8 教え
夕方。
事務所は穏やかだった。
仕事は終わり、
三人は珍しく何もしていない。
ファニーが机に頬を乗せる。
「ねえ」
マスターは紅茶を混ぜている。
「どうして事務所を開いたの?」
静か。
スプーンが止まる。
シエルが続ける。
「同意。あなたは人間が苦手なはず」
否定はしない。
マスターは少し考えてから、笑う。
「それはね、母の教えでねぇ」
その言葉は軽い。
でも、目は遠い。
―――あなたは人の中に居なさい。
母の声は、柔らかかった。
怒られた記憶はない。
叩かれた記憶もない。
ただ、静かに言われた。
居なさい。
外から見てるだけじゃなくて。
混ざりなさい、と。
ファニーが首を傾げる。
「じゃあもし、人の中に居なかったら?」
マスターは一瞬だけ目を伏せる。
それから肩をすくめる。
「……別に?」
間。
「楽なんじゃ無いかな」
本音。
混ざらないほうが、楽だ。
ズレている自覚はある。
半歩外にいる感覚は、昔から。
それでも。
「でもね」
マスターは窓の外を見る。
夕暮れの色。
「居るって決めたからね」
決意というより、選択。
「居続けるのは、ちょっと面倒だけどねぇ」
ファニーがじっと見る。
シエルは静かに分析する。
「強制ではなく、意思」
マスターは笑う。
「母はね、優しかったよ」
一拍。
「だから、守りたいだけ」
誰を、とは言わない。
でも。
三位一体は自然に揃う。
波は静か。
マスターがぽつり。
「居なくなったら楽だよ」
冗談みたいに言う。
でも、少しだけ本気。
ファニーが即座に言う。
「それ、却下」
シエル。
「固定点喪失は許可しません」
マスターは目を細める。
「強いなぁ」
でも。
その囲いは、少しあたたかい。
窓の外。
夜が近づく。
「母はマグロのような人でねぇ」
「また来た」
「前進型人格の再提示ですね」
マスターは笑う。
「止まらない。前しか見ない。あとね」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「人の幸せを一番に考える人だった」
ファニーが瞬く。
「自分より?」
「うん」
迷いなく。
「誰かが笑ってると、それで満足する人」
「自己充足が他者依存型」
紅茶をひとくち。
「人が幸せになることで、自分も幸せを感じる人」
静か。
ファニーがぽつり。
「それ、疲れない?」
マスターは少し考える。
「疲れてたかもねぇ」
でも、と続ける。
「楽しそうだった」
「利他的衝動が自然発生」
マスター、くすり。
「あとね、食べるのが大好きだった」
「急にかわいい情報」
「本当に好きだったよ。おいしいって言う人を見るのも好き」
「自分が食べるのも?」
「もちろん」
少し遠くを見る。
「幸せはね、理屈より先に胃にくるって言ってた」
「…独特の理論」
ファニーが笑う。
「じゃあマスターが人にお菓子配るのって」
「影響だねぇ」
さらりと言う。
「あなたは人の中に居なさい」
あの言葉。
強制ではない。
たぶん願い。
「群れの中で、食べて、笑って、生きなさいってことだったのかな」
ファニーがじっと見る。
「マスターもさ、人が笑うと嬉しそうだよ」
マスターは肩をすくめる。
「遺伝かもねぇ」
「あなたは止まると楽だと言いました」
「うん」
一拍。
「でも、誰かが笑うと、ちょっとだけ泳げる」
静かな本音。
クロードが低く言う。
「過負荷は避けろ」
マスターは振り向く。
「はいはい、陸の人」
「最高幹部は何食べると幸せ?」
「必要量で足りる」
「「「つまらない」」」
小さな笑い。
止まらない人。
止まっても立つ人。
泳ぐのが少し下手な人。
でも、群れは今日も食卓を囲む。
幸せは、案外、皿の上にある。
嵐はまだ来ていない。
けれど。
守りたい理由は、もう十分だ。
夜。
機関本部。
無機質な廊下は足音を吸い込む。
黒いコートの男。
クロード。
会議室の扉が閉まる。
長机。
重い沈黙。
上席の一人が口を開く。
「例の事務所の件だ」
資料が投影される。
同期現象。
感情干渉。
記憶の揺らぎ。
数字は冷たい。
「マスターは危険だ」
断言。
空気が張る。
「個人の精神領域を不安定化させる可能性がある」
「制御不能になれば、被害は局所で済まない」
「観測対象ではなく、排除対象では?」
言葉は刃物。
クロードは黙っている。
表情は動かない。
「君は近すぎる」
視線が刺さる。
「判断が鈍る」
沈黙。
やがて、クロードが口を開く。
「事実と推測を分けろ」
低い声。
「被害報告はゼロだ」
「それは結果論だ」
「違う」
視線が鋭くなる。
「管理下に置いている」
部屋が静まる。
「不安定要素は観測済み。閾値も把握している」
嘘ではない。
だが。
すべてではない。
「もし暴走したら?」
誰かが問う。
クロードは即答しない。
一拍。
「そのときは、私が処理する」
静かに落ちる言葉。
覚悟の質量。
「情があるな」
誰かが笑う。
「最高幹部ともあろう者が」
クロードは目を上げる。
「情ではない」
短く。
「合理だ」
―本当に?
自問は胸の奥に沈む。
会議は続く。
監視強化。
報告義務。
定期査察。
最終結論。
「現状維持。ただし警戒レベル引き上げ」
会議室を出る。
廊下は静か。
ポケットを探る癖。
煙草はない。
代わりに思い出す。
夕方の事務所。
「あなたは人の中に居なさい」
マスターの声。
居ると選んだ。
危険だと断じられても。
クロードは立ち止まる。
天井を見上げる。
合理。
管理下。
処理可能。
自分に言い聞かせる。
だが胸の奥にあるのは、
別の言葉。
「固定点は必要です」
誰にとって。
深夜。
外気は冷たい。
クロードは歩き出す。
守ると決めたわけではない。
ただ。
まだ、排除する理由が足りない。
それだけだ。
マスター「寿司はえんがわがおいしいねぇ」
ファニー「また平和」
シエル「脂質が高いですね」
クロード「静かに食え」
マスター「赤身もいいけどねぇ」
ファニー「最高幹部は?」
クロード「赤身」
三人「堅実」
マスター「じゃあえんがわ追加で」
クロード「割り勘だ」
マスター「合理的だねぇ」




