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観測者は感情を知らない  作者: 白鐘
第二章 蜘蛛
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8 教え


夕方。


事務所は穏やかだった。

仕事は終わり、

三人は珍しく何もしていない。


ファニーが机に頬を乗せる。


「ねえ」


マスターは紅茶を混ぜている。


「どうして事務所を開いたの?」


静か。

スプーンが止まる。

シエルが続ける。


「同意。あなたは人間が苦手なはず」


否定はしない。

マスターは少し考えてから、笑う。


「それはね、母の教えでねぇ」


その言葉は軽い。

でも、目は遠い。


―――あなたは人の中に居なさい。


母の声は、柔らかかった。


怒られた記憶はない。

叩かれた記憶もない。


ただ、静かに言われた。


居なさい。


外から見てるだけじゃなくて。

混ざりなさい、と。


ファニーが首を傾げる。


「じゃあもし、人の中に居なかったら?」


マスターは一瞬だけ目を伏せる。

それから肩をすくめる。


「……別に?」


間。


「楽なんじゃ無いかな」


本音。


混ざらないほうが、楽だ。


ズレている自覚はある。

半歩外にいる感覚は、昔から。


それでも。


「でもね」


マスターは窓の外を見る。

夕暮れの色。


「居るって決めたからね」


決意というより、選択。


「居続けるのは、ちょっと面倒だけどねぇ」


ファニーがじっと見る。

シエルは静かに分析する。


「強制ではなく、意思」


マスターは笑う。


「母はね、優しかったよ」


一拍。


「だから、守りたいだけ」


誰を、とは言わない。


でも。


三位一体は自然に揃う。

波は静か。


マスターがぽつり。


「居なくなったら楽だよ」


冗談みたいに言う。

でも、少しだけ本気。


ファニーが即座に言う。


「それ、却下」


シエル。


「固定点喪失は許可しません」


マスターは目を細める。


「強いなぁ」


でも。

その囲いは、少しあたたかい。


窓の外。

夜が近づく。


「母はマグロのような人でねぇ」


「また来た」


「前進型人格の再提示ですね」


マスターは笑う。


「止まらない。前しか見ない。あとね」


少しだけ、声が柔らかくなる。


「人の幸せを一番に考える人だった」


ファニーが瞬く。


「自分より?」


「うん」


迷いなく。


「誰かが笑ってると、それで満足する人」 


「自己充足が他者依存型」


紅茶をひとくち。


「人が幸せになることで、自分も幸せを感じる人」


静か。

ファニーがぽつり。


「それ、疲れない?」


マスターは少し考える。


「疲れてたかもねぇ」


でも、と続ける。


「楽しそうだった」


「利他的衝動が自然発生」


マスター、くすり。


「あとね、食べるのが大好きだった」


「急にかわいい情報」


「本当に好きだったよ。おいしいって言う人を見るのも好き」


「自分が食べるのも?」


「もちろん」


少し遠くを見る。


「幸せはね、理屈より先に胃にくるって言ってた」


「…独特の理論」


ファニーが笑う。


「じゃあマスターが人にお菓子配るのって」


「影響だねぇ」


さらりと言う。


「あなたは人の中に居なさい」


あの言葉。

強制ではない。

たぶん願い。


「群れの中で、食べて、笑って、生きなさいってことだったのかな」


ファニーがじっと見る。


「マスターもさ、人が笑うと嬉しそうだよ」


マスターは肩をすくめる。


「遺伝かもねぇ」


「あなたは止まると楽だと言いました」


「うん」


一拍。


「でも、誰かが笑うと、ちょっとだけ泳げる」


静かな本音。

クロードが低く言う。


「過負荷は避けろ」


マスターは振り向く。


「はいはい、陸の人」


「最高幹部は何食べると幸せ?」


「必要量で足りる」


「「「つまらない」」」


小さな笑い。


止まらない人。

止まっても立つ人。

泳ぐのが少し下手な人。


でも、群れは今日も食卓を囲む。

幸せは、案外、皿の上にある。


嵐はまだ来ていない。

けれど。

守りたい理由は、もう十分だ。




夜。


機関本部。


無機質な廊下は足音を吸い込む。

黒いコートの男。


クロード。


会議室の扉が閉まる。


長机。

重い沈黙。

上席の一人が口を開く。


「例の事務所の件だ」


資料が投影される。


同期現象。

感情干渉。

記憶の揺らぎ。

数字は冷たい。


「マスターは危険だ」


断言。

空気が張る。


「個人の精神領域を不安定化させる可能性がある」


「制御不能になれば、被害は局所で済まない」


「観測対象ではなく、排除対象では?」


言葉は刃物。

クロードは黙っている。

表情は動かない。


「君は近すぎる」


視線が刺さる。


「判断が鈍る」


沈黙。

やがて、クロードが口を開く。


「事実と推測を分けろ」


低い声。


「被害報告はゼロだ」


「それは結果論だ」


「違う」


視線が鋭くなる。


「管理下に置いている」


部屋が静まる。


「不安定要素は観測済み。閾値も把握している」


嘘ではない。

だが。

すべてではない。


「もし暴走したら?」


誰かが問う。

クロードは即答しない。


一拍。


「そのときは、私が処理する」 


静かに落ちる言葉。

覚悟の質量。


「情があるな」


誰かが笑う。


「最高幹部ともあろう者が」


クロードは目を上げる。


「情ではない」


短く。


「合理だ」


―本当に?


自問は胸の奥に沈む。


会議は続く。


監視強化。

報告義務。

定期査察。


最終結論。


「現状維持。ただし警戒レベル引き上げ」


会議室を出る。

廊下は静か。

ポケットを探る癖。

煙草はない。


代わりに思い出す。

夕方の事務所。


「あなたは人の中に居なさい」


マスターの声。

居ると選んだ。

危険だと断じられても。


クロードは立ち止まる。

天井を見上げる。


合理。

管理下。

処理可能。


自分に言い聞かせる。


だが胸の奥にあるのは、

別の言葉。


「固定点は必要です」


誰にとって。


深夜。

外気は冷たい。


クロードは歩き出す。

守ると決めたわけではない。


ただ。


まだ、排除する理由が足りない。

それだけだ。



マスター「寿司はえんがわがおいしいねぇ」

ファニー「また平和」

シエル「脂質が高いですね」

クロード「静かに食え」

マスター「赤身もいいけどねぇ」

ファニー「最高幹部は?」

クロード「赤身」

三人「堅実」

マスター「じゃあえんがわ追加で」

クロード「割り勘だ」

マスター「合理的だねぇ」

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