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観測者は感情を知らない  作者: 白鐘
第三章 選択
24/26

4 味覚


朝。


静かな事務所に、金属音が弾けた。


「うわー!」


キッチンからマスターの悲鳴。


ファニーが飛び起きる。

シエルは一瞬で状況判断し、廊下を駆ける。


「マスター!?」


扉を開ける。

沈黙。


テーブルの上を、料理が埋め尽くしていた。


焼き魚。味噌汁。卵焼き。トースト。サラダ。

なぜかホールケーキ。なぜかグラタン。なぜか二段重。

湯気がもうもうと立ち昇っている。


マスターはエプロン姿で立ち尽くしていた。


「どしたの?」


ファニーが目を瞬かせる。

シエルは即答。


「作りすぎです」


マスターは困ったように笑う。


「定義の力が強くなっててさ。キーワード言わなくても発動しちゃったみたい」


「……何を定義したんですか」


「えーと。“豪華な朝ごはん”食べたいなー?」


テーブルがきらりと輝く。


「語彙が広い!」


「抽象度が高い。危険です」


マスターは気楽に箸を取る。


「まあまあ。食べよう。もったいないし」


三人、席につく。

マスターが味噌汁を一口。

止まる。


「……どう?」


ファニーが首を傾げる。

マスターはもう一口すする。


「……たぶん、いい出来だよ」


「具体的には?」


シエルの追撃。

マスターは少し考える。


「……あれ?」


卵焼きを口に運ぶ。

噛む。

飲み込む。


「……味、しないねぇ」


空気が落ちる。


「は?」


「甘味も塩味も?」


マスターは首をかしげる。


「熱いのはわかるよ。食感もある。でも…」


一拍。


「味が、来ない」


“来ない”。


「それ、代償じゃないの?」


マスターは苦笑する。


「大丈夫だよ。栄養は取れるし」


シエルの目が細くなる。


「最近、何を定義したのですか」


沈黙。


マスターは視線を落とす。


「ああ……」


軽い声。


「未来、かな」


二人の呼吸が止まる。


「君たちが死ぬ未来枝は、要らないって。

そう定義した」


湯気が揺れる。


「舌も、先に進めなくなったのかもねぇ」


味とは、後から来るもの。


未来を拒絶した。

ならば、“先”は消える。


ファニーが立ち上がる。


「ばか」


震え声。


「そんなの、私たちのためって顔して、自分削ってるだけじゃん」


シエルが静かに言う。


「三位一体です。忘れたのですか」


マスターが瞬く。

ファニーが手を伸ばす。

シエルも、無言で触れる。


感情が揃う。

焦り。怒り。恐怖。

そして、強い肯定。


“ここにいる”。


マスターの瞳が揺れる。


「……あ」


味噌汁をもう一口。

止まる。

涙が一滴落ちる。


「しょっぱい」


ファニーが笑う。


「それ、涙」


シエルが小さく息を吐く。


「一時的です」


マスターは二人を見る。

その目は、まだ少し遠い。


「幸せだなあ」


その言葉は、まだ条件を満たさない。

味は戻りきらない。


でも。

舌の奥に、ほんの少し。

焦げたトーストの苦味が残った。


未来は、完全には閉じていない。

湯気の中、朝は続く。


湯気の立つキッチン。

マスターの「しょっぱい」が消えきらない空気。


そのとき。


二階から、ゆっくりと足音。


一定。重い。迷いがない。

階段の軋む音とともに現れたのは、長い黒コート。

寝起きでも隙がない男。


クロードが3人を見据える。


「……朝から騒がしいな」


ファニーが振り向く。


「ちょ、聞いてよ!」


シエルが端的にまとめる。


「能力の無意識発動。未来枝の拒絶。味覚消失。一時復帰確認」


クロードはテーブルの料理を見渡す。

皿。湯気。涙の跡。


そしてマスターを“視る”。

数秒。


「……そうか」


低い声。


「……私に帰還命令が出ている」


空気が変わる。

マスターがきょとんとする。


「帰還?」


クロードは階段の最後の一段を降りる。


「機関からだ。

滞在期間が想定を超えた。加えて――」


一拍。


「お前の出力が監視ラインを越えた」


「え、マスターのせい!?」


クロードは淡々と続ける。


「未来枝を拒絶する定義。

あれは局所的な時間圧縮を引き起こす」


「圧縮?」


「本来分岐するはずの可能性を潰した。

分岐を潰せば、圧は一点に集まる」


マスターは静かに聞いている。


シエルが即座に結論へ至る。


「味覚は補正対象か」


「初期症状だ」


クロードはマスターを見る。


「未来を拒絶した。

“先”を閉じた。

ならば感覚の“先”が削られる」


マスターが小さく笑う。


「理屈は通ってるねぇ」


静寂。


「機関が動く理由としては、十分だ」


「監視強化か」


「あるいは隔離だ」


「はあ!?」


クロードは動じない。


「私はまだ帰らない」


一拍。


「命令違反になるがな」


その声に揺らぎはない。


「揺り戻しの中心はここだ。

観測者が離れれば、補正は粗暴になる」


マスターが少しだけ視線を上げる。


「迷惑かけるねぇ」


「違う」


即答。


「問題は、お前の拒絶が“守る形”になっていないことだ」


クロードは続ける。


「折るな。

強い感情で別枝を固定しろ」


ファニーがマスターの袖を握る。

シエルも隣に立つ。

クロードの琥珀の瞳が細くなる。


「世界は均衡を好む。

拒絶ではなく、肯定で押し返せ」


湯気がゆらぐ。

味のない朝。

揺り戻しは、まだ小さい。

だが確実に、動き始めている。



「とりあえずギプスで封じる?」


「なんでそうなるの!?」


「論理が跳躍している。説明を求む」


マスター、真顔。


「能力って手から出てる感じするじゃん? だったら物理的に封じればワンチャン」


クロード、即答。


「ない」


一刀両断。


「能力は“定義”だ。骨格の問題ではない」


マスターは自分の腕を見つめる。


「でもさ、ギプスってなんか“制限してます”感あるよ?」


ファニーが額を押さえる。


「それ、ただの気分!」


シエルが補足する。


「象徴的拘束は一時的な抑制にはなるが、根本解決ではない」


クロードが静かに続ける。


「むしろ逆効果だ」


三人が見る。


「“封じている”という定義を強める。 拒絶の延長だ」


湯気がすっと細くなる。

マスター、少し肩を落とす。


「じゃあどうすれば」


クロードの視線はまっすぐ。


「味を取り戻した瞬間を思い出せ」


ファニーが小さく頷く。


「しょっぱい、って言ったとき」


「涙。感情の流入」


「拒絶ではなかった。 肯定だった」


マスターの目がゆっくりと瞬く。


「……守りたい、じゃなくて」


ファニーが言う。


「一緒にいたい、でしょ」


シエルが言う。


「生き延びさせる、ではなく」


クロードが締める。


 「共に生きる、だ」


静かな朝。


トーストを一口かじる。


「……にがい」


ファニーが笑う。


「それ焦げてる」


「知ってる」


マスターも笑う。


ギプス案は却下。

代わりに。

四人はテーブルを囲む。


湯気はまだ立っている。

世界は揺れている。


でも。

その揺れの中心に、ちゃんと“今”がある。


クロードがコーヒーを一口飲む。


「苦いな」


マスターが即座に返す。


「それも焦げ?」


「豆だ」


味は完全ではない。

だが戻り始めている。


未来は閉じていない。

少なくとも、この朝は。


マスター「いい案だと思ったんだけどねぇ」

空白体「ちがう、ぼくはこんなポワポワした人間じゃ…」

マスター「観測は時に残酷だねぇ」

ファニー「それ、マスターが言う!?」

シエル「観測者が被観測者ぶるな」

空白体「ぼくの輪郭が甘くなっていく…」

マスター「甘いだけじゃ、つまらないでしょ」

ファニー「どこが!」

シエル「自覚の薄さが苦味だな」

マスター「……それ、効く」

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