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観測者は感情を知らない  作者: 白鐘
第二章 蜘蛛
13/26

2 観測不能


【午後】


午後の公園。

規則正しい足取り。

黒いコートの男。


クロード。


医師の言葉は簡潔だった。

軽い運動を習慣に。


合理的。

だから従う。


脈拍、安定。

呼吸、正常。

問題なし。


その視界に、三人組。


ベンチ。

スティック羊羹。

騒がしい。


「マスター、それ三本目!」


「非常食だから理論上は問題ないねぇ」


「理論が存在していません」


クロードは小さく息を吐く。


「……平和だな」


その瞬間。


風が、止まる。


音が消えるわけではない。

鳩はいる。

遠くで子供も笑っている。


だが。


“空気の層”が一枚、抜ける。


クロードの足がわずかに止まる。

理屈ではない。


経験則。

怪異。

確信。


マスターの手が、止まる。


羊羹の包装が、風に揺れない。

視線が上がる。

エメラルドが、かすかに揺れる。


「……あ」


それは驚きではない。

思い出しかけた時の声。


次の瞬間。


膝が抜ける。

身体が傾く。

ベンチから崩れ落ちる。


「マスター!?」


ファニーの声。

シエルが即座に支える。


「意識反応あり。しかし運動制御喪失」


クロードは一瞬で距離を詰める。

膝をつき、瞳を覗く。


焦点はある。

だが。

奥が、遠い。


「聞こえるか」


返答はない。

しかし。


瞳は、まだ動いている。



【白】


色が抜ける。

音が薄くなる。


完全な闇ではない。

完全な光でもない。


ただ、白。


足元の感覚が曖昧。

呼吸の実感がない。


それでも。


“自分”はある。


遠くで、糸が擦れる。


カチ。

カチ。


規則的。

振り向く。

何も見えない。


だが。


確かに、何かが“触れている”。


額の奥。

意識の表面。


冷たい。

鋭くはない。

測るような感触。


未確定を、許さない。

それが、こいつの性質だ。


糸。

これは本体じゃない。

“触覚”。

触れられれば——内側を覗かれる。


マスターは理解していない。

でも。


身体は、知っている。


「……また?」


呟きは、音にならない。

白の奥で、何かが揺れる。


まだ姿はない。

まだ脚も見えない。

ただ。


接続だけが、完了している。



【午後】


「脈拍正常。呼吸浅い」


シエルの声は冷静。

ファニーは手を強く握る。


「目は開いてるのに!」


クロードは低く言う。


「まだ、落ちきっていない」


その言葉の直後。

マスターの瞳が、ほんのわずかに揺れる。


白へ。


完全に滑り込む前の、最後の瞬き。



【白】


白い。

でも柔らかくない。

冷たいわけでもない。

ただ、逃げ場がない。


ここは内側。

傷つけば、外も落ちる。


「……立ってる?」


足の感覚がない。

なのに転ばない。


呼吸が、浅い。

いや。

呼吸している“気がする”だけ。


カチ。


音。

近い。


「やめて」


誰に言っているのか分からない。

額の奥が、ひやりとする。


糸。


今度は見える。

細い。

まっすぐ。

こちらを選んでいる。


「待って」


一歩下がる。

下がった感覚はある。


だが距離は変わらない。

糸が近づく。


「触るな」


額の中心に、圧。

刺さっていない。


なのに、開く。


記憶がめくれる。


公園。

白い繭。

小さな自分。


「あ……」


いる。

奥に。

座っている。

膝を抱えた、小さなエメラルド。


「なんで、そこに」


幼い残滓が、顔を上げる。

怯えていない。

ただ、知っている目。


——残っていた“自分”。

まだ、壊れていない部分。


その背後。

白が、歪む。


脚。

一本。

二本。

影が増える。


「来るな」


声が震える。

理解が追いつく前に、本能が叫ぶ。


「それ、知ってる」


鼓動が速くなる。

いや、鼓動という概念が壊れる。


脚が増える。

関節が折れる音。

白が削られる。


「やだ」


腹部。

巨大。

無数の眼。

全部、こちらを向く。


「見ないで」


視界を奪われる。

強制的に、合う。


蜘蛛と。


完全に。


動かない。

変わらない。

終わるんじゃない。

——“決まる”。


それ以上にも、それ以下にもなれない。

ただ、その形で在り続ける。


見られる。

それだけで、固定される。

思考も、恐怖も、逃げ場ごと。


「――」


声が出ない。

喉が消える。


恐怖が、遅れてやってくる。

冷たいのではない。

“理解できない大きさ”が押し寄せる。


「無理」


違う。

それじゃ——


優しいまま、壊れる。

それしか、できなくなる。


軽い。

違う。

削られている。

“今の自分”じゃない部分を、切り分けられている。


意識が軋む。

幼い残滓が、かすかに揺れる。


蜘蛛の眼が、収束する。

測定。

確定。


その瞬間。


「まだ、決めてない」


糸が軋む。


「僕が何になるかは——僕が決める」


エメラルドが、揺れる。

幼い自分が、笑う。


矛盾が、重なる。


蜘蛛の動きが、一瞬止まる。


だが


マスターの言葉が途切れる。


「あ――」


断。



【午後】


マスターの瞳から光が消える。

首が落ちる。

完全に、反応が途切れる。


ファニーの声が震える。


「……今、なに見たの」


シエルは即座に脈を確認。


「心拍正常。自律機能維持。意識、深層へ沈降」


クロードは空を見上げる。


公園は平常。

鳩が羽ばたき、子どもが笑う。


だが。


一点だけ。


わずかな歪み。

振動の欠落。


彼は手袋に触れる。

黒革。

いつも通りの質感。


親指で、内側の縫い目を押す。

低く。


「……起きろ」


一拍。


風が、わずかに揺れる。

革の表面に細い線が走る。

縫い目の奥が、淡く光る。


そして。


「餓狼」


革が締まる。

音はない。


だが、空気が変わる。

手袋の黒が、深く沈む。

表面が微細に波打つ。

内部機構、干渉モード移行。


ファニーが息を呑む。


「今のなに……」


シエルは即座に解析。


「対怪異干渉用、起動確認」


クロードは答えない。


一歩、踏み出す。


歪みへ。

空を掴む。

今度は、確かに触れる。


細い。

冷たい。

震えている。

糸。


ギチ。


金属でも布でもない、嫌な軋み。

振動が逆流する。

視界の奥に、白がちらつく。


だが。


手袋がそれを分断する。

クロードの指が、わずかに強く握る。


「逃がさない」


糸が強く脈打つ。

公園の風が逆巻く。


ファニーが叫ぶ。


「クロード、来てる!」


「深部接続、未解除。対象はまだ内部」



クロードは目を細める。


圧が増す。

手袋の縫い目が赤く光る。

負荷警告。


それでも離さない。


「観測型か」


低く、確信。


接続を固定する。

これ以上潜らせないために。


「なら、こちらも観測する」


握る力を一定に保つ。


引かない。

切らない。

固定する。


引けば、切れる。

だが——中も裂ける。


確定させるな。

それが終われば——戻らない。


糸が軋む。

どこか遠くで。

巨大な何かが、わずかに動きを止める。


どくん。


白の奥。


エメラルドが、かすかに瞬く。

まだ、見られている。


クロードの瞳が鋭くなる。


「……まだいる」


ファニーがマスターの肩を揺らす。


「マスター! 戻って!」


シエルが重ねる。


「孤立はさせません。共有開始準備」


単独では確定される。

だから、干渉を重ねる。


シエル「多層定義による固定阻害です」


糸が震える。


蜘蛛は押さない。

引かない。

ただ、再計測。


クロードの掌の中で、振動が変わる。


一瞬。


三つの気配が、糸に触れる。

公園の音が、白へ滲む。

蜘蛛の圧が、わずかに鈍る。


そして。


ふっと。


感触が消える。

糸がほどける。

歪みが、閉じる。


手袋の光が落ちる。

黒革が、ただの革に戻る。


静寂。


クロードはゆっくり手を下ろす。

掌は無傷。


だが。

わずかな痺れが残る。


「……中断だ」


ファニーが息を吐く。


「終わったの?」


シエルは静かに首を振る。


「いいえ。保留です」


クロードはマスターを抱き上げる。


軽い。

あまりにも。


「事務所へ戻る」


公園に、風が戻る。

鳩が飛び立つ。

子どもが笑う。

何もなかった午後。


だが。


観測は終わっていない。

餓狼も、まだ眠らない。




――ちりん。


マスター「まゆ刺しという食べ物があってねぇ」

ファニー「いま言う話それ!?」

シエル「語感が不穏です」

クロード「説明しろ」

マスター「繭みたいに包んでから食べる感じのねぇ」

ファニー「やめて想像させないで!」

シエル「比喩としても縁起が悪いです」

クロード「食事の前に回復しろ」

マスター「じゃあ今日は普通に甘いものにしよっか

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