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観測者は感情を知らない  作者: 白鐘
第三章 選択
23/26

3 空白


■ 午前二時


境界堂。


空気が沈む。

影が天井から滲む。

冷たい。粘つくような圧。


マスターが立ち上がる。

昼より鋭い。

軽い。


ファニーが前へ出る。

瞬間、止まる。

見えない圧。


「下がれ」


短い。低い。


「またそれ?」


ファニーの声が震える。

シエルが静かに告げる。


「精神位相が重い。直接接触は危険」


クロードが踏み出す。

床が裂ける。

雷が空間を縫う。


「――牙を剥け、餓狼」


雷光が走る。

影を縫い止める。

壁を伝う黒い人型が、笑った。


「削ったのは、君だろう?」


露わになる輪郭。


同じ顔。

マスターの指が、わずかに止まる。


だが、色が違う。


擦り切れたような白髪。

瞳は炯々と光るピジョンブラッド。


温度がない。

生き物の目じゃない。


『――僕は、空白体』


その声は、どこか空洞だった。


沈黙。


『軽くなっただろう?』


マスターは答えない。


『もっと削れ』

『守るために』


ファニーが叫ぶ。


「ふざけんな!」


涙が滲む。


「知らなかったら、うちらじゃない!」


空白体は淡く言う。


『彼らが居なくなった世界など、耐えられない』


わずかに声が割れる。


『だから空白にした』

『僕自身を鍵にした』


マスターが問う。


「守れたのか」


長い沈黙。


『守った』


一拍。


『だが』


ファニーが叫ぶ。


「だが、何!」


空白体の瞳が揺れる。


『世界が空白になった』


シエルの声が低い。


「それは保存であって、生存ではない」


光の粒が端からこぼれる。


『迷え』

『迷い続けろ』


空白体は、ファニーを見る。

その目に、ほんの一瞬だけ色が戻る。


『……笑ってるな』


ファニーが固まる。


「は?」


『ここでは、まだ』


声が掠れる。


『君は、笑っている』


その言葉は羨望でも執着でもない。

ただ、確かめるような声音。

シエルを見る。


『立っている』 


小さく息を吸う。


『最後に見たのは、倒れた姿だった』

『動かなかった』


空気が重く沈む。

ファニーの拳が震える。


「だから削った?」


空白体は答えない。

代わりに、今のマスターを見る。

同じ顔。

だが、違う目。


『君が泣くのを』


初めて、言葉が割れる。


『あの顔を』


沈黙。


今のマスターの呼吸が揺れる。


空白体が続ける。


『守れなかった自分を』

『許せなかった』


空白体の肩から、輪郭が崩れる。

墨を水に落としたように、

形が静かに滲む。


『だから、軽くした』

『感情を削った』

『……君ごと』


ファニーが叫ぶ。


「それで何が守れてんの!」


空白体が、静かに笑う。


『守れたさ』


一瞬だけ、誇らしげに。


『死ななかった』


その後に落ちる言葉。


『だが、世界が止まった』


シエルの声が低く震える。


「それは時間を止めただけだ」


空白体が目を閉じる。


『わかっている』


今のマスターが一歩踏み出す。

床が軋む。


「……僕は」


喉が重い。

胸が痛む。

理由のわからない痛み。


「僕は、お前にはならない」


空白体の瞳が揺れる。

否定ではない。

救いを探す目。

今のマスターが続ける。


「守るために軽くなるなら」


拳を握る。


「守る価値ごと削ってる」


空白体の崩壊が止まる。


顔を上げる。


「怖いままでいい」

「未来が怖いのはわかる」

「失うのが怖いのも」


「でも」


「怖いままでいい」


雷が唸る。

クロードの雷光が揺らぐ。


「泣く未来も、迷う未来も」


「削らない」


空間が軋む。


未来は折る

でも

感情は折らない


光が弾ける。


空白体の顔が、柔らかくなる。

ほんの一瞬、救われたように。


『……そうか』


崩れた輪郭が、光の粒になる。

雪のように静かにほどけていく。


『それなら、君は』


微笑む。


『僕より強い』


最後に。


『迷え』

『迷い続けろ』

『それが、生きている証だ』



二時四分。

マスターは立ち尽くす。


胸の奥に、痛みが残る。

でも空白ではない。


ファニーが袖を掴む。

震えている。


「消えんなよ」


今のマスターは、小さく笑う。


「消えない」


シエルが言う。


「我々は、ここにいる」


「未来枝、再構築開始」


時計が進む。


二時五分。

夜はまだ終わらない。



静寂。


空白体の最後の粒子が、まだ空中に残っている。


今のマスターは、それを見ている。

消えかけた未来。

自分だったもの。


胸の奥が、軋む。

思い出せない痛みがある。


だが。

今のマスターは、目を逸らさない。


一歩。

踏み出す。


「確定する」


低い声。

空間が反応する。

シエルが目を細める。


「因果演算、異常上昇」


クロードの雷が震える。

ファニーが叫ぶ。


「マスター、何する気!」


今のマスターは言う。


「未来A」


空間に亀裂。


血の匂いが滲む。

倒れている影。

泣いている自分。


未来Aが、そこに“在る”。


ファニーが息を呑む。


「それ……」


シエルの声が低い。


「観測してはならない未来だ」


マスターは目を逸らさない。


赤い床。

伸ばされた手。

届かなかった距離。


胸の奥が軋む。


逃げれば、軽い。

削れば、楽だ。


でも。


「……これは、未来だ」


一歩、踏み出す。


未来Aがこちらを見る。

泣いている自分と、目が合う。


クロードが横に立つ。

雷が静かに唸る。


「切るぞ」


迷いのない声。

マスター、深く息を吸う。


ほんの一瞬だけ、

空白体の囁きがよぎる。


“やめろ”


マスターは言う。


「切れ」


雷が走る。

一直線。

未来に突き刺さる。


音はない。

叫びもない。


枝が折れる音だけが鳴る。


ぱき。


赤い光景が裂ける。

血の匂いが消える。

泣いていた自分が、崩れる。


未来Aは、粉にならない。


ただ、落ちる。


地面に触れる前に、

空間に吸い込まれる。


静寂。


時計が止まっていたことに、

今さら気づく。

針が震える。


カチ。


二時六分。


ファニーがマスターを掴む。


「……今の、消したの?」


マスターは首を振る。


「消してない」


胸に手を当てる。

まだ痛い。


「折った」


クロードが雷を収める。


「二度はない」


マスター、静かに頷く。


「二度は作らない」


空気が戻る。

夜が、息をする。


「マスター!」


空気が薄い。

だが。

意識ははっきりしている。


未来が折れた瞬間、

空白体の粒子がわずかに揺れる。


崩壊ではない。

ただ、存在の密度が薄くなる。


消えかけた未来が、宙でほどける。


マスターが手を伸ばす。


掴む。

冷たい。

空洞。


粒子が逃げようとする。


だが、逃げきれない。


「逃がさない」


空白体の瞳が揺れる。


『消えるのは簡単だ』


声は淡い。


「簡単な方は選ばない」


一歩、踏み込む。


「君はそこから見ていなよ」


静かに。


「これが見たかったんだろ?」


沈黙。


空白体の輪郭が。

静かに、

胸の奥へ沈んでいく。


衝撃はない。


ただ、

胸の奥に視線が生まれる。


重さを測る目。

未来を俯瞰する層。


『いるよ』


それだけ言う。

そして。

奥底に、静かな観測者が座った。


喋らない。

命令しない。

ただ、見る。


マスターが歩き出す。

重さを持ったまま。

空白ではなく。

迷いながら。


それでいい。


「みんな、ただいま」


「……うん」


二時七分。


境界堂。

死亡の枝は、もう無い。




マスター「ねえねえ、今どんな気持ち?」

空白体(田中)「……うるさいな、もう」

マスター「楽しい?」

空白体(田中)「別に。観測してるだけ」

マスター「ちょっとは悔しいとかないの?」

空白体(田中)「ないよ。誤差。誤差だから」

マスター「今ちょっと詰まったよね?」

空白体(田中)「気のせい。ノイズ」

マスター「僕が幸せそうなの見てて、どう?」

空白体(田中)「継続観測中。静かにして」

マスター「そっか」

空白体(田中)「……だから、うるさいって」

マスター「おかえり、田中」

空白体(田中)「……違う」

マスター「?」

空白体(田中)「“ただいま”だろ」

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