表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
観測者は感情を知らない  作者: 白鐘
第一章 境界
2/28

2 揺れ

保護して三日目。


距離、二メートル。


毛布は返さない。

勝手に洗って乾かしても、必ず抱え直す。


マスターは条件を出す。


「ここにいる間のルールは三つ」


指を立てる。


「外に出るなら僕に言う。

無理をしない。

僕の部屋には入らない」


シエルが即答。


「監視か」


「保護」


間。


「……管理じゃないのか」


少しだけ、空気が冷える。

マスターは答えない。

代わりに言う。


「君たちが出ていくなら、止めない」


選択権は渡す。

鎖はつけない。


それでも、二人は出ていかない。

体力が戻らないから。

追手がまだ怖いから。


それだけだ。

たぶん。



毛布を返さないまま、七日目。


距離、一メートル。


ファニーは台所を覗くようになる。

シエルは書棚を観察する。


どちらも、まだ笑わない。


夜。


シエルが低く言う。


「なぜ匿う」


マスターは書類から目を上げない。


「選んだから」


「見返りは」


「今のところ、ない」


嘘ではない。

本音も全部ではない。


ファニーが小さく言う。


「……信じてもいい?」


その問いは、まだ弱い。

マスターは少し考える。


「信じなくていい。

疑いながら、ここにいればいい」


それが答え。

沈黙。


ファニーは毛布を抱え直し、

シエルは目を伏せる。


完全には解けない。

でも。


逃げ出さない。

それが最初の変化。



夕暮れ。

買い出しから戻った帰り道。


マスターだけが、狙われる。


路地裏。

無言の男たち。機関の現場部隊。


正式命令ではない。圧力だ。


「保護対象を渡せ」


「断るよ」


軽い口調。

次の瞬間、圧が来る。

マスターは呟く。


「この路地は、三十秒だけ“盲点”だ」


世界が僅かに歪む。

監視カメラが瞬き、

通信が一瞬だけノイズに沈む。


反動。


膝が落ちる。

それでも時間は稼いだ。


事務所に戻った時、血の匂いが少し強い。


扉の内側。

ファニーが一歩前に出る。


「……なんで一人で行くの」


怒り。

恐怖。

置いていかれる予感。


マスターは平然と袋を差し出す。


「卵、安かった」


ふざけている。

シエルが静かに言う。


「次は、僕も行く」


拒絶ではない。

同行の宣言。


距離、八十センチ。




深夜。


マスターの部屋から物音。


シエルが最初に気づく。

開けるか迷う。


ルール三つ目。

“僕の部屋には入らない”


三秒。


破る。


床に倒れている。

呼吸はある。

額が熱い。

過負荷の反動。


ファニーが濡れタオルを持ってくる。

震える手。


「……死なないよね」


シエルは低く答える。


「死なせない」


二人で看病する。

指示は受けていない。

命令もない。

自主的。


マスターが薄く目を開ける。


「……ルール違反だよ」


ファニーが睨む。


「うるさい」


初めての対等な口調。

マスターは少しだけ笑う。

その笑みは、いつもの計算ではない。


距離、五十センチ。


マスターの顔色がようやく戻り始めた頃、

シエルは書棚の奥でファイルを見つける。



タイトル。

《定義 使用履歴/代償推定値》


ページをめくる。

“不可侵領域固定 鼻出血・軽度神経負荷”

“盲点定義 三十秒 循環器圧迫”

“長期固定は不可。代償未検証”


そして一文。


“自分に関する定義は禁止”


シエルの目が止まる。

禁止?

なぜ。


背後から声。


「それ、面白くないよ」


マスター。

立っている。

怒っていない。

ただ、少しだけ寂しそう。


「自分を固定すると、未来が詰む」


軽い言い方。


シエルは問う。


「あなたは、どこまで削る気だ」


沈黙。

マスターは答える。


「必要な分だけ」


ファニーが割り込む。


「じゃあ必要なくす!」


叫びに近い。

空気が震える。


三人の距離が、初めて円になる。


まだ信用ではない。

でも。


“置いていかれる側”から

“支える側”へ。


ほんの一歩。



夜。


電気は一つだけ。

事務所は静かで、外は雨。


ファニーがぽつりと聞く。


「……なんで私たちを守る?」


責めているわけじゃない。

でも、逃げ道を塞ぐ声。


シエルが続ける。


「あなたにメリットは無いはずだ」


視線は逸らさない。

検証だ。感情ではなく。


マスターは書類を閉じる。

少し考える顔。


本当に、少し考える。


「なんでかな?」


自分でも不思議そうに。


二人の眉が動く。

計算じゃない。

打算でもない。


マスターは椅子にもたれ、天井を見上げる。


「でもね」


ゆっくり言う。


「似てると思ったんだよね」


沈黙。


ファニーが瞬く。


「……どこが」


マスターは視線を戻す。

エメラルドの瞳は、笑っていない。


「追われ方」


静か。


「自分が悪いわけじゃないのに、

“危険”ってラベル貼られて、

管理対象にされる感じ」


空気が止まる。

シエルの指が、わずかに震える。


「……あなたも?」


「昔ね」


詳細は言わない。


「便利な力は、便利な道具になる。

道具は、所有される」


ファニーが小さく言う。


「だから?」


マスターは肩をすくめる。


「だから、所有される側の顔は分かる」


少しだけ笑う。


「あと、雑炊を食べたときの顔」


ファニーが固まる。


「……見てたの!?」


「うん。泣きそうだった」


ファニーが真っ赤になる。

空気が少し緩む。


だがシエルは逃がさない。


「同情か」


「違うよ」


即答。


「選択」


一拍。


「守るって決めた。

理由は後付けでいい」


静かだが、揺らがない。


ファニーが迷うように言う。


「私たち、重いよ?」


マスターは少し笑う。


「重い方が、存在ははっきりする」


その言葉は軽いのに、

芯がある。


シエルが低く問う。


「裏切ったら?」


間。


「そのときは」


マスターは首を傾げる。


「そのとき考える」


本気だ。


管理もしない。

縛りもしない。

保証も求めない。

ただ、選んだ。


ファニーが小さく呟く。


「……変な人」


シエルも認める。


「合理的ではない」


マスターは薄く笑う。


沈黙。


三人の距離はまだ触れない。

でも、逃げない。


ファニーがぽつり。


「……信じるかは、まだ保留」


シエルも頷く。


「観察継続だ」


マスターは軽く手を上げる。


「どうぞ。僕も観察してる」


一瞬、視線が交差する。


対等。


まだ仲間じゃない。

でも、敵でもない。

その中間。


ここが本当のスタート地点だ。



昼。


機関の気配が街に戻る。


ファニーは黙って外に出る。

自分が囮になれば、ここは安全になると考えた。


まだ体力は戻りきっていない。

それでも走る。


路地裏で、追手と鉢合わせ。


「対象確認」


囲まれる。

歯を食いしばる。


その瞬間、圧が霧散する。


「この場の敵意は、五秒だけ空振る」


低い声。

マスター。


世界が一瞬だけ噛み合わなくなる。

男たちの動きがズレる。


ファニーの腕を掴み、引き寄せる。

五秒。


それだけで十分。


逃走。


事務所に戻ると、マスターは壁に手をつく。


鼻血。

今回は多い。


ファニーが震える。


「なんで来たの」


怒りではない。


怖いのだ。


「守るって言ったから」


単純すぎる答え。


ファニーが叫ぶ。


「頼んでない!」


沈黙。


マスターは、少しだけ目を細める。


「うん。頼まれてない」


事実だ。

それでも選ぶ。


その姿勢が、逆に重い。




夜。


シエルが問う。


「“似ている”の意味を具体的に」


逃がさない声。

マスターは少し考える。


「選択肢を奪われる感じ」


短い。


「力があると、選べなくなる。

使うか、使わされるかの二択になる」


シエルは静かに聞く。


「あなたは?」


「使わされかけた」


軽く言うが、目は笑わない。


「だから、選ばせたい」


ファニーにも。

シエルにも。

所有ではなく。


沈黙。


シエルが小さく言う。


「それでも、あなたは自分を削る」


「うん」


否定しない。


「でも僕の削り方は、僕が決める」


そこだけは強い。

シエルの中で、何かが少しだけ位置を変える。



数日後。


事務所に一通の封書。


差出人、学園理事。

内容は一行。 


“戻るなら、条件付きで受け入れる”


ファニーが封を握り潰す。


「戻るの?」


声が小さい。


マスターは紙を折る。


「戻らないよ」


即答。


「僕はもう、誰かの所有物にはならない」


その言葉に、ほんの一瞬だけ滲む怒り。

普段見せない温度。


シエルが気づく。


「……あなたも追われた側だ」


マスターは少しだけ笑う。


「優秀な道具は、手放されない」


それ以上は言わない。

でも十分だ。


ファニーがぽつり。


「じゃあさ」


一歩近づく。


「私たちも、道具にしない?」


真っ直ぐ。


マスターは即答する。


「しない」


迷いゼロ。

その反応の速さが、本音。


沈黙。


距離、三十センチ。


まだ触れない。


でも。


ファニーが言う。


「……もうちょい観察する」


シエルも頷く。


「暫定滞在継続」


マスターは軽く笑う。


「光栄だ」


これは契約ではない。

保証もない。


それでも。


野良猫が、まだ出ていかない。


それが今の答え。



マスター

「鉄分補給にはレバーだねぇ」

ファニー

「鼻血出してた人が言うな!」

シエル

「まず止血」

マスター

「理論上、鉄は赤い」

ファニー

「色で決めるな!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ