2 温度
■ 朝
境界堂。
包丁の音。
規則正しい。
ファニーが顔を出す。
「おはよー!」
マスターが振り向く。
少しだけ、考えるような間。
「……おはよう」
声は柔らかい。
けれど、
“慣れ”がない。
ファニーが首を傾げる。
「なんかさ、初対面みたいなんだけど」
マスター、困ったように笑う。
「そう見えるかい?」
その“かい”が他人行儀。
シエルが入る。
視線を合わせる。
「記憶に欠落があるな」
マスターは少し考え、
「自覚はないよ」
嘘ではない。
クロードが言う。
「昨夜二時。侵入」
空気が止まる。
「対象は一名。感情連結記憶」
ファニーの喉が鳴る。
「……誰」
クロード、視線だけ動かす。
マスターは首を傾げる。
「僕かい?」
まるで他人事。
ファニーが写真を持ってくる。
「これ、覚えてる?」
マスターは見る。
穏やかに。
「楽しそうだね」
「誰と?」
一拍。
「……君たち、かな」
その“かな”で、写真の中の笑顔が遠くなる。
ファニーの笑顔が揺れる。
シエルが問う。
「私は何だ」
マスターは迷わない。
「大切な――」
一瞬、言葉が止まる。
すぐ修正する。
「保護対象だ」
昼。
電話が鳴る。
クロードが出る。
「怪異発生。接触型」
マスターが立ち上がる。
迷いがない。
現場。
崩れた商店街。
黒い影が揺れる。
ファニーが前に出ようとする。
マスターが腕を軽く掴む。
強くない。
でも動けない。
「君たちは保護対象だ。後ろに下がれ」
声は優しい。
命令ではない。
ただの“定義”。
ファニーが睨む。
「いつも一緒にやってたでしょ!」
マスターは困ったように微笑む。
「そうだったのかもしれないね」
その言い方。
覚えていない。
シエルが低く言う。
「戦力比は」
マスターは影を見る。
ほんの少し目を細める。
「問題ない」
空気が変わる。
言葉が、世界を固定する。
「そこに在るな」
怪異が縫い止められる。
動きが止まる。
「消えろ」
一言。
あっさり。
削り屑のように崩れる。
静寂。
ファニーが呟く。
「……強くなってない?」
シエルが分析する。
「定義精度が上がっている」
クロードが言う。
「軽いからだ」
マスターは振り向く。
「怪我はない?」
優しい。
ちゃんと優しい。
でも。
共闘の位置に立たない。
二人は守られた側にいる。
その事実が、重い。
ファニー、爆発。
「あるよ!!」
マスター、きょとん。
「どこだい」
「ここ!!」
胸を叩く。
「うちらの場所!」
マスターは困ったように笑う。
「後ろに下がっていてもらうのが最適解だった」
「最適解とかいらない!」
声が震える。
「一緒にやるのが普通だったじゃん!」
マスターは少し考える。
「それは……効率的ではない」
言ってしまう。
ファニーの目に涙が滲む。
シエルが前に出る。
冷静な声。
「質問です」
マスターは視線を向ける。
「どうぞ」
「我々は“保護対象”と定義したな」
「ああ」
「では我々が自律戦闘を行う確率をなぜ排除する」
一拍。
「危険だからだ」
「以前は許容していた」
沈黙。
マスターは少し目を細める。
「……以前の僕は、非合理だった」
シエルの声がわずかに揺れる。
「それを“成長”と呼ぶのか」
マスターは穏やかに答える。
「損耗率は下がる」
数字で殴る。
シエルの指が震える。
「我々は数値か」
「違うよ」
即答。
「守る対象だ」
ファニーが泣きながら言う。
「うちら、仲間だったでしょ」
その言葉。
ほんの一瞬。
マスターの瞳が揺れる。
微かな既視感。
胸の奥が、チリ、と痛む。
でも。
「……仲間、か」
呟く。
声が少し低い。
少しだけ。
懐かしい響き。
ファニーが顔を上げる。
「思い出した?」
マスターは沈黙する。
数秒。
長い。
「分からない」
静かに首を振る。
「でも」
一歩だけ近づく。
無意識。
「君が泣くのは、望ましくない」
柔らかい。
優しい。
けれど。
“共有の記憶”がない。
ファニーが笑う。
泣き笑い。
「それそれ……それなんだよ……」
守られている。
でも、並んでいない。
クロードが低く言う。
「強化されている」
マスターが視線を向ける。
「何が」
「定義精度」
「感情ノイズが減った分、干渉が通る」
ファニーが睨む。
「ノイズじゃない!」
クロードは淡々と続ける。
「だが事実だ」
マスターは静かに言う。
「軽いほうが、落とさない」
昨日と逆の理屈。
シエルが否定する。
「違う」
はっきりと。
「軽いほうが、落ちる」
沈黙。
マスターの指先が、ほんの少し震える。
理由は分からない。
だが、その言葉は深い。
マスター「あーれー、だされちゃったー。どうやら僕は、この物語の中心人物らしいですよ。困ったなあ」
「はい、では仮称田中さんどうぞー。今回いちばん頑張った当事者です」
田中?「頑張った覚えはないねぇ」
マスター「じゃあ主犯?」
田中?「やめたまえ」
ファニー「やめたまえって言ってるよ!?」
シエル「品があるのに逃げ場がないな」
マスター「では次回、犯人は現場に戻る!」
田中?「犯人と呼ばないで欲しいねぇ」
マスター「大丈夫。まだ“証明”されてないからねぇ」
田中?「証明されないことも、あるんだよ」




