エピローグ 夕暮れ
夕方。
三位一体は軽やかだった。
ファニーが笑い、
シエルが整え、
マスターが広げる。
波は滑らか。
今日は綺麗に重なった。
マスターが満足げに言う。
「もう少し精度をあげないとだねぇ」
向上心、というより実験者の目。
ファニーが肩をすくめる。
「これ以上やるの?」
シエルは静かに頷く。
「安定域の拡張は可能です」
マスター、くすりと笑う。
その瞬間。
ずきり。
こめかみの奥。
視界が一拍だけ歪む。
色が、ほんのわずかに遅れる。
「……?」
ファニーが振り向く。
「どうしたの?」
マスターは瞬きをする。
一瞬、何かが引っかかった。
今、何を考えていた?
何を――
ノイズ。
記憶の端が白く削れる感覚。
でもすぐに戻る。
「ううん。なんでもないよ」
笑う。
いつもの顔。
シエルがじっと見る。
「波形に乱れがありました」
「気のせい」
軽い。
軽すぎる。
三人はまた笑い、
また揃う。
完璧に。
けれど。
マスターは、ほんの一瞬だけ思う。
さっき。
何を言おうとした?
何を。
……まあいいか。
窓の外は、穏やかな色。
三位一体は今日も成功。
その代償に、
何かが、ほんの微量。
削れていることに、
まだ誰も気づいていない。
境界堂 夜
夕暮れは沈み、
窓はゆっくり藍色に変わっている。
事務所の灯りは一つだけ。
机の上。
依頼書の束。
その横で、シロが丸くなっている。
尾が、ゆらり。
「……」
静かな時間。
ファニーは椅子の背に逆さに座り、
シエルは紅茶を飲み、
マスターは書類をめくっている。
ぱらり。
ぱらり。
その手が、止まる。
「……あれ?」
小さな声。
ファニーが振り向く。
「なに?」
マスターは紙を見ている。
依頼書。
見慣れた形式。
だが。
「これ……」
眉が少し寄る。
「僕、これ受けたっけ?」
沈黙。
シエルが立ち上がる。
書類を見る。
依頼内容。
日付。
署名。
確かにある。
マスターの字。
「受理印もある」
「昨日じゃない?」
マスターは首を傾げる。
「昨日……?」
視線が遠くなる。
思い出そうとする。
だが。
空白。
綺麗に。
そこだけ。
白い。
「……変だな」
軽く笑う。
「忘れるほど忙しかったかな」
ファニーが眉を寄せる。
シエルは何も言わない。
そのとき。
―ちりん。
小さな鈴。
机の上。
シロが目を開けている。
金色の瞳。
静かに、三人を見る。
「……のう」
低い声。
「それは、いつの依頼じゃ?」
マスターが紙を見る。
日付。
「三日前」
シロの尾が止まる。
「ほう」
一拍。
そして。
ゆっくり目を閉じる。
「……まあよい」
「よくないでしょ」
「観測に引っかかる」
マスターは笑う。
「大丈夫だよ」
軽い声。
「忘れてるなら、もう一度やればいい」
書類を机に置く。
ぱん、と手を打つ。
「境界堂、通常営業だ」
ファニーが立ち上がる。
「おう」
シエルも頷く。
「依頼確認」
三人の動きが揃う。
三位一体。
完璧。
けれど。
机の上。
依頼書の端に、
ほんの小さく、
もう一つの文字。
誰の字でもない。
薄い。
かすれた。
まるで。
消えかけの筆跡。
そこには、こう書かれていた。
『遅い』
窓の外。
夜。
遠くの街灯が、
一つ。
また一つ。
灯る。
シロはそれを見ながら、
小さく呟いた。
「……来るの」
金の瞳が細くなる。
「境界の向こうから」
静かに。
「忘れたものを、取りに」
………
……
…
暗転。
特別観測記録
最高幹部、数値に敗れる日
――これは第二章の前日譚である。
午前。
診察室は静かだった。
クロードは直立している。
問診票。
喫煙:二箱。
医師は眼鏡を押し上げる。
「多いですね」
「問題ない」
血圧計が巻かれる。
空気が締まる。
ピー。
数値表示。
医師、沈黙。
もう一度測る。
「高いですね」
即断。
クロードの眉間がわずかに寄る。
「誤差だ」
「違います」
カルテに書かれる。
確定。
高血圧傾向。
さらに追撃。
「喫煙は中止してください」
「減らす」
「やめてください」
断定。
静かな敗北。
医師は続ける。
「軽い運動を習慣に」
合理的な提案。
感情は挟まらない。
クロードは短く答える。
「分かった」
診察室を出る。
三人が待っている。
「どうだった?」
「数値は」
マスター、楽しげ。
「怒られた?」
クロードは言う。
「運動を勧められた」
三人、顔を見合わせる。
にやり。
午後。
公園。
規則正しい足取り。
黒いコートの男。
クロード。
医師の言葉は簡潔だった。
軽い運動を習慣に。
合理的。
だから従う。
脈拍、安定。
呼吸、正常。
問題なし。
ベンチ。
少し離れた位置。
三人。
「ほんとにやってる」
「フォーム改善済み」
「禁煙は?」
クロードは気づいている。
視線。
だが振り向かない。
走る。
一定。
ポケットの中。
煙草はない。
没収された。
代わりに残るのは、医師の言葉。
命もあります。
合理的。
継続する。
走る。
呼吸。
安定。
その姿はやがて、
第二章のはじまりへと繋がる。
静かな午後。
このとき誰も知らない。
この健康診断が、
三位一体の未来を、
ほんの少しだけ
長くする選択だったことを。
マスター「ねえ、長生きしてね」
クロード「命令か」
ファニー「お願い」
シエル「固定点は必要です」
クロード「……努力する」
マスター「運動、続ける?」
クロード「合理的だ」
ファニー「禁煙も?」
クロード「……努力する」
シエル「観測継続」
マスター、少し笑う。
「うん。それでいい」
クロード「貴様らもだ」
三人「え?」
クロード「健康管理を怠るな」
沈黙。
ファニー「再検査」
シエル「ストレス値」
マスター「寝不足」
クロード「……全員、走るか」
三人「それはやだ」




