4 味覚
朝。
静かな事務所に、金属音が弾けた。
「うわー!」
キッチンからマスターの悲鳴。
ファニーが飛び起きる。
シエルは一瞬で状況判断し、廊下を駆ける。
「マスター!?」
扉を開ける。
沈黙。
テーブルの上を、料理が埋め尽くしていた。
焼き魚。味噌汁。卵焼き。トースト。サラダ。
なぜかホールケーキ。なぜかグラタン。なぜか二段重。
湯気がもうもうと立ち昇っている。
マスターはエプロン姿で立ち尽くしていた。
「どしたの?」
ファニーが目を瞬かせる。
シエルは即答。
「作りすぎです」
マスターは困ったように笑う。
「定義の力が強くなっててさ。キーワード言わなくても発動しちゃったみたい」
「……何を定義したんですか」
「えーと。“豪華な朝ごはん”食べたいなー?」
テーブルがきらりと輝く。
「語彙が広い!」
「抽象度が高い。危険です」
マスターは気楽に箸を取る。
「まあまあ。食べよう。もったいないし」
三人、席につく。
マスターが味噌汁を一口。
止まる。
「……どう?」
ファニーが首を傾げる。
マスターはもう一口すする。
「……たぶん、いい出来だよ」
「具体的には?」
シエルの追撃。
マスターは少し考える。
「……あれ?」
卵焼きを口に運ぶ。
噛む。
飲み込む。
「……味、しないねぇ」
空気が落ちる。
「は?」
「甘味も塩味も?」
マスターは首をかしげる。
「熱いのはわかるよ。食感もある。でも…」
一拍。
「味が、来ない」
“来ない”。
「それ、代償じゃないの?」
マスターは苦笑する。
「大丈夫だよ。栄養は取れるし」
シエルの目が細くなる。
「最近、何を定義したのですか」
沈黙。
マスターは視線を落とす。
「ああ……」
軽い声。
「未来、かな」
二人の呼吸が止まる。
「君たちが死ぬ未来枝は、要らないって。
そう定義した」
湯気が揺れる。
「舌も、先に進めなくなったのかもねぇ」
味とは、後から来るもの。
未来を拒絶した。
ならば、“先”は消える。
ファニーが立ち上がる。
「ばか」
震え声。
「そんなの、私たちのためって顔して、自分削ってるだけじゃん」
シエルが静かに言う。
「三位一体です。忘れたのですか」
マスターが瞬く。
ファニーが手を伸ばす。
シエルも、無言で触れる。
感情が揃う。
焦り。怒り。恐怖。
そして、強い肯定。
“ここにいる”。
マスターの瞳が揺れる。
「……あ」
味噌汁をもう一口。
止まる。
涙が一滴落ちる。
「しょっぱい」
ファニーが笑う。
「それ、涙」
シエルが小さく息を吐く。
「一時的です」
マスターは二人を見る。
その目は、まだ少し遠い。
「幸せだなあ」
その言葉は、まだ条件を満たさない。
味は戻りきらない。
でも。
舌の奥に、ほんの少し。
焦げたトーストの苦味が残った。
未来は、完全には閉じていない。
湯気の中、朝は続く。
湯気の立つキッチン。
マスターの「しょっぱい」が消えきらない空気。
そのとき。
二階から、ゆっくりと足音。
一定。重い。迷いがない。
階段の軋む音とともに現れたのは、長い黒コート。
寝起きでも隙がない男。
クロードが3人を見据える。
「……朝から騒がしいな」
ファニーが振り向く。
「ちょ、聞いてよ!」
シエルが端的にまとめる。
「能力の無意識発動。未来枝の拒絶。味覚消失。一時復帰確認」
クロードはテーブルの料理を見渡す。
皿。湯気。涙の跡。
そしてマスターを“視る”。
数秒。
「……そうか」
低い声。
「……私に帰還命令が出ている」
空気が変わる。
マスターがきょとんとする。
「帰還?」
クロードは階段の最後の一段を降りる。
「機関からだ。
滞在期間が想定を超えた。加えて――」
一拍。
「お前の出力が監視ラインを越えた」
「え、マスターのせい!?」
クロードは淡々と続ける。
「未来枝を拒絶する定義。
あれは局所的な時間圧縮を引き起こす」
「圧縮?」
「本来分岐するはずの可能性を潰した。
分岐を潰せば、圧は一点に集まる」
マスターは静かに聞いている。
シエルが即座に結論へ至る。
「味覚は補正対象か」
「初期症状だ」
クロードはマスターを見る。
「未来を拒絶した。
“先”を閉じた。
ならば感覚の“先”が削られる」
マスターが小さく笑う。
「理屈は通ってるねぇ」
静寂。
「機関が動く理由としては、十分だ」
「監視強化か」
「あるいは隔離だ」
「はあ!?」
クロードは動じない。
「私はまだ帰らない」
一拍。
「命令違反になるがな」
その声に揺らぎはない。
「揺り戻しの中心はここだ。
観測者が離れれば、補正は粗暴になる」
マスターが少しだけ視線を上げる。
「迷惑かけるねぇ」
「違う」
即答。
「問題は、お前の拒絶が“守る形”になっていないことだ」
クロードは続ける。
「折るな。
強い感情で別枝を固定しろ」
ファニーがマスターの袖を握る。
シエルも隣に立つ。
クロードの琥珀の瞳が細くなる。
「世界は均衡を好む。
拒絶ではなく、肯定で押し返せ」
湯気がゆらぐ。
味のない朝。
揺り戻しは、まだ小さい。
だが確実に、動き始めている。
「とりあえずギプスで封じる?」
「なんでそうなるの!?」
「論理が跳躍している。説明を求む」
マスター、真顔。
「能力って手から出てる感じするじゃん? だったら物理的に封じればワンチャン」
クロード、即答。
「ない」
一刀両断。
「能力は“定義”だ。骨格の問題ではない」
マスターは自分の腕を見つめる。
「でもさ、ギプスってなんか“制限してます”感あるよ?」
ファニーが額を押さえる。
「それ、ただの気分!」
シエルが補足する。
「象徴的拘束は一時的な抑制にはなるが、根本解決ではない」
クロードが静かに続ける。
「むしろ逆効果だ」
三人が見る。
「“封じている”という定義を強める。 拒絶の延長だ」
湯気がすっと細くなる。
マスター、少し肩を落とす。
「じゃあどうすれば」
クロードの視線はまっすぐ。
「味を取り戻した瞬間を思い出せ」
ファニーが小さく頷く。
「しょっぱい、って言ったとき」
「涙。感情の流入」
「拒絶ではなかった。 肯定だった」
マスターの目がゆっくりと瞬く。
「……守りたい、じゃなくて」
ファニーが言う。
「一緒にいたい、でしょ」
シエルが言う。
「生き延びさせる、ではなく」
クロードが締める。
「共に生きる、だ」
静かな朝。
トーストを一口かじる。
「……にがい」
ファニーが笑う。
「それ焦げてる」
「知ってる」
マスターも笑う。
ギプス案は却下。
代わりに。
四人はテーブルを囲む。
湯気はまだ立っている。
世界は揺れている。
でも。
その揺れの中心に、ちゃんと“今”がある。
クロードがコーヒーを一口飲む。
「苦いな」
マスターが即座に返す。
「それも焦げ?」
「豆だ」
味は完全ではない。
だが戻り始めている。
未来は閉じていない。
少なくとも、この朝は。
マスター「いい案だと思ったんだけどねぇ」
空白体「ちがう、ぼくはこんなポワポワした人間じゃ…」
マスター「観測は時に残酷だねぇ」
ファニー「それ、マスターが言う!?」
シエル「観測者が被観測者ぶるな」
空白体「ぼくの輪郭が甘くなっていく…」
マスター「甘いだけじゃ、つまらないでしょ」
ファニー「どこが!」
シエル「自覚の薄さが苦味だな」
マスター「……それ、効く」




