悪魔
ピエロは私を見るなり、ニヤリと笑い、絵の中に吸い込まれるように消えていった。
顔があったところには、黒い渦が巻いている。
私は近付き、渦に向かって手を伸ばした。
一歩一歩、私は絵に近付いていく。伸ばした手の先が、渦に吸い込まれていく。私は近付くのをやめない。
手首から肘、肘から肩へと、抵抗なく吸い込まれる。
これ以上進むと壁にぶつかるという距離から、私はさらに一歩踏み出した。
渦の中から、黒い手が何本も出て来て、私の全身を包み込む。
黒い手は黒い光の奔流となり、濁流に飲み込まれるように、私は一瞬にして絵を抜けた。
絵の中は極彩色の世界だった。
おそらく絵の中で使われているであろう、全ての色が、三百六十度渦を巻いて流れていた。
その中に、一本の獣道のような道が、鈍い黄金色に光って見えた。
かろうじて見分けられるその道を、私は辿っていった。
前後左右の感覚がよく分からないが、足がそこに着いているという感覚は普段と同じなので、普通に歩いていくのと同じ動作が出来た。
しばらく真っ直ぐに歩いていくと、道は下へと降りる階段に変わった。
一段ずつ下っていくごとに、段々と黄金色が輝きを増してくる。
鈍く、くすんだ黄金が、透明で、眩い色に変わって、光を増してくる。
やがて目を開けていられないほどの強烈な光になって私を包み込んだ。
それでも私は降りるのをやめなかった。周りは真っ白の光に包まれ、もはや何も見えない。
もうこれ以上、進むのは無理だと思い始めた頃、急に足下が平らになった。
しばらくそこで立ち竦んでいると、徐々に目が慣れてきた。
ぼんやりとした輪郭が浮かび上がり、周りがどんなところかが大体分かるようになってくる。
少しずつ、音も聞こえてくる。どうやら近くに川が流れているらしい。せせらぎの音がする。
木のようなものがいくつも見える。
私が立っている場所は、柔らかな芝生のような感触であることに思い当たる。
空気は冷たく、冬の朝を思わせるような清浄な空気であるが、不思議と寒さは感じない。
白い光は随分と薄くなり、濃い霧の中にいるような感じになっている。
前方に、大きな物体があるのが分かった。
最初、岩かと思ったが、微かに上下動をしている。
しなやかなその動きは、大型のネコ科の動物を思わせた。
その隣に、人の形をした影が浮かび上がった。片手をその大きな動物の首に当て、撫でるような動作をしている。
緩やかな曲線で凹凸を描いたその身体の持ち主が誰か分かったとき、一瞬にして白い光が消えた。
娘だった。娘は、絵の中で見たのと同じように、一糸まとわぬ姿で私の前に立っていた。
大きな動物に見えたものは、獅子だった。ただ、こちらは娘の絵にあった七つの頭を持つ獅子ではなく、母親の絵に描かれていた、穏やかな表情をした獅子だった。
先に口を開いたのは、娘だった。
「先生」
娘は私に裸を見られていることを、全く意に介していない様子で言った。
「探したよ。美術部の顧問の先生と一瞬に君のことを探していたんだ。君のお母さんが心配して僕に電話してきたんだ。僕がこんなことを言っても、何を言ってるんだろうって思うかもしれないけど、悪いと思っているよ。君は僕とお母さんとの関係を知っていたんだろう。だから僕の顔を獅子の顔に描いたんだね。おそらく、そのことで君を傷付けてしまったと思う。生徒のお母さんと関係を持つことはいけないことだった。君のお母さんとは、もう会わないって約束するよ。本当にごめん」
私は娘の顔だけを見て話をした。生徒に特別な感情は持ち合わせてはいないが、どうしても気になってしまう。
「先生、それ、本心じゃないでしょう。どうしてさっきから私の顔ばかり見るの?先生はお母さんの身体が目当てだったんでしょう?私の身体は、お母さんより魅力的に思わないの?」
娘の返事は、意外だった。
「ねえ、もっと見てよ。先生が一番したいことはこれでしょ?もっと見てもいいのよ。女子高生の裸を見せてあげる」
娘は獅子の背に腰掛けると、ゆっくりと股を開いていった。片方の足を、膝を立てて獅子の背に乗せる。
「やめなさい!早く降りなさい」
娘は、まるで重力などないかのように、フワリと地面に降り立って、宙を浮くかのように私の目の前にきた。
細い両腕が伸ばされ、手で私の首を絞める格好をした。
「首輪をかけてるみたいね。どう?外したいなら外せるはずよ。先生の方が力が強いんだもん。でも、先生はこの首輪を外さないわ。私と一緒にずっとここにいるの」
「どうしたんだ?君は僕のことが好きなのか?」
「先生のことなんか全然好きじゃないわ。先生、質問。好きでない人同士は一緒にいちゃいけないの?ママは先生のこと好きなの?テニスのコーチのことは?他にも男がいるわよ。先生の知らない人、あと三人も」
やはり獅子の顔に描かれていたのは全員そうか。




