7 均衡
朝。
境界堂。
窓から入る光が、やけに白い。
マスターはアイスをひと口すくう。
「……」
飲み込む。
少しだけ首を傾げる。
「今日のバニラ、薄いねぇ」
ファニーが即座に反応する。
「は? 濃いけど? むしろ甘さ暴力なんだけど?」
スプーンを奪って味見する。
「ほら、普通にうま……」
止まる。
マスターを見る。
本当に分かっていない顔。
シエルが静かに言う。
「味覚は主観だ」
だが視線は外さない。
マスターはもう一口。
「昔は、もう少し重かった気がする」
軽い口調。
でも。
シロの耳がぴくりと動く。
「重さを覚えておるのか?」
「さあ」
即答。
間がない。
迷いがない。
ファニーがぽつり。
「鼻血も出ないしね、最近」
空気が少し止まる。
マスターは額に触れる。
「出る理由がないからね」
穏やか。
本当に、穏やか。
シエルが低く問う。
「“理由”とは何だ」
「無理をした時だろう?」
「今は無理をしていないと?」
「していない」
即答。
速い。
滑らか。
傷があるか確かめるみたいに、シエルは言葉を重ねる。
「昨日、街の関係性を切断した」
「必要だった」
「代償は?」
「特に感じない」
感じない。
その言い方。
ファニーが机に肘をつく。
「ねえマスター。ほんとに“感じない”の?」
沈黙。
ほんの一瞬だけ。
マスターの視線が、窓の外へ流れる。
商店街。
昨日より少し、静かだ。
挨拶が減った。
それだけ。
「問題ないよ」
―微笑む。
……
…
いつもの通り。
マスターはパン屋の前を通る。
店主と目が合う。
沈黙。
にこり、ともされない。
ただの客として扱われる。
マスターは小さく首を傾げる。
「……なるほど」
ファニーが横から言う。
「減るだけ、って言ってたよね」
その声は軽くない。
通りの人たちも、どこかよそよそしい。
敵意ではない。
でも、温度がない。
シエルが静かに分析する。
「浅い繋がりは、街の緩衝材だった」
ファニーが腕を組む。
「クッション全部抜いたら、そりゃ硬くなるでしょ」
マスターは黙る。
昨夜、確かに“整理”した。
不要だと判断した。
だが。
不要と、無価値は違う。
その日の依頼。
迷子の小学生。
母親は泣きそうな顔で言う。
「この辺の人、最近みんな冷たくて……誰も声をかけてくれなくて」
ファニーの視線が刺さる。
シエルは何も言わない。
それが一番重い。
事務所に戻った後。
ファニーが堪えきれず言う。
「マスターのやり方、嫌い」
静か。
「怪異は倒せたよ。でもさ」
拳を握る。
「街まで切る必要あった?」
マスターはすぐに答えない。
シロが窓辺で目を細める。
試すように。
マスターは椅子に座る。
「守るためだった」
「誰を?」
即答できない。
沈黙が落ちる。
シエルが静かに言う。
「あなたは最適解を選ぶ。
だが、最適が最善とは限らない」
痛い言葉。
マスターは額に手を当てる。
少しだけ、笑う。
「……僕は極端なんだ」
ファニーが睨む。
「知ってる」
その言い方は、完全否定じゃない。
マスターは立ち上がる。
窓の外を見る。
人の流れ。
少し距離のある街。
ただ、息を吸う。
「改善するよ」
ファニーが眉を上げる。
「どうやって」
マスターは少し考え、
それから、言う。
「顔と名前を覚えるところから」
シエルが一瞬、目を見開く。
「……本気か」
「努力目標」
ファニーが吹き出す。
「低い!」
「僕にしては高い」
シロがふんと鼻を鳴らす。
「力で縫うより、手で結べ」
マスターは頷く。
「定義は、最後の手段にする」
夜。
パン屋へ戻る。
マスターは立ち止まり、言う。
「昨日の食パン、美味しかったです」
店主が少し驚き、そして笑う。
「ああ、ありがとうございます」
小さなやり取り。
薄い繋がり。
でも今度は、覚える。
名前も。
顔も。
ファニーが横で小さく言う。
「……まあ、50点」
シエルが続ける。
「伸びしろはある」
マスターは肩をすくめる。
「君たちに鍛えられてるからね」
シロは満足げに尾を揺らす。
街はまだ少し硬い。
でも。
今度は切らない。
結び直す。
境界堂。
均衡は、力だけで保つものではないと、
少しだけ学んだ夜だった。
……
…
事務所の小さなテーブル。
湯気の立つ味噌汁。
山盛りの唐揚げ。
申し訳程度のミニトマト。
ファニーの箸が疾風。
「シエルの唐揚げいっただきぃ!」
ぱく。
一瞬の勝利。
だが次の瞬間。
「あっ! 私のミニトマトいつの間に!」
シエル、静かに咀嚼。
「ふん、勝利の余韻に浸っているからだ」
完全なカウンター。
ファニーが机を叩く。
「等価交換になってない!」
「油分とビタミン。合理的だ」
「理屈うるさい!」
その様子を、向かい側で見ているマスター。
……ふふ。
ほんの少し。
いつもの“作った角度”ではない。
深いところから、柔らかく浮いた笑み。
ファニーが気づく。
「あ、マスター! 今笑ったな!」
マスターはすぐに整える。
「ん? 僕はいつも笑っているだろう?
口角を3度、目じりを2度傾ける。ほら、完ぺき。」
実演。
きっちり再現。
シエルが箸を止める。
じっと見る。
「いいえ、マスター、あなたは笑っていた」
静か。
ファニーも見る。
「今のは違った」
マスターの手が止まる。
「何が」
シエルが淡々と続ける。
「角度ではない。
計算もない。
防御もない」
ファニーが身を乗り出す。
「なんかさ、こう……油断してた」
沈黙。
味噌汁の湯気が揺れる。
マスターは少しだけ視線を落とす。
「……そうか」
小さく息を吐く。
「覚えていない人に笑うのは、簡単なんだ」
二人が黙る。
「でも」
唐揚げをもう一つ皿に足す。
「目の前で奪い合ってるのを見るのは、想定外だった」
ファニーが笑う。
「なにそれ」
シエルが小さく言う。
「不意打ちか」
マスターは頷く。
「定義できない瞬間だった」
言ってから、少し首を振る。
「いや、定義しなくていい瞬間か」
シロが椅子の上で尾を揺らす。
「ようやく学んだか」
マスターは苦笑する。
「シロに監視されてるからね」
ファニーが唐揚げをつまむ。
今度は自分の皿に戻す。
「マスターも取れば?」
マスターが目を瞬く。
「いいの?」
「今は敵じゃないから」
シエルが補足。
「一時停戦」
マスターが唐揚げを一つ取る。
三人の箸が、同じ皿に伸びる。
軽くぶつかる。
一瞬、視線が合う。
笑いがこぼれる。
今度は。
角度も計算もない。
ただの、食卓の笑い。
シエルがぽつり。
「その顔を、覚えておけ」
マスターは少し驚き、
それから静かに頷く。
「努力する」
唐揚げの湯気の向こうで、
境界堂の灯りがあたたかく揺れている。
均衡は、たぶん今、ここにある。
……
…
事務所の二階。
小さなベッドと簡素な机。
窓から街灯の光が細く差し込む。
ファニーは床に寝転び、天井を見ている。
「ねえ、マスターって危うすぎない?」
間。
シエルは椅子に座り、膝に肘を乗せたまま答える。
「同意。人として欠けている」
言葉は冷静。
だが否定ではない。
ファニーが続ける。
「笑ってるけどさ。
あれ、作ってるじゃん」
「角度を指定していた」
「そう、それ」
沈黙。
遠くで車の音。
ファニーが小さく言う。
「今日のやつさ」
唐揚げの湯気の向こうの笑み。
「あれ、たぶんレアだよね」
シエルが目を閉じる。
「あれは防御がなかった」
「だよね」
ファニーが天井に手を伸ばす。
「私たちが守られてるけどさ」
少し、言い淀む。
「放っておけないわ」
シエルの視線が揺れる。
「彼は極端だ」
淡々と。
「守ると決めれば全てを切る。
不要と判断すれば躊躇しない」
水の怪異の夜が、よぎる。
「だが、自分のことは削り続けている」
ファニーが起き上がる。
「それ」
シエルが続ける。
「自分を勘定に入れていない」
短い沈黙。
ファニーが拳を握る。
「じゃあさ」
まっすぐな目。
「私たちが守らないとだ」
シエルは一瞬、驚く。
そして、静かに頷く。
「ああ」
低い声。
「俺たちが守る」
風が窓を揺らす。
その時。
廊下の向こうで、カップの音。
かちゃ。
気配。
二人は顔を見合わせる。
「……聞こえてたと思う?」
シエルは首を振る。
「彼は気配を消せる。
だが今は消していない」
つまり。
聞こえている可能性が高い。
ファニーが小さく笑う。
「まあいっか」
ベッドに倒れ込む。
「守るって言っとかないと、あの人本気で一人で全部やるし」
シエルも立ち上がる。
窓の外を見る。
街の灯り。
均衡。
そして、事務所の一階。
マスターはカップを持ったまま立っている。
階段の影。
聞こえていた。
全部。
目を閉じる。
ほんの少しだけ、呼吸が揺れる。
小さく呟く。
「……参ったな」
角度のない笑み。
でも今度は、少しだけ弱い。
守る側だったはずが、
守られる側に回りつつある。
境界堂。
均衡は、三人で取るものになり始めている。
朝。
ぎこちない距離。
マスターは新聞を読んでいる。
いつもより机との距離が5センチ遠い。
ファニーがじっと見る。
「……なんか遠くない?」
「気のせいだ」
即答。
シエルが観察。
「視線が合わない」
マスター、ページをめくる音だけ妙に大きい。
「定義、通常運転」
空気がぴしっと固まる。
ファニーが立ち上がる。
ずいっ。
顔を覗き込む。
「聞いてたでしょ」
沈黙。
まばたき。
一秒。
二秒。
「……聞こえていた」
珍しく。
ほんの少しだけ。
「……その」
言葉を選ぶ仕草。
「守る、というのは」
視線が泳ぐ。
「役割分担が非効率では?」
ファニー、にや。
「効率じゃないの」
シエル、静かに。
「対等だ」
その瞬間。
マスターの指が、机の端を少しだけ握る。
「……対等、か」
初めて聞く単語みたいに、噛みしめる。
そして。
ぽつり。
「では」
ほんのわずかに声が柔らぐ。
「時折、頼ってもいいのか」
ファニーが即答。
「当たり前だろ!」
シエルも頷く。
「俺たちはチームだ」
マスター、視線を逸らしながら。
「……では本日のコーヒーは、任せる」
「頼り方そこっ!?」
でも確かに一歩。
窓から、白い影。
ふわり。
シロが着地。
尾がゆるりと揺れる。
「ようやく対等じゃな」
三人が振り向く。
「ぬしは守護者気取りが過ぎたのじゃ」
マスター苦笑。
「守るのは性分でね」
シロが鼻を鳴らす。
「守る者も守られる。
それで街は回る」
金色の瞳が細まる。
「三位一体。均衡完成じゃ」
ファニーが小さく言う。
「なんかさ」
シエルも続く。
「昨日より、空気が軽い」
マスターは少し考え、
角度を作らず、
そのまま、自然に。
笑う。
定義、不要。
それを見た二人の顔が一瞬止まる。
シロが呟く。
「それじゃ」
ファニー、真っ赤。
「それだよそれーー!!」
マスター「うっ、胃もたれが…」
ファニー「年齢?」
マスター「失礼だな。……ただ、少し重い」
シエル「血は出ていないな」
マスター「出ないよ。今日は、重いだけだ」
ファニー「だから胃だってば」




