正義
「お前は私のハイアーセルフなのか?」
と私は絞り出した。喉がカラカラに乾いている。
ハイアーセルフとは、人間一人一人の無意識下に存在するというもう一人の自己のことで、この世に生まれた目的や為さねばならないことを知っていて、教え導く存在のことをいう。
「そう思いたければ思えばいい。僕は君以上に君のことを知っているのだから」
やはりハイアーセルフなのかと思っていると、そいつが続けた。
「世の中にはお前の哲学では計り知れないことがあるのだ」
私が好きなシェイクスピアの一節だ。ということは違うのだろうか?
「僕がどんな存在であろうと、僕は君であり、君は僕だ。そして僕は君以上に君のことを知っている。それが真実だ。君は今、とても困っている。君は魔術を行い、憧れの人とプライベートで会う約束を取り付けた。しかしそこにはいつもこの家にやって来る年上のガールフレンドもいる。君は年上のガールフレンドとの関係が彼女に知られてしまうのを恐れている。君が肉体を慰めるためだけに女性と交際しているような男だということが彼女に知られてしまうのを恐れている。もし、それがバレたら彼女は君に失望するだろうと心配しているのだ。でも、君は心配する必要はない。君は堂々とそこのカフェに行けばいい。この世に混乱などはない。すべてのものは相応しいバランスを持って存在している。君はその秩序を見つめればいい」
「どういうことだ?彼女は私とガールフレンドとの関係を知っても動揺しないのか?」
「それは傷付くだろうね。彼女は男女関係に対して君のような考えは持っていないから。しかし、秩序は決して動揺したりしない。君はある種の秩序に守られているのだ。君がすることは、ただ、そこに行けばいいだけだ」
「そこで何が待っているんだ。知っているのなら教えてくれ。私と彼女の仲はどうなるんだ」
「未来を知ることは人間に与えられた権利ではない。誰にも。神にも」
そこまで言うと、そいつの輪郭はゆらゆらと揺らめき出し、段々と色が薄くなった。何回か点滅したあと、フッと消えた。
静寂が戻った。残ったのはいつもの狭い部屋と、真ん中に置かれた祭壇だけだった。
私は祭壇の上のクリスタルに目をやった。
ぼんやりとした白い影のようなものが見えた。
じっと見つめていると、影は徐々に大きくなり、やがてそれは人の形を形成した。女性の姿だった。
始めそれは年上のガールフレンドのように見えた。
顔は俯き、長い髪が豊満なバストに垂れ下がっていた。表情は泣いているように見えた。
目から黒い筋のようなものが幾筋か流れているように見える。
それが涙なのか、血なのか、それとも髪の毛なのか、判別がつかなかった。
水晶の中で女は何かを後悔して泣いているように見えた。
あるいは、自分の人生に起きた悲劇を悲しんでいるかのようにも見える。
それとも、思うようにならない人生に絶望して泣いているのであろうか。
とにかく女が泣いているのだと思って、私は水晶の中を見つめていたが、じっと見つめていると、泣いていないようにも見えてきた。
私は最初、年上のガールフレンドだと思って見ていたが、段々と美術の先生でもあるように見えてきた。
そう思って見ると、その女の顔は先生にしか見えなくなっていた。
涙の筋のように見えた黒い筋は、絵の具で顔にフェイスペインティングを施した模様のようにしか見えなくなってしまった。
顔は俯いたままであったが、表情は何も感じられなかった。
憧れの人の美しい顔が無表情にそこにあった。顔は完全に先生だったのに、体は年上のガールフレンドのままだった。
綺麗で無表情な顔が、豊満な体の上に乗っていた。
しばらく見つめていたが、唐突に水晶の中の像は消えた。
私は大きく息をついた。集中力が続かなくなったのだ。私は汗をびっしょり掻いていた。
今し方、起きたことを整理してみる。ピエロが再び現れた。あいつは私以上に私のことを知っていると言った。堂々とカフェに行けばいいと言った。私はある種の秩序に守られていると。
行けばどうなるだろう、と思った。
年上のガールフレンドは間違いなく私に気付くだろう。どうして私がここにきたのか訝しむだろうか?
同僚の美術の先生に誘われたのだと、本当のことを言うしかない。
どうして私が誘われたのだと思うだろうか?私たちの仲を怪しむだろうか?
先生はどうだろう?生徒の中に私の知り合いがいて、そのことを私が知らずにやってきた。その豊満な体つきをした生徒と私は随分と仲が良さそうだ。どういう関係なのだろうと思うだろうか?
年上のガールフレンドはこれからも私と会ってくれるだろうか?
いや、私が本当に欲しいのは先生の方だ。
でも、先生の教室には年上のガールフレンドがいる。もし、私と先生が付き合うようになったら、先生の仕事に差し障りがあるだろうか?




