動けなかった。
「……え?」
馬はもう一度言った。
「ここ、馬場じゃないのか」
僕は馬を見た。
馬も僕を見た。
「高田馬場ですけど」
「そうだろう」
馬は安心したように鼻を鳴らした。
「じゃあ、合ってるじゃないか」
「何がですか」
「場所だよ」
「いや……」
僕は周囲を見た。
誰も驚いていない。
いや、正確には誰もこちらを見ていなかった。
学生たちは写真を撮り終え、もう駅のほうへ歩き始めている。
コンビニの店員もレジに戻っていた。
僕だけが、馬と話している。
「もしかして」
僕は小声で聞いた。
「あなたの声、僕にしか聞こえてません?」
馬はしばらく黙った。
「そのようだな」
「なんで?」
「知らん」
「どこから来たんですか」
馬は早稲田通りの向こうを見た。
車が走っている。
信号が変わる。
遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
そして馬は言った。
「江戸だ」
僕は何も言えなかった。
「江戸の高田馬場に向かっていた」
馬は続けた。
「少し道を間違えたらしい」
少しどころではない。
三百年くらい間違えている。
僕はもう一度、駅前を見た。
ビル。
看板。
チェーン店。
スマートフォンを持った人々。
そしてその真ん中にいる、江戸から来たという馬。
その日から僕は、
高田馬場という地名を、
以前と同じ意味では見られなくなった。




