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観測者は感情を知らない  作者: 白鐘
第三章 選択
26/32

6 お酒は怖いねぇ


午前八時三十分。境界堂。


湯気が立つ。

マスターはカップを持ち上げる。


一口。

止まる。

もう一口。


「……水だな」


静かな断言。


ファニーが固まる。


「それブラックコーヒーだよ?」


「うん。見た目は」


もう一口。

苦味も酸味もない。

ただ温度だけが喉を通る。


シエルが淡々と告げる。


「味覚信号の情動連動が遮断されています。器官自体は正常」


マスターは少し笑う。


「つまり、心がサボってる?」


「あるいは、過負荷後の保護処理」


静かな朝。

窓の外で、商店街のシャッターが上がる音。

金属の擦れる響き。

マスターはカップを置く。


「……なんか、薄いな」


ファニーが立ち上がる。


「よし、散歩!」


即断。


「拒否権なし!」


「え、まだパジャマ」


「着替えて!」


マスターは抵抗しない。

少しだけ考えて。


「まあ、歩くか」


内側は静か。

観測者は何も言わない。

ただ、いる。


玄関を開ける。

朝の空気が流れ込む。


パン屋の匂い。

揚げ油の予告。

遠くのトラック。


マスターは鼻を鳴らす。


「匂いはする」


ファニーがにやっと笑う。


「じゃあ半分勝ち」


シエルが続く。


「外界刺激による再接続を試みます」


階段を降りる。

商店街のアーチが朝日を受けて光る。

世界は、ちゃんとそこにある。


味はない。

でも。


「……悪くないな」


ファニーが振り返る。


「なにが?」


マスターは少しだけ空を見て。


「朝」


それはまだ幸せじゃない。

でも。

ゼロではない。



■ 商店街裏路地・午前九時


朝の光がまだ斜め。

シャッター半分の店が並ぶ。

自販機の唸り。


その横。


スーツ姿の“膝丈”くらいのオッサンが体育座りしている。

ネクタイだけやけにきっちり。


「……縮んだ?」


「縮んだのではなく、自己定義が収束しています」


「……まだ、帰れん」


マスターがしゃがむ。視線を合わせる。


「どこに?」


「会社だ。朝礼がある。遅刻は減点だ」


「会社、もうないよ」


オッサン、瞬きもせず。


「ある。俺の席がある。窓側、二番目」


空気が少し冷える。

背後のビルは更地。クレーンが止まっている。

マスターは否定を重ねない。


「今日、休んだらどうなる?」


「席がなくなる」


「もう席はない。でも」


マスターは少しだけ笑う。


「帰る場所は、作れる」


オッサンの影が揺れる。


「作る? 誰が?」


ファニーが指を挙げる。


「商店街の喫茶店、朝は空いてるよ。窓側、たぶん空いてる」


オッサンのネクタイが、ふっと緩む。


「……窓側」


マスターが続ける。


「今日はそこに出社。減点なし」


オッサンの手が、空を握る。


「部下に……言えなかった」


「何を?」


「休め、と」


沈黙。

自販機がコトンと音を立てる。


マスターは言う。


「じゃあ、今言った。部下、聞いた」


オッサンの輪郭が、柔らかくなる。


「……承知」


小さく敬礼。

ネクタイが光にほどける。

消える直前。


「窓側、好きだったんだ」


「知ってる」


オッサンは、少しだけ笑う。

粒子になって、朝の光に溶ける。

静けさが戻る。


「倒してないよね?」


「うん。整えただけ」


「安定しました」


マスターは立ち上がる。

更地の向こうに、風が通る。


「……今日、いい天気だな」


味はまだ戻らない。

でも、朝はあたたかい。


商店街の奥から、揚げ油の匂いが流れてくる。



■ 中規模怪異・群体型


午後四時。交差点。


夕陽が伸びる。

足元の影が、剥がれる。

ぬるり、と黒が浮き、無数の目が瞬く。


「多っ!」


影が波のように広がる。

シエルが即座に片手を上げる。


「位相固定、展開」


交差点の中心に透明な円環が走る。

影の進行が一瞬、鈍る。


その隙にファニーが踏み込む。


「足止めする!」


軽い跳躍。

影を蹴る。

蹴られた黒が霧のように弾ける。


でも消えない。

再集合する。


壁面に、本体。

巨大な黒の塊。

目が、ゆっくり瞬く。


クロードが前へ。


「起きろ」


拳を握る。


「餓狼」


低い衝撃。

殴る。

影が砕ける。

だが増える。


「核健在。群体増殖率上昇しています」


影がマスターへ流れる。


未来が重なる。

倒れるファニー。

崩れる防壁。


喉が固まる。


「……怖いな」


正直に言う。


影が迫る。


「定義――」


止まる。

刃の気配が消えない。

でも、振らない。


「……違う」


息を吸う。

黒を見据える。


「俺はそれを選ばない」


枝が軋む。

一本、折れる。

その瞬間。


「核、揺れてます」


「今!」


クロードが跳ぶ。

壁面へ。

一撃。


核が揺れる。

ファニーが地面を蹴る。

残滓を蹴散らし、マスターへの流入を遮断。

シエルが静かに重ねる。


「収束完了」


クロードの二撃目。

拳が核を砕く。


黒が崩壊する。

影が舗道に戻る。

夕陽が戻る。

静寂。


ファニーが息を吐く。


「やっぱ怖いんじゃん!」


マスターは汗を拭う。


「うん。怖い」


クロードは拳を軽く振る。


「選んだな」


マスターは頷く。


削ってない。

消してない。

怖さは残っている。


でも。

守れた。


信号が青に変わる。

人々が歩き出す。

世界は続いている。




■ 商店街・夜 


提灯が揺れる。

揚げ油の匂い。

遠くの笑い声。


アーケードの真ん中。

小さな女の子が立っている。


ワンピース。

片手に赤い風船。

泣いている。


ファニーが反射で一歩出る。

シエルが袖を掴む。


「疑似餌。捕食型です」


足元。


影が、ゆらりと広がる。

目はない。

でも“口”がある。


女の子が顔を上げる。


「ねえ」


声は普通。


「遊んで?」


空気が冷える。

クロードが拳を鳴らす。


「潰すか」


マスターが首を振る。


「待って」


しゃがむ。

視線を合わせる。


「何して遊ぶ?」


女の子、少し首を傾げる。


「かくれんぼ」


足元の影が波打つ。


「見つけたら、どうする?」


「……食べる」


「正直!」


影がじわりと広がる。


「情動依存型。拒絶で暴走」


マスターは少し考える。

味はない。

でも、胸の奥が重い。


「帰る場所、ある?」


女の子が首を振る。


「ないよ」


風船が揺れる。

影が膨らむ。


ここで。


未来は見ない。

言いかけない。

ただ、言う。


「じゃあ」


一拍。


「今だけ、ここにいればいい」


影がざわつく。


「消えちゃうよ?」


マスターは頷く。


「うん」


「でも、消える前に笑えたらいい」


静寂。

提灯の光が揺れる。


女の子が、ほんの少し笑う。

ぎこちなく。


影が止まる。

広がらない。


「……笑ったら、どうなるの?」


「たぶん、軽くなる」


女の子は風船を見上げる。


そして。

小さく、笑う。


影が、ほどける。

黒が床に溶ける。

風船が、ふっと消える。


最後に残った声。


「……あったかい」


粒子になって消える。

静かな夜。

ファニーがぽかん。


「倒してないよね?」


「うん」


マスターは立ち上がる。


「選ばなかっただけ」


シエルが小さく頷く。


「止まりました」


クロードは拳を下ろす。


「殴らなくて済んだな」


マスターは夜の商店街を見渡す。


味はない。

でも。


胸の奥が、少しだけ温かい。

遠くで屋台の笑い声。


ファニーが言う。


「三件目!」


マスターは小さく笑う。


「忙しいな」


その笑いは、さっきより柔らかい。



■ 商店街・屋台通り 夜


提灯がぽこぽこ灯る。

焼き鳥の煙がふわりと流れる。

木の長椅子。


クロード、どっかり座る。


「ビール」


店主が無言で置く。


マスターはおちょこを前に置かれる。

透明な液体。


ファニーはラムネを開ける。

ぱちん。

シエルはジンジャーエール。

泡が静かに弾ける。


マスター、くん、と匂いをかぐ。


「匂いは、する」


一口。

止まる。


「……味は、ないな」


クロードが鼻で笑う。


「飲む意味あるのか」


「雰囲気」


二口目。

三口目。

喉が熱い。

体がじんわり温まる。


ファニーが肘でつつく。


「今日さ、ちゃんと怖いって言ってたね」


マスター、きょとん。


「言ってた?」


「言ってた!」


シエルが静かに補足。


「感情抑制なし。良好傾向です」


マスター、ふっと笑う。

小さく。


それが、少し大きくなる。

くす。

くく。


「……なんか」


肩が震える。


「なんかおかしい」


「何が!?」


「わかんない」


笑いがこみ上げる。


「はは、ははは」


クロードがじっと見る。


「酔ったな」


マスター、頬が赤い。


「ちがう、たぶん、ちがう」


でも笑う。

止まらない。


「今日さ」


笑いながら言う。


「三件も守ったんだよな」


ファニーが胸を張る。


「誇っていいやつ!」


マスター、笑いながら目を細める。


「うん」


少し間。


「楽しいな」


言葉が、軽い。

でも本物。


シエルが静かに観測。

クロードは無言で飲む。

マスターはおちょこを見つめる。


味はない。

でも。

胸の奥が、あたたかい。


「……幸せだな」


誰に向けたわけでもない。

言ってから、自分で少し驚く。


ファニーがにやにや。


「いま言ったね?」


「言った?」


「言った!」


マスターは笑う。

止まらない。


「はははは、屋台、揺れてない?」


「揺れてない!」


クロードがため息。


「限界だ」


その後。

何を話したか、覚えていない。


提灯が揺れる。

笑い声。



暗転。



■ 朝・屋台の屋根の上


鳥の声。


マスター、目を開ける。


「……ここどこ」


空が近い。

視界の端に提灯。

斜面。


「……高くない?」


下からクロードの声。


「高い」


低い。とても低い。


マスター、ゆっくり身を起こす。

自分、屋台の屋根の上。

ファニーが隣に座っている。


膝を抱え、無表情。


「落ちるなよ」


声が枯れている。


シエルは屋根の縁に立ち、無言で腕を組んでいる。

髪が少し乱れている。


クロードは下で腕を組み、目の下に薄く影。


「……なにがあった?」


ファニー、ゆっくり振り向く。


「覚えてない?」


「ない」


シエルが淡々と報告。


「酩酊状態で“屋台の上は風が気持ちいい”と主張」


ファニーが続ける。


「止めた」


「止まらなかった」

「物理的拘束を試みた」

「するっと抜けた」

「酔ってるくせに妙に機敏だった」


「え」


「最終的に、屋台の柱を登攀」

「サルだった」

「止めると店主が泣く」


マスター、しばし沈黙。


「……ごめん」


ファニー、目を細める。


「夜中三時まで見張り」


「転落リスク回避のため交代制」


「二度とやるな」


マスター、こほん。


「……水」


ペットボトルを渡される。


一口。


止まる。


目が、ゆっくり開く。


「……あ」


もう一口。


「……うま」


三人、同時に顔を上げる。

空気が変わる。


「味覚信号、正常化」


クロード、わずかに目を細める。

ファニーが立ち上がる。


「マジ?」


マスターは空を見る。

朝が青い。

風が匂う。

喉を通る水が、ちゃんと冷たい。


「……味、ある」


しばらく静か。

ファニーが、力が抜けたように笑う。


「じゃあ……」


その場に座り込む。


「徹夜、報われたじゃん」


クロードが鼻で笑う。


「屋根代、高くついたな」


シエルが小さく言う。


「幸せの副作用としては、許容範囲です」


マスターは三人を見る。


目の下の影。

乱れた髪。

眠そうな顔。

胸の奥が、きゅっとなる。


「……ありがとう」


自然に出る。

照れもなく。

クロードは背を向ける。


「降りろ。朝飯だ」


ファニーが手を差し出す。


「今度は地上でね?」


マスターはその手を取る。


「うん。選ぶ」


屋根から降りる。

足元はちゃんと地面。


「……幸せだな」


今度は、はっきり。

朝の商店街が、静かに笑う。



マスター「お酒は怖いねぇ」

ファニー「他人事っ!?」

クロード「屋根は二度とやるな」

シエル「再発防止策、検討します」

空白体「いやいや、自業自得でしょ」

ファニー「軽っ!?」

マスター「うるさいの起きた」

空白体「でも味覚戻ったじゃん。幸せゲージ振り切れたんだよ、たぶん」

(少し間)

マスター「……幸せかぁ」

空白体「言ってたよ。ちゃんと」

クロード「大声でな」

マスター、照れ笑い。

「じゃあさ」

「僕はそれを選ぶ」

空白体「何を?」

マスター「地上で飲む未来」

ファニー「そこ!?」

空白体「学習しよ?」

マスター「……努力目標で」

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