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観測者は感情を知らない  作者: 白鐘
第一章 境界
7/27

7 均衡


朝。


境界堂。

窓から入る光が、やけに白い。



マスターはアイスをひと口すくう。


「……」


飲み込む。

少しだけ首を傾げる。


「今日のバニラ、薄いねぇ」


ファニーが即座に反応する。


「は? 濃いけど? むしろ甘さ暴力なんだけど?」


スプーンを奪って味見する。


「ほら、普通にうま……」


止まる。


マスターを見る。

本当に分かっていない顔。


シエルが静かに言う。


「味覚は主観だ」


だが視線は外さない。


マスターはもう一口。


「昔は、もう少し重かった気がする」


軽い口調。


でも。


シロの耳がぴくりと動く。


「重さを覚えておるのか?」


「さあ」


即答。


間がない。

迷いがない。


ファニーがぽつり。


「鼻血も出ないしね、最近」


空気が少し止まる。

マスターは額に触れる。


「出る理由がないからね」


穏やか。

本当に、穏やか。


シエルが低く問う。


「“理由”とは何だ」


「無理をした時だろう?」


「今は無理をしていないと?」


「していない」


即答。


速い。

滑らか。


傷があるか確かめるみたいに、シエルは言葉を重ねる。


「昨日、街の関係性を切断した」


「必要だった」


「代償は?」


「特に感じない」


感じない。

その言い方。


ファニーが机に肘をつく。


「ねえマスター。ほんとに“感じない”の?」


沈黙。


ほんの一瞬だけ。

マスターの視線が、窓の外へ流れる。


商店街。


昨日より少し、静かだ。


挨拶が減った。

それだけ。


「問題ないよ」


―微笑む。



……


いつもの通り。


マスターはパン屋の前を通る。

店主と目が合う。


沈黙。


にこり、ともされない。

ただの客として扱われる。


マスターは小さく首を傾げる。


「……なるほど」


ファニーが横から言う。


「減るだけ、って言ってたよね」


その声は軽くない。


通りの人たちも、どこかよそよそしい。

敵意ではない。


でも、温度がない。


シエルが静かに分析する。


「浅い繋がりは、街の緩衝材だった」


ファニーが腕を組む。


「クッション全部抜いたら、そりゃ硬くなるでしょ」


マスターは黙る。

昨夜、確かに“整理”した。


不要だと判断した。

だが。


不要と、無価値は違う。


その日の依頼。


迷子の小学生。

母親は泣きそうな顔で言う。


「この辺の人、最近みんな冷たくて……誰も声をかけてくれなくて」


ファニーの視線が刺さる。

シエルは何も言わない。


それが一番重い。


事務所に戻った後。


ファニーが堪えきれず言う。


「マスターのやり方、嫌い」


静か。


「怪異は倒せたよ。でもさ」


拳を握る。


「街まで切る必要あった?」


マスターはすぐに答えない。


シロが窓辺で目を細める。

試すように。


マスターは椅子に座る。


「守るためだった」


「誰を?」


即答できない。

沈黙が落ちる。


シエルが静かに言う。


「あなたは最適解を選ぶ。

だが、最適が最善とは限らない」


痛い言葉。


マスターは額に手を当てる。

少しだけ、笑う。


「……僕は極端なんだ」


ファニーが睨む。


「知ってる」


その言い方は、完全否定じゃない。


マスターは立ち上がる。

窓の外を見る。


人の流れ。

少し距離のある街。


ただ、息を吸う。


「改善するよ」


ファニーが眉を上げる。


「どうやって」


マスターは少し考え、

それから、言う。


「顔と名前を覚えるところから」


シエルが一瞬、目を見開く。


「……本気か」


「努力目標」


ファニーが吹き出す。


「低い!」


「僕にしては高い」


シロがふんと鼻を鳴らす。


「力で縫うより、手で結べ」


マスターは頷く。


「定義は、最後の手段にする」



夜。


パン屋へ戻る。

マスターは立ち止まり、言う。


「昨日の食パン、美味しかったです」


店主が少し驚き、そして笑う。


「ああ、ありがとうございます」


小さなやり取り。

薄い繋がり。


でも今度は、覚える。


名前も。

顔も。


ファニーが横で小さく言う。


「……まあ、50点」


シエルが続ける。


「伸びしろはある」


マスターは肩をすくめる。


「君たちに鍛えられてるからね」


シロは満足げに尾を揺らす。


街はまだ少し硬い。

でも。


今度は切らない。

結び直す。


境界堂。


均衡は、力だけで保つものではないと、

少しだけ学んだ夜だった。



……



事務所の小さなテーブル。


湯気の立つ味噌汁。

山盛りの唐揚げ。

申し訳程度のミニトマト。


ファニーの箸が疾風。


「シエルの唐揚げいっただきぃ!」


ぱく。

一瞬の勝利。


だが次の瞬間。


「あっ! 私のミニトマトいつの間に!」


シエル、静かに咀嚼。


「ふん、勝利の余韻に浸っているからだ」


完全なカウンター。


ファニーが机を叩く。


「等価交換になってない!」


「油分とビタミン。合理的だ」


「理屈うるさい!」


その様子を、向かい側で見ているマスター。


……ふふ。


ほんの少し。


いつもの“作った角度”ではない。

深いところから、柔らかく浮いた笑み。


ファニーが気づく。


「あ、マスター! 今笑ったな!」


マスターはすぐに整える。


「ん? 僕はいつも笑っているだろう?

口角を3度、目じりを2度傾ける。ほら、完ぺき。」


実演。

きっちり再現。


シエルが箸を止める。

じっと見る。


「いいえ、マスター、あなたは笑っていた」


静か。


ファニーも見る。


「今のは違った」


マスターの手が止まる。


「何が」


シエルが淡々と続ける。


「角度ではない。

計算もない。

防御もない」


ファニーが身を乗り出す。


「なんかさ、こう……油断してた」


沈黙。

味噌汁の湯気が揺れる。


マスターは少しだけ視線を落とす。 


「……そうか」


小さく息を吐く。


「覚えていない人に笑うのは、簡単なんだ」


二人が黙る。


「でも」


唐揚げをもう一つ皿に足す。


「目の前で奪い合ってるのを見るのは、想定外だった」


ファニーが笑う。


「なにそれ」


シエルが小さく言う。


「不意打ちか」


マスターは頷く。


「定義できない瞬間だった」


言ってから、少し首を振る。


「いや、定義しなくていい瞬間か」


シロが椅子の上で尾を揺らす。


「ようやく学んだか」 


マスターは苦笑する。


「シロに監視されてるからね」


ファニーが唐揚げをつまむ。

今度は自分の皿に戻す。


「マスターも取れば?」


マスターが目を瞬く。


「いいの?」


「今は敵じゃないから」


シエルが補足。


「一時停戦」


マスターが唐揚げを一つ取る。


三人の箸が、同じ皿に伸びる。

軽くぶつかる。


一瞬、視線が合う。

笑いがこぼれる。


今度は。

角度も計算もない。

ただの、食卓の笑い。


シエルがぽつり。


「その顔を、覚えておけ」


マスターは少し驚き、

それから静かに頷く。


「努力する」


唐揚げの湯気の向こうで、

境界堂の灯りがあたたかく揺れている。


均衡は、たぶん今、ここにある。




……


事務所の二階。


小さなベッドと簡素な机。

窓から街灯の光が細く差し込む。


ファニーは床に寝転び、天井を見ている。


「ねえ、マスターって危うすぎない?」


間。


シエルは椅子に座り、膝に肘を乗せたまま答える。


「同意。人として欠けている」


言葉は冷静。

だが否定ではない。


ファニーが続ける。


「笑ってるけどさ。

あれ、作ってるじゃん」


「角度を指定していた」


「そう、それ」


沈黙。

遠くで車の音。


ファニーが小さく言う。


「今日のやつさ」


唐揚げの湯気の向こうの笑み。


「あれ、たぶんレアだよね」


シエルが目を閉じる。


「あれは防御がなかった」


「だよね」


ファニーが天井に手を伸ばす。


「私たちが守られてるけどさ」


少し、言い淀む。


「放っておけないわ」


シエルの視線が揺れる。


「彼は極端だ」


淡々と。


「守ると決めれば全てを切る。

不要と判断すれば躊躇しない」


水の怪異の夜が、よぎる。


「だが、自分のことは削り続けている」


ファニーが起き上がる。


「それ」


シエルが続ける。


「自分を勘定に入れていない」


短い沈黙。

ファニーが拳を握る。


「じゃあさ」


まっすぐな目。


「私たちが守らないとだ」


シエルは一瞬、驚く。

そして、静かに頷く。


「ああ」


低い声。


「俺たちが守る」


風が窓を揺らす。


その時。

廊下の向こうで、カップの音。


かちゃ。

気配。


二人は顔を見合わせる。


「……聞こえてたと思う?」


シエルは首を振る。


「彼は気配を消せる。

だが今は消していない」


つまり。

聞こえている可能性が高い。


ファニーが小さく笑う。


「まあいっか」


ベッドに倒れ込む。


「守るって言っとかないと、あの人本気で一人で全部やるし」


シエルも立ち上がる。

窓の外を見る。 


街の灯り。

均衡。



そして、事務所の一階。

マスターはカップを持ったまま立っている。


階段の影。

聞こえていた。

全部。


目を閉じる。

ほんの少しだけ、呼吸が揺れる。

小さく呟く。


「……参ったな」


角度のない笑み。

でも今度は、少しだけ弱い。


守る側だったはずが、

守られる側に回りつつある。


境界堂。

均衡は、三人で取るものになり始めている。




朝。

ぎこちない距離。


マスターは新聞を読んでいる。

いつもより机との距離が5センチ遠い。


ファニーがじっと見る。


「……なんか遠くない?」 


「気のせいだ」


即答。


シエルが観察。


「視線が合わない」


マスター、ページをめくる音だけ妙に大きい。


「定義、通常運転」


空気がぴしっと固まる。


ファニーが立ち上がる。


ずいっ。

顔を覗き込む。


「聞いてたでしょ」


沈黙。


まばたき。

一秒。

二秒。


「……聞こえていた」


珍しく。

ほんの少しだけ。


「……その」


言葉を選ぶ仕草。


「守る、というのは」


視線が泳ぐ。


「役割分担が非効率では?」 


ファニー、にや。


「効率じゃないの」


シエル、静かに。


「対等だ」


その瞬間。


マスターの指が、机の端を少しだけ握る。


「……対等、か」


初めて聞く単語みたいに、噛みしめる。


そして。

ぽつり。


「では」


ほんのわずかに声が柔らぐ。


「時折、頼ってもいいのか」


ファニーが即答。


「当たり前だろ!」


シエルも頷く。


「俺たちはチームだ」


マスター、視線を逸らしながら。


「……では本日のコーヒーは、任せる」


「頼り方そこっ!?」


でも確かに一歩。


窓から、白い影。

ふわり。

シロが着地。


尾がゆるりと揺れる。


「ようやく対等じゃな」 


三人が振り向く。


「ぬしは守護者気取りが過ぎたのじゃ」


マスター苦笑。


「守るのは性分でね」


シロが鼻を鳴らす。


「守る者も守られる。

それで街は回る」


金色の瞳が細まる。


「三位一体。均衡完成じゃ」


ファニーが小さく言う。


「なんかさ」


シエルも続く。


「昨日より、空気が軽い」


マスターは少し考え、

角度を作らず、

そのまま、自然に。

笑う。


定義、不要。


それを見た二人の顔が一瞬止まる。


シロが呟く。


「それじゃ」


ファニー、真っ赤。


「それだよそれーー!!」


マスター「うっ、胃もたれが…」


ファニー「年齢?」


マスター「失礼だな。……ただ、少し重い」


シエル「血は出ていないな」


マスター「出ないよ。今日は、重いだけだ」


ファニー「だから胃だってば」

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